遊煩悩林

住職のつぶやき

お寺の魅力

2012年02月26日 | ブログ

聞法の一助とすべく、本堂正面の階段に手すりを設置していただきました。
今さら、というかようやく、といった感がありますが・・・。
近年、境内で転ばれる方が増えてきました。
とくに階段などの段差では、ご参詣の高齢者の手を取るお姿が目につきます。
目が不自由な方、足腰が不自由な方、ご高齢の方への一助は、いわゆる介助者にとっても一助です。
ご高齢の方や不自由なお体の方にとってのご参詣は、一助でなく二助、三助が必要です。
時代に応じて、冷暖房を完備し、椅子席となり、トイレは和式から洋式に、動線に手すりを設置し・・・、ときには車椅子の方がお参りできるようなスロープも必要になってきています。

お寺の諸行事に「参詣が増えない」というご門徒の声を聞くと、増やす努力を!とも思うのですが、「減らない」という努力があってしかるべきです。
「魅力があれば参詣は増えるはずだ」というご意見がありますが、それではまるで「魅力がない」といっているようなものです。
そもそもお寺は「煩悩の身」を知らされるところです。耳の痛い私の真実のすがたを教えられる場所ですから、いわゆる世間さまが言うところの「魅力」とはかけはなれているのでしょう。
忙しい中、時間をつくって、お供えまで包んで、「家族に何しにいくねん」と言われながら「わざわざ」寺に参っているのに、誰も褒めてもくれず、耳に痛いことしか言われない・・・。
損得で言えば、わざわざ損しているような気にさえなってきます。
楽しい、面白い、得するというのが「魅力」だとすれば、ほんとうに仏教を伝えようとすればするほど、寺は難しいのかもしれません。
楽しみを求めて生きる人に「私は悲しみを見ずに楽しみばっかり求めとる人間でした」「面白いことが好きで、面白くない面白くないと言っている私でした」「損することがイヤで、転んでもただでは起きないような私でした」なんて自覚を促すのですから。寺の魅力は「いかに耳の痛いことを知らせるか」というと言い過ぎでしょうか。ただこのことがはっきりすれば難しくはないはずです。
ただ、参詣者にとって寺の敷居が高いとすれば、敷居を低くするためには面白く楽しくという場づくりも必要なんでしょう。

「寺に参ろう!」という心が起こったときに、お参りしたいけどできなくさせていることがあるとすれば、内側からも外側からも、ハードもソフトも一つひとつできるところからそれを取り除いていく必要があります。
それは、お寺までの交通手段であったり、車の置き場所であったり、階段などの段差であったり、トイレの仕様であったりでもあるわけです。
わざわざ寺に参るには、もちろん季節や天気によっても制限されることもありましょうし、当然、仕事や遊びなど公私の都合もあります。
近年では、万が一でも転んだり、事故に遭うといけないから「家にいて!」と家族に懇願されるという方もいらっしゃるといいますから、ご家族の同意を取りつけるという努力も大変です。
お参りしようという気のある方の障壁を取り除いて、仏法の場にお導きするのが住職の勤めだとすれば、ご参詣の意志のある方のご都合をはかって、日程をやりくりし、お迎えに参上して、ご参詣の方のお手をとってでも聞法の場である本堂にお導きしなければなりません。
このたび設置いただいた手すりは、それができない怠惰な住職にとって頼りとなり、そんな住職よりもよっぽど支えになる手すりです。
逆にいえば、この手すりは身体の不自由な方やご高齢の方の助けというだけではなく、不自由な方の手を取らない怠惰な住職への一助でもありましょうか。

ところで、お参りできなくさせている「障壁」を減らすというのは、言い換えれば「お参りしない」言い訳を排除していくということでもあります。
極端な話ですが、家族から「たまには寺にでも参って来たら」といわれるほど時間を持て余す方が、「本堂は寒い」とか「正座ができない」「和式のトイレでは用がたせない」「階段が上がれない」というのが言い訳だとしたらそれを取り去るということも大事でしょう。
「足がない」という声が多くなってこれば送迎などの交通手段も考えられなくはないでしょうが、「あの人がいるから行かへん」のであれば、「その時」が来るまで何ともなりませんし、どれだけ障壁を取り去っても言い訳が尽きることはありません・・・。言い訳もやりきれば開かれてくる世界もあるでしょう。
いずれにしても「あそこの寺には手すりがあるからお参りしよう!」なんてことはまずあり得ませんが、是非寄り掛かってでも、何とか生きているうちに法を聞く場に辿り着きたいと思います。
そのような意味で聞法の一助となればという意を込めて設置のご報告まで・・・。
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人生に「問い」を

2012年02月20日 | ブログ

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一昨年も前から準備をしてきた「仏教に学ぶ講座」がスタートしました。
準備期間は長かったのですが、ふたを開けてみれば受付の段階からドタバタ・・・と。参加者には、ご容赦をいただいてともに学んでいきたいと思います。
講座は「聞く」そして「語る」ということに重点をおいて構成しています。
東本願寺の教師修練を担当された酒井義一氏がちょうど今朝、修練の講義録を自身のブログにアップされていました。
http://ameblo.jp/zonmyoji/
ここでは、住職を志す学生に対して「今ここで実践してほしいこと」として、2つの実践を提起されています。

ひとつは、人の話を真剣に聞くということ。一言も聞き洩らさないぞ、という誓いを立てて話を聞いてみよう。親鸞は聞くことをとても大事にされた。いきなり教えを説いたのではない。教えを語る前に「きくひと」(聖典545頁・一念多念文意)親鸞がいる。人の話を真剣に聞くことを今ここで実践してみよう。

もうひとつは、自分の言葉で自分のことを語るということ。聞きっぱなしではだめだ。言葉のキャッチボールをしよう。自分の思いや戸惑いや弱さが表現できればいい。「ものをいえいえ」(聖典871頁・蓮如上人御一代記聞書)自分のことがうまく語れない不安もあるだろう。でも、うまくしゃべらなくてもいい。真剣にしゃべればいいのだ。語ってみれば人と出会うことがある。もし、間違っていれば学び直すことだってできる。

このふたつが出会いと学びの修練になるための私の実践課題。だから、どうか今ここで真剣に聞いて、真剣に語ってほしい
といいます。
「仏教に学ぶ講座」は僧侶や、住職を目指したりする場ではありませんが、修練と同じように「聞き」、そして「語る」ということをとおして本当に人間が人間として出会っていきたいという願いがありますから、そういう意味では、何かもう出来上がってしまった講座に参加者を押し込んでいくのではなく、参加者とともに出会いをつくりあげていく場にしたいと思います。

さて、昨日開催された第1回目の講座で、講師の森先生は法然の父親の遺言とそのエピソードを紹介されました。
法然上人の父親は反目の関係にあった者に殺害されますが、その死に際に法然に語ったのは「仇を討ってはならん」ということでした。仇討ちという復讐の連鎖をくり返すのではなく、敵も味方も両方が救われる道を求めよ、と。森先生は「殺すものと殺されるもの、どちらとも助かる道を探してください」という遺言だったと表現されていました。
このエピソードから思われてきたのは、間もなく言い渡される、13年前の山口県光市で主婦と幼い娘を殺害した元少年に対する最高裁判所の判決です。
家族を殺された恨みを「死刑」という殺害で晴らすことを民主主義の法で認めている私たちです。少年を殺害しようとしているのは他ならぬ私だといってもいいのでしょう。その「他ならない私」を問いたいのです。
森先生は「人生に『問い』を」といいます。仏教は何を問うのかといえば、他人を問うのではないのでしょう。自己を問うのです。

この言葉も印象的です。

自分の思いを遂げることが「しあわせ」ではないことは「現実」が証明している

欲しいものを手に入れてもまた違うものが欲しくなる。思いどおりにいったと満足して、また他のこと思いどおりにしようとくり返す。欲しいものが手に入り、ことが思いどおりに運べば幸せだと思っている私が、思いどおりにいかない現実を生きているのです。
仇を討って満足ということはないのでしょう。むしろ問題が大きくなるばかりです。問題は大きくなっているはずなのに問えない。常に自らを正当化して問うことがない私。
善人も悪人も賢い人も愚かな人も男も女も金持ちも貧乏も、ともに等しく助かる教えに耳を傾け、語り、問いをいただきたいと思います。
それが、仏教に学ぶということではないでしょうか。

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明日の忘観者

2012年02月10日 | ブログ

忘れてしまいなさいと誰かが言う
これからこの子に降る雨のことを
忘れてしまいなさいと誰かが言う
これからこの子が吸う風のことを
忘れてしまいなさいと誰かが言う
これからこの子が口にする食べ物のことを
そして忘れてしまいなさいと誰かが言う
この国はこんなにもあっさりと人を見捨ててしまえるという事実を
でも 福島
私たちは忘れない
母乳から放射能が出たとむせび泣くあのお母さんを
私たちは忘れない
わが子を被曝させてしまったと自分を責めるあのお父さんを
私たちは忘れない
外で遊びたいとせがむあの女の子を
私たちは忘れない
どうか福島を見捨てないでください
たすけてくださいと叫んだあの男の子を
そして私たちは忘れない
この全ては間違いなく私たち一人一人が原発に加担し 見過ごし
自分たちだけの豊かさに耽ってきた結果であるという事実を
私たちを信じきって笑いかけてくる子供たちに
あやまっても あやまっても
つぐなえない未来を押し付けてしまうこの情けない現実の中で
でも それでも
今 ごめんなさいから始めよう
ナムアミダブツの風を受けて
原発はあかんと声を上げよう
ナムアミダブツの光を受けてひとりひとりが輝こう
忘れなさい 忘れなさいと誰かが囁くこの社会の中で
デモ 忘れない 福島!

ナムナム大集会実行委員会

これは昨日、京都で開催された「福島を忘れない」と掲げた「ナムナム大集会5」の表白です。
京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/
チーム二本松 佐々木道範 理事長 ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/michinorisasaki

そして今日、東本願寺では第3回目となる「原子力問題に関する公開研修」が、また東本願寺の近隣施設では「真宗大谷派・九条の会」の第5回集会が開催されました。
いずれも早々からカレンダーにその予定を書き込んであったのですが、そのいずれの集いにも参会できず、かろうじてインターネット配信された「原子力問題に関する公開研修」を部分部分だけ視聴させてもらいました。

京都で「ナムアミダブツの風を受けて 原発はあかんと声を上げよう」と「ナムナム大集会」がデモの行進をしている最中、三重では真宗大谷派三重教区と桑名別院本統寺が2014年春に厳修することがすでに決まっている親鸞聖人七百五十回御遠忌法要の、その出発となる御遠忌委員会総会が、桑名別院で開かれていました。
ナムアミダブツの光と風を受けているはずの私にとって「お前はいったいどんな御遠忌にしたいのか!」と問われました。
どんな事業を今後どのように展開していくのか。ついては何にどれだけの経費が要るのか。億の懇志を集めてはたして私たちは何を何のためにやるのか。
御遠忌に遇いたくても遇えないという方々の目線の中で、「三重はやりました」「桑名別院はやれてよかったね」はないのでしょう。

今日の「九条の会」では、「真宗と憲法9条」の講演を作家の高史明さんから、「沖縄・日米安保・憲法9条」の提言を大湾宗則さんから、それぞれいただくというプログラムが手元にあります。

福島や沖縄の人々をはじめ、全国の人々・・・が「よくやってくれた」「よく勤めてくれた」というような、そして三重の人間、関わる人、何よりこの自分、この私が「おつとめできてよかった」といえるような御遠忌とは・・・。

私は本当にナムアミダブツの光と風を感じているのかどうか、ナムアミダブツの光はどこか知らないところを照らし、その風は誰か知らない人に吹いているのではありません。
いつも何処かの誰かのことにしてしまう自分に気づかされるには、その光と風がいつもこの私を照らし、この自分に吹いていることを感じていくしかありません。
不感症を知らされる昨日、今日です。
それでも明日には忘れてしまうような私です。

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起きなさい!

2012年02月01日 | ブログ

私が仏さまを信じるのではない
仏さまが私を信じているのです

先月末、常照寺の報恩講で法話をいただいた片山寛隆先生からご提起くださったことばを、そのまま今月の掲示板に掲げさせてもらいました。
日ごろ、損か得かだけで生きている私。報恩講に遇うということは、その指摘を受けて自覚させられることです。
そして損得の目線でなく、「うそ」か「ほんとう」かという仏の視線を知らされることで、その「眼」を届けてくださった数々の苦労を「恩」と知り、知ることから報いる歩みがはじまっていくのでしょう。
「知る」ということをとおして、私たちは一つひとつ疑いを晴らしていくということがあると思います。
「仏さまを信じる」「神様を信じる」と俗にいいますが、「信じる」ということは「疑わない」ということだとすれば、私たちの努力目標は自らの信仰対象を「疑わない」ということに尽きるといってもいいのでしょう。
「お釈迦さまが母の右脇から生まれた」とか、生まれてすぐに七歩すすんで「天上天下唯我独尊」と言われたとか、「そんなわけないじゃん!」と疑ってかかっていたことが、その意味を知らされて「なるほどそういうことだったのか」と転ぜられていくことがあります。
疑ってかかっていたことが、疑いようがなくなっていく。究極に疑いようがないことを私たちは「ほんとう」といい「真【まこと】」というのでしょうが、しかしです、私の「疑い」を一つひとつ晴らしていったところで、果たして「まこと」というところに行き着くことができるでしょうか。
一所懸命に修行して「疑」を除いて「信」を獲ようとするのが私の性分です。
こちらが頑張って仏さまを信じようと努力するわけです。
だけど実は、仏教はそうではなかったのです。
仏教が知らせてくださるのは、あなたから「疑」を除くことなどできないよ、ということなのでした。
そうではなく、どれだけ聞いても、どれだけ学んでも、どれだけ修行しても、疑うことしかしない私。その私を疑わないのが仏さまだということです。疑わない、つまり信じてくださっている。
『疑惑の総合商社』なんて言葉がありましたが、その超本人がこの私だったと教えられる。だから疑うことをやめなければならないと思うのですが、仏さまはそうは言わない。ただ「それがあんたや」と断言される。
都合のいい時だけ神仏に頼み、叶わなければ「神も仏もあったものか!」という私。
私のところから仏さまの方向に向かう態度はそれだけのものでしょう。都合のいいおみくじや占いは信じたい。信じるというよりそれはただの期待です。自らの願望を満たすのに利用する、欲望をかなえる道具としか見出せない。
だけど、だけどです。そんな私を信じてくださっておられる。いつまでも若く健康で儲けることを幸せだというデタラメを「うそ」だと見抜き、「ほんとう」に知ることができると信じておられる。
信心は私のところに成り立つ事柄ではなくて、仏さまのところの事柄だったのでした。仏さまのそのお心を知らされることが報恩講なのでしょう。

それを「眠りから覚まさせる」ともおっしゃっておられました。
損得というところに眠りこけていた自分を教えられる。夢から覚まさせるのが仏さまである、と。
今年も報恩講に遇うて、大切なことに気づかされた、眠りから覚まさせてもらったような夢を見て、眠りに落ちていくような私たちの体質。
毎日毎日の報恩講に、そのことを知らされ続けていく、気づかされ続けていく、覚まされ続けていくのでしょう。

さて、常照寺の報恩講、お逮夜の晩は御伝鈔の拝読につづいて、昨年東本願寺で開催された「原子力問題に関する公開研修会」のDVDを観ました。
福島県で被災された方のリアルな声を聞くことをとおして参詣の方々と共有した思いは、報道を通してしか知り得なかった事柄とのギャップでした。震災からまだ1年も経たぬ間に、いつの間にか眠り込もうとしている私に「起きなさい!」という被災地からの叫びを聞いたように思います。

浄土真宗に帰すれども
真実の信はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心もさらになし

愚禿悲歎述懐和讃 親鸞86歳

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