遊煩悩林

住職のつぶやき

お金の興味

2008年02月26日 | ブログ

「お金に興味がある」というとついつい「金儲け」を想像してしまいますが、「旧2円金貨が3210万円」という記事を一考して、1枚の金貨に価値を見出す 「興味」も面白いものだと思いました。私も決してお金に興味がないわけではありませんが、私の場合は、金儲けや貨幣の価値というよりも対価としての価値、 つまり「ものの値段」、物価への関心からくるお金への興味です。「金銭欲」というよりは「物欲」というのでしょうか。(物欲の象徴が金銭だとすればどっち も同じですが・・・)ただ「お金」に対する感覚は、「モノ」に代えてこそはじめて意味を持つような意識が強いので、極端にいえば「それだけ持っていても しょうがないもの」と思ってしまいます。ですけど「ないよりはあったほうがいい」という感覚も同時に持ち合わせているわけです。使わなくては「紙切れ」だ と思っていても、常にその枚数は気になります。
日々、限られた枚数の中で生活をしていますから、できるだけ枚数を減らさぬように、あれが安いこれ が安いと、ついつい安いものを探します。最近はあれも高いこれも高いとしか感じなくなりましたが・・・。それでも「ブランド」と名のつくものには、高級なものでもついつい 惹かれてしまいます。食べるものでも着るものでも何でもそうです。高級だから惹かれるのかもしれません。
もし「ブランド」がないと安心できないものがあるとすれば、モノの本質を見分けられない証拠 なのでしょう。同じ商品でもロゴやタグがつくことで安心しているとすれば、ちゃんとそのものの価値を見ていないということでしょう。モノを見ずにロゴやタ グだけを見ていれば「偽物」にも気づきません。そんな価値観しか持ち合わせていないのだと改めて思い至りました。
「本物を知らなければ、偽物かどうかも分からない」といいます。食べるものでも着るものでも住むところでも、そしてその象徴である「お金」でも、また宗教も、です。
物 事の価値基準の根底には、ご本尊があるのではないかと思うのです。「本尊」つまり、その人が何を本当に尊いこととしているのかということです。仏像など はお金を出せば手に入りますが、本尊は「もの」ではありませんから価値基準の対象にはなりません。ですが何を尊きこととするかによってその人の価値基準が 決定されていくわけです。その人が本当に大切にしている事柄であれば、それに対する対価というものは惜しむことはないでしょう。
100万円で購入した仏像 も、雑木を彫ってつくった仏像もどちらとも「ご本尊」といただくことができます。本尊は価値を超えたところの事柄です。そのご本尊を荘厳するためにスーパーの安売りの線香を「線香臭い」といいながら薫じるのか、何万円もする香を焚くのか、一体どちらがもったいないと感じるかということことから「私」の正体が「ご本尊」から照らし出されてくるのでしょう。決して高価なお香を荘厳するから「いい」とか「悪い」とか言いたいのではありません。
「お金で買えない価値がある」という清潔 感を漂わせる謳い文句が、クレジット会社のものであるところが何か皮肉めいているように感じてしまう自分こそ、ひねくれ者なのかもしれませんが、この言葉 は「お金で買える価値がある」と1セットなわけでしょう。しかしその価値の判断基準はそれこそお金で買うようなものではありません。収入と支出のバランス とかいうやりくりの問題でもありません。何がお金で買える価値で、何が買えない価値なのか。買えない価値を見出したとすればそれはどんな価値なのか。そしてどうしてそれに価値が見出されてきたのか。考えてみたいものです。
何を大切にして生きているのかということが、自然に自分の姿と行動に表れているのです。

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価値の基準

2008年02月25日 | ブログ

今朝の朝刊(2月25日/中日新聞)に「旧2円金貨が3210万円」という話題が掲載されていました。
財務省が24日に開催した金貨のオークションで、明治13年の旧2円金貨が3210万円で落札されたそうです。この記事をどう読もうかとトイレの中で考えました。
まず気になったのは「旧2円金貨」とわざわざ「旧」がついていること。これを調べていくと近代金貨の歴史の一端を知ることができました。
明治政府はそれまで流通していた金銀銅の貨幣や、藩札、太政官札、民部省札などの紙幣などの多種多様な貨幣・紙幣の状況を改善するために、明治4年に「新貨条例」を公布し、それまでの「両」から「円」に通貨を変更して、金本位制を採用します。純金1.5gが1円と定められたといいますから、2円金貨には3gの金が含まれていることになります。この条例下でつくられた旧20円、旧10円、旧5円、旧2円、旧1円が「旧金貨」と呼ばれているようです。
それに対して明治30年に「貨幣法」が公布されて以降の金貨を「新金貨」というそうです。この時は新20円、新10円、新5円が発行されたそうですが、「円」の「金」に対する価値が半分に切り下げられたので、新20円には、旧20円の半分の15gの金しか含有されていません。旧金貨は当時でも新金貨の倍の価値で流通することになったそうです。例えば同じだけの米を買うのに旧20円金貨であれば倍の米が手に入ったのか、それとも・・・?ですから、一概に当時の2円が今でいういくらになるのかというのは難しい質問です。ついでにいうと、新貨条例下では1円=1ドルだったそうですから、到底いまのレートに換算するのは困難です。
当時の1円の価値を推測するには、物価水準を比べてみた方が分かりやすいのかもしれません。たとえば、金と交換できる本位制を採用した明治4年に明治政府が「円」を制定した時のレートは、1円=金1.5gでしたから、現在のレートを1g=3300円とすると、当時の1円の価値は約5000円になります。明治30年公布の貨幣法でのレート1円=0.75gであれば約2500円。明治5年ごろ東京では白米10kgは36銭、2円金貨1枚で55kgの米が買えたという資料もあるそうです。
一方で、同じ頃の東京銀座の4丁目交差点の実際の売買価格が1坪5円だったそうです。つまり、2円金貨1枚は銀座の土地0.4坪ということになります。0.4坪は1.32平方メートルですから、現在の銀座4丁目「山野楽器銀座本店」の1平方メートルあたりが3000万円だとすれば、今回の旧2円金貨の落札額は妥当なところにも思えてきます。
いずれにしても、何に価値基準を置くかによって今回の「旧2円金貨」の値段が高く感じたり安く感じたりするわけです。そんなこんなで希少価値の高い近代金貨の中でも、発行枚数が87枚という「明治十三年旧二円金貨」が3210万円で落札されたということです。ちなみにこれらの近代金貨は「貨幣法」が改正された昭和62年まで貨幣として有効でしたが、現在は貨幣としては使用できないそうです。
さてこの話題、お感じになることは人それぞれでしょうが、「ただの2円玉」をそんな値段で!と信じがたい人もあるでしょう。また、3210万円で 買っていくらで売れるんや?という人もいると思います。実際に落札した人が一体どんな価値観の持ち主で、何を目的にそれを手に入れたのかということも分か りません。ですが、この話題によって私自身の価値観とその基準がどこにあるのか問わされてきました。

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郷土愛と自尊

2008年02月17日 | ブログ

Img_5182_2光内聖賢氏の講義のあと、ご住職のご案内でフィールドワークを行いました。
まず、川を視察しました。この川は昭和の初め頃までは他の港へと流れていたそうです。 川によって運ばれる土砂は魚港を抱える住民にとっては悩みの種であったのでしょう。昭和12年、この川の流れがねじ曲げられ、被差別部落のわずかばかりの田畑に向けられたのです。これらの田畑は部落外の地主から借りたものに過ぎませんでした。地区住民は半農半漁の生活をされておられたそうですが、自分たちの土地を所有していない住民の反対行動はむなしいものでした。
結果この地区は川を挟んで両側に分断されてしまい、田や畑を失い、この地区の港は流出する土砂に埋もれていくことになったのです。川のつけかえによって発展が大きく妨げられてきた地域にあって、その後の同和対策事業の実施による住環境の整備や、観光施設の建設などは一定の成果を果たしたといいます。Img_5196
(一方で対策事業の名を借りた公共事業の乱発行政は高知だけに限らず四国中で行われてきたと、先の講義で光内氏は語っておられました。同和対策、つまり部落の生活改善と称して国の対策事業費に「悪のり・横取り・便乗」した公共事業が横行したと強く歎いておられました。)
次に海岸に近い観光施設等を見学しました。シーズンオフということもあり閑散としていましたが、 対策事業によって運行されたグラスボートに乗せていただき、全国ではじめて海中公園(国立公園)に指定されたという海を見学しました。
海中の見事な珊瑚礁群と長い風土によって築かれてきた海岸線の岩々が演出する風光はまさに明媚でありますが、そこに暮らす人たちが受けてきた差別の歴史を思ったときに、波と風に削り取られてきた岩がかもし出す美しさが妙に重なって見えました。Img_5221
差別に耐えるだけでなく、立ち上がってこられた方々のご苦労の結果、どんな差別の現状にあろうとも郷土を愛してこられた方は勿論のこと、この土地に生まれたことをもしかすると呪ったこともあろう人々の意識も、地元の海や山を愛する美しさへと変貌してきているのではないかと感じました。
耐え難い差別の現状にあって故郷を捨てる人が少なくない現状にあって、郷土を大切にしておられる方々の姿に「自尊」の尊い精神を感じます。見た目に露骨な差別はなくなってきたといわれる昨今、「こころの差別」を一人ひとりが自覚し解消していく歩みが願われます。今回四国を訪ねて事実、その願いを実践される方々に出会うことができました。
翌朝「南風」に乗って四国をあとにしました。四国で出会った若手のメンバーとは、それぞれがそれぞれの場所で地道な歩みを続けつことで、またいつかどこかで出会っていける、そんな活動を続けていきたいと思います。
日本全国津々浦々、親鸞の念仏の教えが生きている。
真宗大谷派同和関係寺院協議会のスローガンは「差別に苦しむものがひとりでもいる限り、その差別からの解放を自らの課題とする」です。

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知らずにいたこと

2008年02月16日 | ブログ

7日朝、開会式に引き続いて講師である光内聖賢氏から、高知における教科書無償闘争についての講義をいただきました。
私の年代からすれば、小中学校の教科書は当たり前のように「タダ」であったわけですが、その当たり前さえも意識することがなく、教科書を受け取り、義務教育を受けてきたというのが正直なところです。
今から45年ほど前は教科書は有償でした。当時、実際に教科書を買った、もしくは買ってもらったという方もおられることと思います。単純に考えても、当時、義務教育を受けるのに必ず必要な教科書が無料になるのであれば、すべての国民がすんなり賛成しそうなものです。
もちろん行政サイドからすれば、すべての子どもに教科書を無償で与えるとなると相当の財政支出となりますから「反対」というのも分かります。実際に当時の文部省は、憲法でいう「義務教育はこれを無償とする(第26条)」というのは「授業料の不徴収をいうのであって、教科書無償支給の義務なし」と回答しています。全国民の要求であれば、文部省のこのような回答など実質的に意味はないでしょう。ですが、実際に子どもを持つ親の中に教科書無償化に反対をされる人がいたわけです。それはいったいどういうことなのでしょうか。
Img_5176 1961年、部落解放同盟高知県連合会は教科書無償化要求の方針を決定し、県下3地区を拠点に「小中学校教科書をタダにする会」を結成して運動がスタートします。それは、貧困を理由にして教科書をタダにしてくれという要求でなく「義務教育はこれを無償とする」という憲法に基づく運動です。つまり、安定した職に就けずにいる被差別部落に育つ子どもたちの教科書だけをタダにしようとする運動ではなく、すべての子どもたちに無償で教科書を届けようとする運動です。子どもたちの教育を考えたときに、この運動はすんなり全国に波及し浸透しそうなものです。しかし「運動」は「闘争」へと発展し長期化することになります。
長期化の原因は「差別」です。自分とその家族の利益を感じて教科書の不買などの運動に参加した人々が、その差別心からくる不安によって反対、または沈静へと転じていくのです。「こんな運動をするのは、部落のものばかりじゃ」という、ごく一部の反対者の扇動によって運動が分断されたのです。
教科書の無償化を求める一方で、このようなことばによってその態度を一変させるような意識。いま、私たちは当然の権利として教科書を無償で手にすることができますが、かつてそれを躊躇させた意識が今の時代に完全に払拭されたといえるかどうかが問われます。
闘争の結果として、この運動の正しさは全国に広がり、1964年以降すべての子どもたちに無償で教科書が配布されるようになりました。ですが、私たちが手にしてきた教科書には、ここに表現するだけにとどまらない被差別部落の状況と、それらを取り巻く環境の中での血のにじむようなご苦労があったわけです。
今回、土佐の地を訪れて、いかに自分が何も知らないところに生きているのかということと、何も知らずにいるにもかかわらず、与えられたものにさえ文句をいっている自分自身の恥ずかしさ、そして憲法を無視し、基本的人権をを踏みにじり、義務教育を受けることさえも奪おうとしたもの。今同じものを私自身が持ち合わせていないだろうか。同時に昨年の現地研修で訪れた熊本で教えられた「知らないことの罪」を、今年も深く自覚させられた現地研修でした。つづく

2007年現地研修のつぶやき

「暮れ葬」http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20070430
「水俣病事件」http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2007/05/post_b897.html
「水俣病と私」http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20070502
「水俣病を問うこと」http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20070503
「水俣病のおかげで」http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20070504

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土佐へ

2008年02月15日 | ブログ

2月6・7・8日の3日間、真宗大谷派同和関係寺院協議会(以下「同関協」)の現地研修に行ってきました。
今年度は「義務教育教科書無料化闘争発祥の地を訪ねて」と題して、その闘争の発端となったといわれる四国高知県に足を運びました。
毎年、現地集合・現地解散が恒例となっている同関協ですが、今回は場所が場所ということもあって本山からバスで行くという案もあったのですが、バス利用者が定員に満たず、やはり現地集合に・・・。
Img_5154 6日朝、近鉄電車と新幹線を乗り継いで岡山へ。12時52分発の「南風11号」に全国からの参加者が乗り合わせました。岡山からは瀬戸大橋を渡って延々4時間。讃岐・阿波を抜けて土佐高知へ。JR四国から土佐くろしお鉄道に乗り入れて中村駅に到着したのが17時を過ぎたころ。
そこから車で1時間ほど走ったところに、今回の目的地である足摺岬がありました。岬といっても、すっかり日が暮れてからの到着で辺り一面真っ暗。
今回は2泊3日の研修日程ですが、1日は行くだけ、1日は帰るだけです。
バス・鉄道以外に空路という手もあったのですが、高知「龍馬空港」は高知市のやや東にあるそうです。足摺岬は西の端・・・。空港からは車で3~4時間かかるそうです。
しかし出迎えてくれたご住職は本山の職員で、非常勤ではありますが月に何度も往復をされておられます。今回足を運ぶことでその交通事情を知っただけでも、そうして宗門の解放運動を引っ張ってこられたご苦労に頭が下がります。
6日夜、今回の講師である光内聖賢氏(元部落解放同盟高知県連合会書記長)をお招きし、同関協の会員と四国教区の教務所長をはじめ教務所員、地元土佐組の寺族と本山のスタッフで懇親会がもたれました。同関協のメンバーこそ全国から11名の参加でしたが、地元四国教区と土佐組からは会員を上回るご参加をいただきました。中には親子でご参加いただいた方もありました。驚いたのは、高知県は1県で大谷派寺院20ヶ寺が土佐組(とさそ)という組織を形成しているのですが、東西に長い高知県、その組内の移動だけでも西から東まで車で4・5時間を要するそうです。そんな状況下において地元からこれだけのご参加に、解放運動に対する意識の高さを感じずにはおれません。
また、若手寺族の参加者が多かったことも刺激になりました。彼らは自坊の法務の傍ら本山の補導職を勤めたり、また地元でダイビングのインストラクターをしたり、サーフボードの加工をする仕事をしたり、などお寺から切りはなれないところで生計を維持しています。
若手の寺族にとって経済基盤の確立のために、お寺を離れて仕事に就くことが余儀なくされてきている現状において、彼らの寺に対する意識は非常に高いものです。
酒を飲みながら彼らの一人が発した言葉が記憶に残っています。
「もっとお寺のことがしたい」
そんな彼らの車に便乗して翌日、土佐清水市において現地研修会が開催されました。

つづく

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