暑いお彼岸が明けていきました。
お彼岸が明けることを「お果て岸-おはてがん-」ともいうそうです。
「彼岸が明ける」にしても「果てる」にしても、こうして文字に表記すると、かろうじてイメージできますが、日常の会話の中ではとくに若い世代には通じなくなってきているような感覚が年々増してきております。
「彼岸が明ける」という表現は、単に彼岸という期間が過ぎたということでなく、「彼の岸」が明らかになったと受けとめることができる表現でしょう。
「彼の岸」はいのちの方向ですから、私がどこに向かうことが願われているのか、その願い、つまり如来の本願に触れてはじめて「彼岸が明けた」ということだと受けとめてみました。
さて「お果て岸」をどういただいたらいいのか。
期日が尽きたといえばそれまでですが、果てるのは彼の岸でなく「此岸」としてみてはどうか。
彼の岸が見定まりいのちの方向性が明らかになったところで、それでも私はこの此岸、此の岸の「業-ごう-」を果たしていかなければならない。
何も彼岸が明らかになったからといって、成仏が確定したからといって成仏したのではない。
菩薩になったわけでも阿羅漢になったわけでもない。
此岸の煩悩を尽くしていくだけです。
なるほど「お果て岸」は、太陽の沈みゆく彼方に、いのちの還る方向を見定める宗教的時間を過ごし終えて、また煩悩の日常に埋没していく様、いのちがどっちを向いているのかわからん生活、まるで浄土を見失った世界に戻っていくことをいうのかもしれない。
そんなことを思いつつ。
仏法を学ぶとは頭で理解することでなく人生の方向を決定することである
和田 稠
『同朋』2018.5月号からの孫引きでございますが、10月の掲示板にしたためた次第でございます。
https://books.higashihonganji.or.jp/defaultShop/disp/CSfDispListPage_001.jsp?dispNo=001001
先月の掲示板。
そもそも学ぶということは人世に自己を学び問うことである
荒山淳 名古屋教区教化センター『センタージャーナル』106号
の展開をイメージして。
常照寺の彼岸会では、この「自己を学び問う」をキーワードに荒山先生には熱のこもった法話を頂戴しました。
「いのち」とは、万葉ことばでいう「いきのみち」が縮されたんだよ、と。
「住職」というのは、「仏法住持職」を略してるんだよ、と。
住職の道はどんな道なのか。自己のすすむ道は。人生の方向は。
立場によってどっち向いているのか、いきの道すじはあっちなのかそっちなのか、いっこうに見定まらないそんな私の危うさを言いあてられています。