おかげさまで2日間の報恩講をお勤めさせていただきました。
窓を開けた寒中の本堂で「承元の法難」を描いたDVDをプロジェクターで視聴。
鎌倉時代の「承元の法難」と、昭和の戦争を照らし合わせて、体制権力に従わないものを排除するような思考は、今なお私たちの姿を言い表しているのではないかという問いかけ。
承元の法難 https://ja.wikipedia.org/wiki/承元の法難
昨夜の大河ドラマ。
信長に対する本願寺の徹底抗戦。
時代は変われども、法難によって島流しにされた親鸞の魂が宿っているようにも感じます。
「承元の法難」は上皇によるものですが、石山合戦の本願寺の背後にも帝の影が見え隠れする。
本願寺も帝とは、良くも悪くも切っても切れない縁がある。
親鸞の魂というのは、決して自分を罪人にしたことの恨みではない。
罪人の扱いを受けて同じく島流しに遭った師。
念仏停止の宗教弾圧に屈せず念仏を称え、1番、2番、3番、4番と順番に殺されていった仲間。
なにより「なむあみだぶつ」を許さぬという横暴。念仏を否定することに対する魂。
体制権力に従わないものを排除するというのは、いつも為政者の統治機構の構造上の欠陥としてある。
万民平等の名号を仮に民衆から奪ったとしても、「信じるな」という号令は無意味だ。
だから、だからなのだ。だからお念仏「しか」ないのだ。お念仏は「名号」なのだ。
コロナ禍での報恩講。参拝者にはマスクの着用をお願いした。
マスクを着用できない人を寺は追い出すことなどできるのだろうか・・・
生老病死を名号が貫いていくのだ。念仏が病者を除することなどない。
陽性者に病者のレッテルを貼りつけ、罰則まで付加しようとする我ら。
「感染症法」の改正案に関して宗派声明が発表されていたのでお知らせまで。
http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/41957/
さて、報恩講のお浚いをしながら、
鬼は内にいる
福はいつも外にある
と、今月の掲示板に記しました。
毎年恒例、節分、如月の私感です。
いつかは幸せになりたい、と未来の幸福を求める限り、幸せは強迫観念に過ぎない。
誰かのように幸せになりたいというのであれば、幸せは永遠に他者にしかない。
鬼が内にいるというのは、鬼嫁が家にいるのではない。
鬼のような姑がいるのでもない。
マスクをしなければお参りさせないという鬼。
従わなければ罰則を課すという鬼。
鬼に準ずる鬼。
私の中に鬼が巣食うている。
先日、朝ドラ「おちょやん」の”史上最悪の父親”を演じるトータス松本さんが、自分の演じる「テルヲ」という役について、
自分の中にテルヲ的な部分がある
と言っていたのを聞いて、ある講義録の言葉を思い出した。
私たち一人ひとりの中に天皇がいる。
赤坂真理「朝日新聞」2019.10.8
代替わりにおける万歳三唱の一体感。
だけど、天皇や皇族の方々を人間として尊敬しているのかどうか。
主権者である国民が「象徴」を問うことなく、それを天皇に押し付けて万歳万歳と唱えている。
天皇家の苦悩に与することもなく。
鬼が内にいるとはこのことでなかろうか。善鬼神・悪鬼神ともに我らだ。
「きさらぎ」を漢字に変換したら、「鬼」が出る。
如月は「建国」の月という。現天皇の誕生月でもある。
念仏停止の院宣が発せられた月。安楽、住蓮が処刑された月である。
処刑から50年後の2月9日に親鸞聖人が表された和讃をコロナ禍の報恩講で唱和しつつ、
いま、私は一体どのような国と社会を生きているのか。
どのような国を生きたいのか。
歩みがはっきりしないまま問われつづけています。