遊煩悩林

住職のつぶやき

出家と家出

2014年04月04日 | ブログ

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「あっ!」という間に過ぎていった感のある3月。諸々の行事の告知をしたまま、何のご報告もなく4月になってしまいました。
東日本大震災の「勿忘の鐘」、彼岸会、そして教区・別院の御遠忌法要などなど。
いずれも、お参りいただいた方々とともに大事なことを学ばせていただいたはずですが・・・。
それぞれの行事はそれぞれ内容がそれぞれ違うのですが、一環しているのは、人間に生まれて大事なことって何だろう?ということと、人間に生まれてよかったって感じていますか?という2つの問いに向き合うことかなと思います。
忙しい日常の中で「人間に生まれたことの意味」を問うことも、多くの苦しみと悲しみの中で「生まれてよかった」という実感も、自分の中からは見出し難いことです。
ですが、だからこそ震災を縁として、彼岸の世界を縁として、御遠忌を縁として問われてきます。
必ず浄土に往生することを知らせてくださった親鸞さまの教えをとおして、彼の岸を浄土として確かめ、震災で亡くなっていかれた方々の声を、お浄土の声として聞かせていただく、それがその2つの問いかけではないでしょうか。

「赤本と新聞の間に身をおきなさい」と言われたことがあります。
「赤本」というのは「真宗聖典」という浄土真宗の聖典です。「新聞」は文字どおり「新聞」。
「赤本」は教理です。「新聞」は社会、世間といってもいいのでしょう。本当の記事か、偽物の記事かということも含めて、つまり「赤本」を真の世界、「新聞」を私たちの生きている偽の世界として。
その間に身をおけというのは、物理的なことではなく、精神的スタンスです。そのスタンスを軸に具体的な生活を営んでいきなさいということです。
社会生活の中でお念仏の教えを聞いていきなさいと。
偽なる生活の中にしか、真の念仏は響いてこないということかもしれません。
出家した僧侶が山の中に籠って教理に浸るのではなく、かといって損か得か、勝った負けたという世間にどっぷりと浸かるのでもなく。いや、どっぷり浸かりながらその自己を問うて生きなさいという励ましです。

いま世間は「死を尊ぶことができなくなってきた」といわれます。
宗派が実施した「教勢調査」によれば、右肩上がりの死者数に対して、葬儀・法事の執行率が下がっているというのが、いま私たちが生きている社会の現実です。
その現実から逃げ出して山の教理に籠ることを出家とはいわないのでしょう。それは現実逃避であり、家出です。
その社会を構成している一人の人間として、そのことからこの自分の何が問われているのか、その問いを明らかにすることが求められてきます。
「死ぬ」からこそ尊いこの生命であるにもかかわらず、死を尊ぶことができないということは、そのまま「生」が尊べない、生きていることの実感もよろこびも見出せない状況といってもいいのでしょう。
教勢調査の「死を粗末に扱う社会は 生を粗末にする社会である」との報告を受けて、今月のお寺の掲示板には

死を粗末に扱うことは
生を粗末にすることだ

と記しましたが、まさにそれは現実社会に生きつつ、浄土の声を聞いていくことの大切さ、つまり「赤本」と「新聞」の間に身をおくということの具体的なテーマではないかと思います。
親鸞聖人の七百五十回御遠忌を経て、今この時代社会に生きる人間としての生き方として、その実践的生活が私自身に求められています。

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