遊煩悩林

住職のつぶやき

宗教の社会倫理

2006年04月28日 | ブログ

来年度開催される特別伝道研修会のスタッフ学習会が常照寺にて昨晩、開催された。第3回目のテーマは「現代と真宗」。
講師の尾畑文正先生(同朋大学教授)は、まず「現代」を「現実的社会問題」と捉えて、また「真宗」を「宗教的問題」と広義に置き換えて、この2つの問題を切り離さずに問うていく姿勢の重要性を述べられ、そしてそれが真宗の仏教であると提言された。
また、「宗教」は「教え」であり、それは個々人が生きる方向を意味しており、「現実」とは「私」の存在そのものであるとして、その双方による往復運動、つまり教えによってわが身が問われ、また現実的存在としてのわが身を教えに照らしていく作業の必要を説かれた。

かつての仏教は「山の仏教」であった。「山」というのは、たとえばかつての比叡山や高野山に象徴されるように、いわゆる俗世間と断絶されたところでしか、仏教が語られなかったということである。
親鸞はその比叡山で20年間修行を重ねた後に山を降りた。それは仏教は一部の限られた人のものでなく、広く民衆の生活の中に生きる教えであることを覚られたからといってもいい。
800年過ぎた今でも、宗教を「現実から目を背けさせる道具」にしようとするものを現代社会は持っているが、尾畑先生は「念仏は現実から目を背けさせる精神安定剤ではない」と明確に否定される。
そして先達の言葉を引かれて「新聞と聖典のはざまに身を置く」生活を提起された。つまりそれは新聞に象徴されるように、私たち一人ひとりが形成する現実社会の問題から目をそらすことなく、生きる方向を教え(聖典)の中に見出していくあり方である。
そして真宗大谷派が現代社会に対して発信してきた声明を手がかりにして、現代と真宗の接点を提起された。1982年から20年の間に大谷派は60もの声明を発表してきた。核兵器、ハンセン病、靖国、臓器移植、死刑、不戦、原発、などすべて現代社会が直面する問題に対してである。

ただ、これらの問題提起が教団としての言葉上のアリバイ工作でなく宗教的精神の現実的機能であるために、社会との関わりの中で学ぶ真宗の教学が展開されなければならない。

としたうえで、このことを踏まえて「現代と真宗」というテーマにおいて以下の問題提起をいただいた。

これらの問題に対して発言してきたこと全体が実は、現実の真宗大谷派教団を問うているのであり、浄土真宗なる仏教の存在の意義を問うているのである。まさしく教団の、教学の社会倫理が問われている。

のだと。真宗という仏教の社会的倫理を問い明かしていくこと、このことが念仏者として生きる真宗門徒の責任といえよう。その責任を果たさず葬式・年忌でしか関われない寺と門徒のあり方も同時に問われることである。

最後に念を押された。「本講座ではもっと具体的に分かりやすく講義をします」。本講座は来年開催されます。受講希望の方、また興味のある方は気軽におたずね下さい。

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犠牲と対策

2006年04月26日 | ブログ

兵庫県尼崎市で起きたJRの脱線事故から1年。
自分がこの路線に乗り合わせる状況など考えもしなかったが、この半年だけでも友人の見舞と葬儀に、JR尼崎駅を2往復する機会があった。無事に帰って来れたのは多くの犠牲の上でのことである。
社会は数えきれない犠牲の上に成り立っている。社会には犠牲の代償としてしか対策が講じられないしくみがあるといってもいい。身近なところでいえば、事故が頻発する交差点でも、死亡事故が起こるまで信号機が設置されないといった具合に。
報道各社がこぞって事故後1年の鉄道会社の対策状況を伝える。
事故の教訓はATSという自動列車停止装置が取り付けられていなかったことという見方がある。
ATS装置がこの1年間でどれだけ装備されたかといったことは報じられるが、運転士や車掌、そしてそれを取り巻くすべての人的環境の見直し状況はあまり伝わってはこない。
事実として、同じ列車であっても運転士は毎日同じではない。誰が操っても安全な設備・装備が求められてしかるべきであるが、それは運転士の技量を上げていくことが大前提であるし、そこが最重要課題である。
装備が進めば、技量は落ちる。問題はいかに操っていくかということである。そこで装着が進むというのが、運転士の操作技量をチェックする装置なのだという。コンピューターが記憶する情報をもとに運転士の運転状況を管理するという。
ATSといいこの装置といい、鉄道会社がどれだけの予算で対策をしたかということ、どれだけハード面にお金をかけたかということが表に出るが、操作する人間のメンタルな部分のケアはどうなっているのか。
本来、すべて人の営みに借りていた科学技術の力が、逆に人を管理し、それに合わせるかたちで人の営みが行われていく感がある。それが安全のための対策といえるかどうか。
コンピュータがさまざまな作業をこなす今日、人間の前頭前野が退化をしてきているともいわれる。人類の進化の過程は前頭前野の進化ともいわれるのにもかかわらず。科学技術とともに人間の意識の向上をはかりたい。
「人間らしい」生き方とはどんなことかを考えさせられる。私たちは「いま」という時を生きているのであるが、それは「今さえよければ」ではない。「いま」の連続が未来を形成している。
犠牲者や被害者とその遺族にはどんな未来があるのか。それはどんな「いま」を生きておられるのかということである。
安全のためにどれだけ対策が講じられても、失った犠牲と比べられるものではない。
チェルノブイリの原発事故から20年の今日でもある。この事故の原因も原子炉の自動停止装置を解除するなどの人的要因が重なったことによるという。
被曝による犠牲者は未だに増え続け、石棺に封じ込められた放射能の対策は進まないまま未来へと手渡されている。

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2006年04月25日 | ブログ

本山から「同朋新聞」という新聞が発行されている。内容は、教えのことばや法話、宗門・本山の行事や動き、コラムなど盛りだくさんの内容で全8ページ、毎月1日付で発行されている。
毎号月末に届くので、常照寺では28日さまの集いや毎月第1金曜日の同朋会でお配りをしている他、月参りなどに持参してご門徒にお読みいただいている。

その同朋新聞の5月号が今朝、手元に届き、早速ひととおり目をとおす。
毎月、紙面には「時言(じげん)」というタイトルのコラムが掲載されている。タイトルのとおり「時の言葉」、今という時の時代社会的な問題をとり上げて、仏の教えの立場からそれらの問題を見つめる観点で論じられている。

「格差社会」という見出しの今月の「時言」に、日経新聞に掲載されたある著名な経済人の言葉が引用されていた。

問題は成功者に嫉妬し、引きずり降ろす力が日本社会に強いことだ。(略)成功者を尊敬し、それを目標にして自分も頑張ろうという「称賛の経済学」に転換すれば、今以上に社会が活気づくだろう

時言ではこの経済人のことばには、自身の「引きずり降ろされてたまるか」「もっと尊敬されていいはずだ」という想いが見え隠れする、と指摘している。そして

格差とは、差をつける側から作られるものであって、差をつけられる側から作られるものでも、何となくできるものでもない

と提言されている。
ここでは経済的な格差が論じられているが、ふと考える。格差の「差」は、差別の「差」でもある。
同じように「差別」は、差をつける側からしか生まれない意識である。

時言では、仏の教えを「光」として引用して、こう結ばれている。

差をつけることを無上の喜びとし、その差をつける者を尊敬しろという社会の虚構を照らし出す光

仏さまの教えというと、差をつけられた側を慰めるもののように受けとらがちであるが、そうではない。仏の教えは、差をつける側の「偽」を映し出すはたらきなのである。

(「同朋新聞」購読希望の方はお申し出下さい)

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つながりを生きる

2006年04月22日 | ブログ

1967年11月、真宗大谷派の難波別院輪番による差別事件が起こった。この事件によって部落解放同盟から8回の糾弾を受け、宗門内の差別的体質が厳しく問われることになる。この問いかけは、現在でも宗門の掲げる同朋会運動がその名のりとしている「同朋」の内実を根本から問い続けている。
真宗大谷派の寺院は協力して同和関係寺院協議会(以下「同関協)を発足して、本山の同和推進本部(現「解放運動推進本部」)と連携しながらこの問いを課題にし続けている。
国の行政レベルにおいては同和対策法の期限切れによって同和事業が終了したが、それと同時に部落差別は克服されたかのような政策にシフトしてきているといえる。その流れは宗門にもあり、それまでの同和推進本部が解放運動推進本部という名称に移行する中で、人種差別や女性差別、ハンセン病や障害者の差別などありとあらゆる差別問題を抱え込むカタチとなっている。しかし、もともとは同和問題、つまり部落差別問題に取り組むための部署であったわけである。現実的にさまざまな人権問題を扱わなくてはならない現状で、部落差別という問題だけを問題視するわけにはいかなくなってきたことで、実際にこの問題に取り組む姿勢が薄れてきている感が否めない。
部落差別問題は解決したか。残念ながら解決にはいたっていない現状がある。
この現状を踏まえて同関協は毎年、全国の被差別部落に足を運び現地研修を行っている。実際に足を運び被差別寺院の現状や、地域の事情を住職やご門徒の方々にお聞きし、そこで見聞きした差別を自らの課題とするとともに、その現状を宗門に伝える責務を同関協という組織は果たしているといえる。
その現地視察が20・21日の両日にわたって開催された。今年度の会場は滋賀県の大津市である。実際に足を運び見聞きしなければ知ることのできない事実を、協議会の一員として聞かせていただいた。その事実は今なお眼前にある生々しい差別の現実である。
生々しい現実をお話し下さったご住職のことばが印象に残る。

「組織」とは、縦や横のつながりによってはじめて「組織」であるが、つながりたくてもつながらない現実がある。

そのようなことばを踏まえて今、「組織」を「人」に置き換えてみる。Img_3382_1
「人」は、人と人の間を生きることで「人間」となる。人と人とのつながりが人間を人間たらしめている。そのつながりを絶っていくということは人ではあっても人間でない。
「私は差別なんかしていません」というところに往々にして生きている。それはただの無自覚に過ぎない。私は無自覚の差別性をもって生きているということを思う。

 

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お木曵初式

2006年04月14日 | ブログ

Img_3368_1 
伊勢ではお木曵行事が盛り上がってきている。
伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮に向けて、地元の住民が新社殿の造営に必要な用材を神域に曵き入れる行事である。
12日は内宮周辺で五十鈴川を曵く「川曵(かわびき)」が行われ、13日は外宮に陸曵(おかびき)」が行われた。
ちょうど常照寺の山門前の道路が陸曵のルートになっているので、朝から夕方まで各地区の奉曵団(ほうえいだん)のお木曵車が次々と「エンヤーエンヤー」と威勢よく山門の前を通過していった。
寺の前の道はお木曵の列が途絶えるまで通行止めになるので、車でご参詣の際はご注意をいただきたい。

 

ところで、陸曵のルートにはほとんどトイレがない。お寺はこの行事には無関係ではあるが、奉曵団の方々には境内のお手洗いを解放して使ってもらっている。
だけど残念なのはその使い方のマナーである。いちいち細かいことは常識的なことなのでいいたくないが、あまりにもひどい使われ方である。
もちろんみんながみんな非常識なわけではない。中には山門をくぐるときには合掌して、私たちに一声掛けて使われる方もある。
13日は前住職の命日で、毎月有志の方が清掃に集まってくれる。お木曵の方が気持ちよく使ってもらえるようにという気持ちで、ご門徒がきれいにしてくれたばかりの洗面所である。
とくにその汚され方に、神宮に納めるご用材を曵く人たちの心模様を思う。
ご用材を神域に曵き入れる奉曵団はお祓いをして身を清め、禊(みそぎ)をすると聞いているが、何のための禊(みそぎ)か。神さまの社殿を建造するご用材を取り扱うことに対する畏敬の念を自覚させるためではないかと思うのだが、あまりにも自覚が足りない。
お清めと称して酒を飲み、道中を汚して回る。それがお木曵。
少し厳しい言い方だが、汚れた便座をきれいにしに来て下さるご門徒のこころを思うと言わずにはおれない。
お木曵行事は20年に1度。今回で第62回の遷宮になるという。
今回の曵初めがお木曵初式で、来月5日から約1ヶ月この行事がつづく。神領民との名に相応しい行事でありたいと思う。

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