遊煩悩林

住職のつぶやき

自己を問うてる暇がない

2016年04月22日 | ブログ

Earth Dayだとか。

地球環境について考える記念日。

 10人いれば10人、100人なら100人の考え方がある課題だと思う。

人それぞれに問い方の癖がある。ちなみに私はどうも「私」が好きなようです。

「自己とは何か」「私とは何か」という疑問が常にベースにあるので、「地球」「環境」について考えるといっても「じぶん」を抜きにしてはどうも考えられない。

「地球と私」「環境と自分」とか。

たまたま、森達也著の『私達はどこから来てどこへ行くのか』を就寝前に読んでいるのですが、この「どこから来てどこへ行くのか」「私は何者か」という問いは、ゴーギャンではないが頭を離れない。

地球と環境・・・まさに九州の余震が連日伝えられている最中です。

今回の九州の地震についてだけでも、十人十色に問われている。

この期に及んでけしからんけしからん、と他者の不謹慎探しをする人もいる。

私の身の回りには鹿児島で稼働中の原発、または愛媛の原発に対して関心を寄せる人が少なくない。

Earthdayに地球環境について考えるとき、いま私が生きているその場所でどういった環境の中に私がいるのか。

ある大先輩の住職が映画の上映会を企画した。

映画「日本と原発」。手元のチラシに「原発の仕組み・歴史・福島の事故から現在に至るまで、弁護士視点で描かれる日本の原発のすべて」と書かれているとおり監督は弁護士。またウェブサイトには「なぜ弁護士がドキュメンタリー映画を作らねばならなかったのか?」と。「なぜ弁護士が」とはキャッチフレーズだとして、「なぜ(弁護士である)この私が」という視点が大事だと思う。

同じ問い方として「なぜ日本は原発を作らねばならなかったのか」、そして「なぜ私たちは原発を作らせ続けてきたのか」・・・。

Erathdayはどうも4月22日に限ったことではないようだ。

自己を問いたい。問わなければならないと思う。自己など問うている暇のない国だから。

 

日時 2016年5月8日(日)10:00~・14:00~ (2回上映/全席自由)

場所 農業屋コミュニティ文化センター 松阪市川井町690 ☎0598-23-2111

前売券500円/当日券700円

『日本と原発』ウェブサイト http://www.nihontogenpatsu.com

コメント

寿命

2016年04月09日 | ブログ

この木より後に生まれて先に死ぬ

昨年12月、52歳で逝った先輩がかつて自らのブログで紹介されていた川柳です。

http://kaneniwa.exblog.jp/20399456/

どれだけかの花を咲かそうと、見えないところで準備してきた木々を眺めながら思い起こし、お寺の掲示板に記した。

じぶんが生まれるどれだけ前からそこにあったのか分からないが、物心がついたときにはすでにそこにあった樹木。

この身がやがて老い、病み、死を想うときに、かわらずにそびえる大木に「寿命」を教えられる。

一見、後に生まれて先に死んでいく不条理のようにも聞こえますし、何かしらの無念さを感じなくもありません。

それぞれがそれぞれの寿命を生きている。

同時に、父親が晩年によく一休禅師のものとされるエピソードを説いていたことを思い出した。

今までは人のことかと思うたに おれが死ぬとはこいつはたまらん

癌の宣告を受けた父親が本堂の柱の法語板に書きつけたことばです。

こんな小話も。

法事の場で、孫ができたお祝いにめでたい言葉を書いて欲しいとたのまれた一休さん。

「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と書いた。

「これではあんまりだ」といわれので、「孫死ぬ、子死ぬ、親死ぬの方がいいのか」と聞き返した一休さん。

「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。これほどめでたいことがあろうか」と。

親が死に、その子がまた親になって死に、その孫がまた親となって死ぬ、順番どおりに往くことほどめでたいことはないと。

先の川柳では、樹木の寿命と己の寿命を詠っているのですが、ただ比べているだけじゃないんでしょう。

それがそのまま大自然の営みだと、はたらきなんだと、道理なんだと。

何千年もそびえる樹木からすれば、人の寿命はわずか一瞬。

花びらの寿命は私たちの寿命より短い。ただその花びらを毎回咲かせようとする樹木とそれを支える大地のはたらきは私なんかの寿命をはるかに超えている。

阿弥陀如来は「ア」+「ミタ」の仏さまだ。梵語で「ア」は否定語、「ミタ」は「量る」という意味だそうだ。要するに「量ることができない」という。

親鸞はそれを「無量」といい、阿弥陀如来を「無量寿仏」と表現した。「量ることができない寿命の仏さま」と。

永遠とか無限といってもいいのでしょうが「無量」と。

その無量寿仏からみれば私の寿命などほんの一瞬にも過ぎない。瞬く間の生命に感動の光を放つことができるのかと悩むところだが、アミタの仏さまにナムすれば何も心配はいらない。

「無量光」を放って私を照らし出すのだ。ナムは敬うこと。ナムアミダブツだ。ナムアミダブツの念仏によって、いいもわるいも全部あんただと照らし出される。

それでもそれでもいいとこだけ照らされたくて、わるいとこは照らされたくない私だ。少なくともそんな私であることだけははっきりとした。

 

コメント

顕浄土

2016年04月01日 | ブログ

昨日、真宗大谷派の本山である京都の東本願寺で「御本尊還座式」が執り行われました。

還座式は、阿弥陀堂の後修復工事のために2011年の親鸞聖人750回御遠忌法要後、仮堂にご安置されていた阿弥陀如来像を、もとの阿弥陀堂にお戻しする行事。

一生に一度も巡り合うことができないようなこの機会に、多くの方々とともに立ち会わせていただきました。

ときはちょうど例年の春の法要に合わせてのことですが、世間ではいわゆる年度末・年度初めです。

考えてみれば、阿弥陀さまが本来ご安置されるべき場所を離れられてこの4年半、世の中の状況がめまぐるしく変化したように思います。

春の法要では毎年「全戦没者追弔法会」が勤められますが、その願いもむなしく「安保法」が成立・施行されました。

5年前まではあまり気にも留めなかった「電気」の需要と供給についても、新年度から新たな制度を迎えた。

さて、そんな中で気にとめたのが、今朝の中日新聞朝刊のトップ。

「ハンセン病 最高裁謝罪へ」という見出し。
Chunichi Web http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016040102000075.html

「三権分立」と習ったのはいつの日だったか、遅きに失した感は否めませんが司法の権力は生きている、未来に生きていくことを思いました。

阿弥陀さまの慈悲は「いつでも・どこでも・だれにでも」平等にはたらいていますが、このたびの還座式に立ちあうことをとおして、阿弥陀さまを不在にしてきた5年間ではなかったかと考えさせられました。

「不在にしてきた」は「見失ってきた」、またその知恵と慈悲を「疑ってきた」といってもいいのでしょう。

改めて、阿弥陀さまが本来おいでになられる極楽浄土を想い、本来おいでになる阿弥陀堂にお戻りになられたことを機縁として、「いつでも・どこでも・だれにでも」の平等性を社会に回復していかなくてはならないことを思います。

何もそれは権力者に対するものでもなく、社会に対するものでもなく、権力に追従するかたちでしか生きられない私そのものに願いかけられている「回復」です。

一人の念仏者としての意識を自覚して、自らの上に浄土を顕らかにしていかなくてはならないことを思います。

そんなことを感じた4月1日エープリルフールでした。

たとえ「4月バカ」と呼ばれても、権力やその追従者らに屈することなく、顕浄土に生きてこられた方の後を追いたい。

『同朋新聞』4月号に、この春の法要中に行われる「全戦没者追弔法会」のアピールとして、ネット上で話題になった「明日、戦争が始まる」という宮尾節子さんの詩が引用されていました。

明日戦争がはじまる
まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんびは
ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

今年の「全戦没者追弔法会」は、「兵戈無用(兵隊も武器もいらない)-戦争は戦争の顔してこない」のテーマで勤められるという。このアピール文が載せられたコラムのタイトルは「人間が人間であるために」です。

「人間が人間であるために」たとえ「四月バカ」と呼ばれても、「ならんことはならん」と言い続けることが顕浄土の道とつながっているのではないでしょうか。

東本願寺 2016 春の法要 http://www.higashihonganji.or.jp/houyou/pdf/2016_houyou_all.pdf

コメント