遊煩悩林

住職のつぶやき

法然と親鸞

2007年11月29日 | ブログ

2011年の法然上人800回大遠忌、そして親鸞聖人750回御遠忌を記念して、劇団「前進座」による「法然と親鸞」の特別公演が全国主要都市で上演されます。http://www.zenshinza.com/
そこで、常照寺の所属する三重教区南勢1組においては、来年3月に名古屋中日劇場で上演される舞台の観劇を募集することになりました。
期日は2008年3月18日および24日の両日で午前の部を300席ほどご用意しています。
公演は午前・午後の2部制で、「午前の部」といいましても、第1幕が午前11:00~11:55まで、第2幕が12:20~13:05まで、そして第3幕が13:20~14:20までの観劇です。
チケット代は、真宗大谷派後援ということもあり、通常11,000円のところを8,800円でお求めいただけます。
また、昼食については第1幕と第2幕の間の休憩時間にお弁当を用意します(別途1,000円)。
劇場までの移動は、基本的にバスにお乗りいただくこと(別途2,500円程度)になりますが、自家用車や電車をご利用いただいても結構です。(バスの乗車場所、出発時刻は参加者確定後お知らせします)
ご門徒の皆様におかれましては、後日要項を送らせていただきますので、お家族や親族、お友達など、お誘い合わせの上、是非ご予定ください。また、詳細につきましては気軽におたずねください。

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何のために生きるのか

2007年11月23日 | ブログ

中日春秋、東南アジアでの話。
現地のおじいさんが不思議そうな顔で、日本人駐在員にたずねる。

「なんでそんなに一生懸命働くんだね」
「そりゃ、いい給料をもらいたいからさ」
「それでどうする」
「家を買う」
「それだけか」
「出世したいね、できれば社長になりたいものだ」
「それでどうする」
「リタイヤ後のために南国に家を買う」
「で、どうする」
「決まっている。何もしないでのんびり暮らすのさ」
すると、おじいさんがひと言。
「なあんだ。それならわしはもうやっとる」

このエピソードを読んで思い出したのが、望月圭介という戦前の政治家の話。遊煩悩林でもいつか紹介しましたが、大体こんな内容。
大阪城の天守閣が補修されているときに、望月氏が視察に訪れ、そこで一生懸命作業される職人らに「毎日ご苦労さん。あなた方は毎日そうやって働いていて下さるが、一体何のために働いているのかね?」と質問したといいます。

「そりゃあんた、働かんと金貰えませんがな」
「それならその金貰ってどうするのかね」
「そりゃ、米買うんですよ」
「何のために米買うのだね」
「何のためにって、そりゃ喰うためですがな」
「ほな何のために喰うのかね」
「喰わなかったら死にますがな」と答えた時に、望月氏はさらにこう尋ねたといいます。
「喰うておったら死なんかね?」

いずれも私たちは何のために仕事をし、働くのかということを問うエピソードです。つまりそれは何のために生まれて、何のために生きるのかという問いです。
先の中日春秋は、現在の教育現場において降格を求める校長や教頭を取りあげたものですが、「こんな学校づくりをしたい」という夢を抱いて出世した教師が投げ出したくなる現場を、「降格したがる課長が増えているような会社があれば、取引先は疑念を抱こう」と、企業に例えて皮肉っています。理想と現実のはざまに苦しむ人の苦悩がそこには象徴されています。理想を抱くことさえも困難な世にあって、理想を描き、それに向かって努力することの難しさ。
私たちはいったいどうなりたくて何をやっているのか。どんな世界を求めてどんな仕事をつとめるのか。信仰の立場からすれば、浄土を願ってその歩みを果たしているのか。そして果たさせないものがあるとすればそれは何なのか。それを明らかにすることも「人」の大事な仕事でありましょう。

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人真似ばかりの輩

2007年11月20日 | ブログ

そもそも当月の報恩講は、開山聖人の御遷化の正忌として、例年の旧儀とす。これによりて、遠国近国の門徒のたぐい、この時節にあいあたりて、参詣のこころざしをはこび、報謝のまことをいたさんと欲す。しかるあいだ、毎年七昼夜のあいだにおいて、念仏勤行をこらしはげます。これすなわち、真實信心の行者、繁昌せしむるなり。

本願寺第八代蓮如上人が文明15年のこの月に書かれたとされる御文さま(第四帖第六通「 御正忌-三箇条-」)です。今年も明日から28日までの間、真宗本廟(東本願寺)では報恩講がお勤まりになります。常照寺の所属する真宗大谷派の南勢一組内の寺院でもこの期間中に4ヶ寺の報恩講が予定されています。それぞれ縁のあるお寺に「参詣のこころざし」をお運びいただきたいところです。
さて、先の御文はこう続きます。

このゆえに一七か日のあいだにおいて、参詣をいたすともがらのなかにおいて、まことに人まねばかりに御影前へ出仕をいたすやからこれあるべし。かの仁体において、はやく御影前にひざまずいて、回心懺悔のこころをおこして、本願の正意に帰入して、一念発起の真實信心をもうくべきものなり。

常照寺のご門徒内には、報恩講ということばさえご存じない方もいらっしゃると思います。全く住職の怠慢であると自覚しています。「報恩」とはいいますが、誰の、どんな恩に報いるのかをまず「知る」ところからしかはじまりません。ですが、その「知る」ことさえもままならない私たちではないでしょうか。
「まことに人まねばかりに御影前へ出仕をいたすやから」とは、私のような坊主のことをいうのでしょうが、たとえお寺に身を運んだとしても、やはり「知る」ということが抜け落ちてしまうとそれは「お参り」したことにならないのではないでしょうか。「人真似ばかりの輩」とは厳しいことばですが、私の姿を言い当てています。
仏さまに手を合わせる姿は、親の真似をして体が覚えてきたのかもしれません。しかし、いつまでも人真似ばかりのままでは、学びも深まりません。
そんなことを内心にもちつつ、縁のあるお寺さまやご本山の報恩講にお参りさせていただきたいと思っています。

2007年真宗本廟報恩講のご案内

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私が居なければという錯覚

2007年11月14日 | ブログ

我が家には一匹の飼い猫がいます。境内には毎日さまざまな姿のネコたちがウロウロしにくるのですが、飼っている自覚があるのは一匹だけです。飼われている方にはそんな自覚があるのかどうかはわかりませんが・・・。
ときに、家の中から飼っているつもりのないネコが飛び出していったこともあります。彼らは、私の姿を見て驚いて逃げたわけです。なんだかのやましい心があるということなのでしょうか。
それに比べると飼っているつもりのネコは、車の音を聞き分けて玄関に迎えにでたり、作業中のパソコンのモニターの前で毛繕いをしたり、読経や法話中に膝の上にいたり、寝る時も私が床につくのを待って、決まって私の右腕を枕にして休んでくれたりと、それなりに飼い猫としての役割を果たしているようです。
飲み過ぎて寝るのが遅くなった晩、「やれやれ」と右腕を求めて床に入ってきたネコを抱きながら思いました。
「このネコより先には死ねない」
どうしてこんなことが頭をよぎったのかは何とも言いようがありませんが、ただ、単純に私がいなければどうするんだろう、なんておせっかいにも思ったわけです。
坊守や子どもは、たとえば私が先に死んでもそこから何かを学んでいってくれることだと思っていますし、そういう間柄であるために、いまその関係を日々築いていっているわけです。
極端な言い方をすれば、妻も子どももネコも、私が居ようが居まいが、死ぬまでは生きなければならないわけです。妻や子には、私が居ようと居まいと生きていってくれる自負のようなものを感じます。朝は私が寝ている間に起きて、夜は私が起きている間に寝る。そこに居ようが居まいが「スースー」「グーグー」寝ている横顔をみているとそんな気?になります。
しかし、ネコは大抵、寝室の決まったところで子どもの寝相を見張り?、私が寝に行くとそこに来てくれるわけです。その行動は、私が「私を待っていてくれた」と錯覚をさせるには充分なものです。ネコは「死」を自覚することがないとすれば、それは人間でいうところの、ある意味悟りの境地です。だとしたら、彼は私が死んでもおかまいなく自分の居場所を見つけるのでしょう。
ただ、毎日この右腕を枕にして、ゴロゴロ喉を鳴らしながら寝るネコに、この右腕がなくなったらどうするんだなんて心配をしたわけです。よかったのはネコのことばを私が理解できないことです。でもきっとこう言っているのでしょう。
「オレはオレで生きていく」と。
これは私とネコの関係だけの話ではなくて、「オレが居なかったらどうするんだー」なんていう、自分を立てたいという煩悩が、酒の勢いで現れてきてくれたおかげで、それに気づくことができた話です。そう考えると、よっぽど家庭内で立ててもらってないのか、もっと存在を認めてもらいたがっているのか・・・。そんなふうに「酒」を肯定している私も問われます。

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おかみそり団対参拝の募集

2007年11月09日 | ブログ

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌
南勢一組 お待ち受け総上山
帰敬式(おかみそり)団体参拝のご案内

私たちは2011(平成23)年に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌をお迎えします。
御遠忌をお迎えするにあたって、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」という基本理念のもと、宗門では様々な教化事業が計画・実施されております。
現在、御修復事業として御影堂の御修復が行われておりますが、私たちの本山である真宗本廟(東本願寺)は、宗祖親鸞聖人滅後、されたお弟子方によって建立された廟堂を始まりとし、以来念仏の根本道場として聖人の木像であるの前に身をおき、聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇った幾多の人びとのその仏縁をよろこび、伝承・護持されてきました。
私たちはあらためて真宗門徒にとってかけがえのない依り処である真宗本廟に一人ひとり身を運び、宗祖親鸞聖人と真向かい、これまで歩まれた先達の報恩の歴史に思いをいたしたいと願っております。
また、仏・法・僧(サンガ)の三宝にする(おかみそり)を御真影の前で受式して法名をいただき、「ご本尊(お内仏)」を中心とする念仏申す生活の中で住職と語りあうことをとおして、あらゆる人々を御同朋御同行として敬われた宗祖親鸞聖人の御遠忌を共にお迎えいたしたいと願っております。
つきましては、帰敬式(おかみそり)受式と聞法、御修復現場の視察を行うことを目的とし、帰敬式(おかみそり)受式を希望される方を対象に「帰敬式(おかみそり)団体参拝」を次のとおり募集いたします。
どうぞお誘い合わせの上、多数ご参加くださいますようご案内申し上げます。

募 集 要 項 

○ 期   日  2008年3月1日(土)
○ 場   所  真宗本廟(東本願寺)
○ 日   程   7:00 出  発(参加者決定後お知らせします)
          9:30 真宗本廟(東本願寺)到着・阿弥陀堂参拝
         10:00 真宗本廟法話
         10:30 諸殿拝観
         11:30 帰 敬 式
         12:30 昼食・休憩・渉成園(枳殻邸)
         14:00 御修復現場視察
         15:00 真宗本廟(東本願寺)出発
         18:00 帰着(予定)
※ 日程は変更する場合があります
○ 参加対象  帰敬式受式希望者
○ 募集人数  45名(大型バス利用)
○ 参 加 費  5千円(バス・食事代)
○ 帰敬式礼金  1万円(帰敬式を受式者のみ)
○ 持 参 品  念珠、その他必要と思われるもの
○ 参加申込  2008年1月15日までに手次のお寺へお申し込み下さい
※ 参加者各位には、詳細についてのご案内を後日お送りします

帰敬式について

□ 帰敬式を受式した際にいただく法名は、お手次の住職が選定した法名(A法名)と本山で選定した法名(B法名)がありますので、事前にどちらかを選択いただきます。
□ A法名を選ばれる場合は、1ヶ月前までに本山へ申請しなければなりませんので、それまでにお手次の住職とご相談いただき、法名をお決めください。

主催 三重教区教化委員会・南勢一組教化委員会

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