遊煩悩林

住職のつぶやき

警鐘

2018年03月11日 | ブログ

お彼岸のお知らせ。

彼岸に先立って7回目の「勿忘の鐘」。

今年は日曜日ということもあって、子どもたちが通う小学校のもうすぐ卒業する6年生が全員できてくれるという。

そして、1.17の阪神大震災で被災した友人の「3.11だけなんや」という言葉を憶念しながら鐘をつきたいと思う。

獅子吼する鐘の音は2011.3.11だけのものではない。

慰霊や鎮魂でもない。

今を生きる私への警鐘として。

 

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生まれたから生きるんや

2018年03月08日 | ブログ

人は何かの役に立つために生まれてきたのじゃないのです

と掲示板にしたためた今月初旬、子どもたちに誘われて「猫カフェ」なる場に連れて行ってもらった。

猫の保護を目的として里親探しに積極的なカフェ。

保護された猫たちを撫でながら、さて、このコたちは何かの役に立つために生まれてきたのだろうかと。

私は気づかなかったが、カフェから妻が持ち帰ったフリーペーパーを娘たちと読んでいた。

「ペットショップにいくまえに」という手づくりのペーパー。

http://bikke.jp/pet-ikumae/

からダウンロードできる。複製も配布も自由なのだそうだ。

絵本作家の「どいかや」さんの絵と文。

http://ikimono-gasuki.jp/index.html

人と動物の関係は、社会の有り様をうつす鏡のようだ。

飼い主の一人として、そんな社会に生きる自分がうつし出される。

そんなことを考えていたら、今春に卒園する幼稚園の「おわかれ遠足」から娘が帰ってきた。

行き先は「ひがしやまどうぶつえん」だった。

何のために生まれたのか。何のために生きるのか。

一所懸命に意味を求める私に、「そんなこと知らんがや」という生きものたちの姿。

生まれたから死ぬまで生きるんや。

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役立たず

2018年03月02日 | ブログ

2023年に宗祖親鸞聖人のご誕生850年を迎えるにあたり、教団はそのビジョンを模索している。

それは「ご誕生」が私たち一人ひとりの上にどう生きているのかを確かめることです。

45年前に教団は、ご誕生800年を迎えるにあたって、

生まれた意義と生きる喜びを見つけよう

というスローガンを発信しました。

私がそのことばを知ったのは随分あとになってからのことですが、このことを確かめたくて僧侶となり、明確な何かをつかみきれぬまま今でも指針として生きています。

生まれてきた意義とは何なのか。老病死する生にいかなる喜びを見いだせるのか。

何のために生まれ、何のために死んでいくのか。やがて死んでいかなくてはならない生命にどんな喜びがあるのか。

これが生まれてきたことの意義であり、これが生きる喜びでありますと断言したり、定義づけることを許さぬことばであるようにも感じます。

暗中模索する私に、仏の智慧が光明となって

人は何かの役に立つために生まれてくるのじゃないのです

祖父江文宏

ということばとなって届いています。

少なくとも、「世のため、人のため」に人は生まれ、生き、死んでいく存在ではないということでしょう。

人の為が「偽物」であることを知っているところから生まれてきたのが、「何かの役に立つために生まれてきたのではない」ということばなのでしょう。

「世のため、人のため」に生きる人を否定するのではありません。むしろ世のため、人のために尽くすことは尊いことに違いありません。

だけどそれはこの私が生まれてきた理由にはならないということです。

「誰かのためになっている」「社会の役に立っている」という実感は、存在の価値として見出しやすい。

では「役立たず」には存在価値がないのか。

価値だけを求めて存在を見ていなかったのだ。

生まれた意義と生きる喜びを見つける旅の道中に、「何かの役に立つために」生まれてきたという以外の答えを見つけなくてはならなくなった。

だけど、何かの役に立つために生まれてきたのじゃないのだとしたら、ずいぶん旅の荷物が減ったような気がする。

肩の荷を降ろす思いで今月の掲示板にあげてみた。

何の役にも立たないじぶんが生まれたことの事実を喜んで受けとめられるよう、「ご誕生」の意義を「ともどもに」たずねていきたいと思う。

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