遊煩悩林

住職のつぶやき

生涯反抗期

2011年09月26日 | ブログ

「なんまんだぶ なんまんだぶ」と発声される念仏は漢字で表記すれば「南無阿弥陀仏」、書き下すと「阿弥陀仏に南無したてまつる」ということになりますが、では「南無」とは何ぞや、「阿弥陀仏」とは何ぞや。
南無は「ナム」と読んでいますが、もともとインドの「ナモ」を音写して「南無」と漢字で表記されたといいます。インドの発音をそのまま漢字に写したのですから「南」と「無」という漢字に意味はありません。
その「ナモ」の意味は「帰依」と訳されます。さらに意訳すれば「従います」「敬います」「お任せします」といった意味になるでしょうか。
さて「阿弥陀仏」はそのまま漢字を読めば「アミダブツ」ですが、これもまたその漢字に特別な意味があるわけではありません。
これもインドの言葉で「ア」+「ミタ」+「ブッダ」を中国の文字に当てはめて「アミダブツ」。
では、「ア」は何か。否定語だと教えられます。「~でない」というように「~」を打ち消す言葉であると。
ここで何を打ち消しているかといえば「ミタ」です。ミタは動詞で「はかる」「量る」。「量る」を打ち消すのですから、「量ることができない」となります。つまり「無量」。
「ブッダ」は「仏」、ここでは如来を意味しています。
ですから南無阿弥陀仏は「はかることができない如来をお敬いします」ということになりますが、では何をはかることができないのかということについて、インドに「アミターユス」また「アミターバ」と発音される言葉があります。それぞれ「無量の寿命の仏(amitaayus)」「無量の光明の仏 (amitaabha)」と訳されます。
ですから「寿命」と「光明」がはかることができないホトケさまを「アミダブツ」と呼んでいることになります。
大雑把にいえば「寿命」はいのちの長さ、つまり「時」。「光明」は本来「智慧」ですが、その智慧の届く場、つまり「空間」を意味しているように思います。
時間と空間をはかることができないということは、時空を超越した仏といってもいいのでしょう。
親鸞聖人は正信偈に「帰命無量寿如来 南無不可思議光」といいます。

さてさて常照寺の彼岸会で荒山 淳先生は「南無阿弥陀仏」について、

「南無」はすなわち「ごめんなさい」
「阿弥陀仏」は「ありがとう」だよ

とお諭し下さいました。
そのお諭しの内容までここに書き留めることはできませんが、感覚的な表現で恐縮ですがその「ごめんなさい」は「過去」を、「ありがとう」は「未来」を孕んでいるようなイメージが湧いてきました。ですから南無阿弥陀仏は「今」「現在」、この刹那的な一瞬一瞬について表現されているような感覚です。
つまり、今ナムアミダブツと手が合わさることによってはじめて、ごめんなさいとしか言いようのない自分に気づかされ、同時にそれによって「ありがとう」の希望の道が開かれてくるような一瞬の「今」。今このナムアミダブツによって過去も未来も含めた全部を救いとられるようなイメージです。
はかることができないホトケさまを、はかろうとしているオオチャク者がその「オオチャク」を知らされてごめんなさいと、はかることができなくていいのだという答えによってありがとう、と頭が下がっていくところに「人間」が育つということがあるのだと教えられたような気がします。
されど湧いてくるのはイメージばかりで、それがなかなか体感もされず、実践もされてこないところに、真の道理に従えず「背き続けている自分」を教えられます。
自分を「オオチャク」だと頷けない私なのでありました。

仏教は

諸行無常(あなたは必ず老い病み死にますよ)
諸法無我(あなたの思いどおりになることは何ひとつありませんよ)
一切皆苦(すべては苦ですよ)
涅槃寂静(仏の国に煩悩はないよ)

を真実と説きます。理屈では分かっているつもりの道理ですが、実際はそのすべてに「死にたくない」「思いどおりにしたい」「楽したい」「欲を満たしたい」と反抗しかしていないのが「僧侶」を名のる私でありました。
いよいよ「ごめんなさい」「ありがとう」と手が合わさるような人間に育てられなくてはならないと自力を尽くそうともがき、また苦しむのであります。

他宗には、つとめをして回向するなり
御流には、他力信心をよく知れ
蓮如上人御一代記聞書

と、これも昨日お示しいただいたことです。
自力で頑張って努力して救われるんじゃなくて
背き反抗し続ける者を救うのが他力の「なんまんだぶ」なのよ、と。
おそらく私の一生は何であったかと、いずれ死んだ後に?浄土からふりかえったときそれは「反抗期」であったとなるに違いないと思います。

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オオチャクイ

2011年09月21日 | ブログ

2011

台風12号「タラス」に続き、15号「ロウキー」が自然のあるがままに猛威を振るっております。
まだまだ災中ではございますが、秋の彼岸会のご案内を申し上げます。
9月23日、常照寺本堂にて午後2時から勤行。勤行後は名古屋教区教化センター主幹の荒山淳先生をお迎えして法話を聴聞させていただきます。
荒山先生からメッセージをいただきました。(無断転記ご免下さい)

今年は、台風の当たり年でしょうか。12号15号とご丁寧に私どものところまで来てくださいます。
水飢饉の時は、あれだけ欲する水が、ここまで降り続けるともう十分と言いたくなるのは、傲慢でしょうか。
原発も同じで、便利な時、欲している時は気にも留めない原発が、放射能を撒き散らすようになると、もう十分!「脱原発」といいだす。いま一度、私自身、立ち止まり、このオオチャクイ根性を慙愧せねば、自分が助からないと・・・こういうことを書くこと自体が傲慢か。。。
9月23日(祝)14時から常照寺さま秋季彼岸会法要にお伺いさせていただきます。至らぬことばかりをお許しください。
それでは皆様にお会いできることを、楽しみにしております。

荒山 淳 拝

ナイときは欲しい、欲しいときはナイ。水を求めて雨を厭い。食を求めては米を選び、慰霊の送り火は薪を選び、復興の狼煙は花火を選び・・・。そんなことをやりながら、ついつい外にしか向かない私たちの「批判」ですが、ある方の言葉を借りれば「自己批判を伴わない他者批判は意味がない」のです。

此岸のこの身の横着さを知らずに「助かる(到彼岸)」ということはありません。我が身の「オオチャクイ根性」を互いに確かめさせていただきたく、お彼岸のご案内を申し上げます。
どなたでもご聴聞いただけます。お念珠をお持ちになってご参詣下さい。

常照寺ホームページ 行事案内 http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/events.html

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批判するだけの存在

2011年09月18日 | ブログ

辞任した元経産大臣の「放射能を伝染す」発言はマスコミの捏造だったことを示唆する記事がありました。
http://www.excite.co.jp/News/
「死の街」という表現については、大臣は率直な感想を素直に述べただけだと思っていました。わざわざ大臣を辞めるまでのことかと。
「放射能を伝染す」については、言ったか言わないかという真偽よりも、発言したとされる情報だけがメディアによって暴走したことは事実です。
大臣は北海道の出身ですが、その出身地である新十津川町は、台風12号による紀伊半島豪雨で被害を受けた奈良県十津川村からの開拓団によってできた街といいます。明治の洪水で壊滅的な被害を受けて北海道の開拓団として移住した、と。
大臣がその末裔かどうかはわかりませんが、少なからず彼を国会に押し出した票には、被災と移住の過去の苦労を伝え知る人も少なくないはずです。
その大臣が、被災者を貶めていくような発言をしたつもりもなく、誘導尋問に引っかかるがごとく「死の街」という表現を使っただけで、着任早々仕事もせずに辞めることになるにはそれなりの理由があると思うのが、錯綜する情報に彷徨う私にとっては普通です。
そしてこの「マスコミによる捏造」疑惑・・・。http://gendai.ismedia.jp/
この疑惑の真偽も同じく不明ではありますが、「辞めた」のか「辞めさせた」のかはともかく、もともと「辞めさせる」だけの理由が必要だったとしか考えられなくさせられます。
政治と行政の狭間でマスコミが利用され、ふりまわされるだけの視聴者の一人。
批判は方々に向かうのですが、それで終わってはいけないんでしょう。だれが着任早々の大臣に仕事もさせずに辞めさせるだけの理由を欲し、それだけの記事を書かせたのか。
ああだこうだと報道に振り回されている自分が面倒くさく、それによっていちいち誰かの批判ばかりしているのも飽き飽きです。
自己批判の伴わない他者批判は下らないのです。傍観しているだけなのも面白くありません。
「真実を伝えなくてはならない」とかいう旗もとからは、誰かが意図したことしか聞こえてきません。
誤解を恐れずにいえば某テレビ局の「怪しいお米セシウムさん」事件の方が、よっぽど現場の真実を伝えているとまで思います。

池上彰が特番でいいました。
アメリカのエシュロンという通信傍受システムによって日本のすべての発言や文章がチェックされているということを国会議員はもっとよく自覚するべきだと。
メディアは国会議員に「黙れ!」というのか。
それとも暴言を期待しているのか。
少なからず愚民は「暴言」にとびつき視聴率を上げる存在ではあります。
なんだかんだ言いながらテレビを点けては「くだらない。くだらない。」といっている私。誰かさんに言わせれば「愚民には文句だけ言わせておけばいい」のでしょう。その矛先を替えるだけで事が運ぶのですから。
ただ批判するだけの存在でなく、大臣に仕事をさせないのはどこの誰だか胸に手をあてて考えなくてはならないと思いました。
真偽を見る目線を欲するといいつつ、損得の目線でしか見られない眼。頼るべくは眼ではなく真偽を「聞く」というチカラであるようにも思います。

余談ですが、池上彰がいいました。
ビンラディンにはコンプレックスがあったと。
潜伏先には、コーランやその解説書、そのまた解説書がずらりと書棚にならんでいた。大学で経営学を専攻していた彼は宗教やイスラムの教えを知らないことを恥じていたと。
だとすれば何か通じるものを感じます。
僧侶でありながら仏教がわからない。原典が読めない。解説書さえも理解できない。
解説書の解説書を買いあさって気を紛らわし、上っ面だけを見て知ったようなことを言っている。
見えている表層でなく、見えていないところを見抜くには「聞く」ということに尽きるのかもしれません。

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テラマイラー

2011年09月16日 | ブログ

「如是我門 一時薄伽梵」ではじまる経典があると聞いて・・・。
赤塚不二夫氏の「天才バカボン」は、この「薄伽梵【バギャボン】」から、「レレレのおじさん」は釈迦の弟子「周利槃陀伽【シュリハンダカ】、バカボンの弟「ハジメちゃん」はかのインド哲学者、中村元氏をモチーフにしているというのは今や有名な話。
もともと「Bhagavad」を音写した薄伽梵は【バガボン】と読まれますし、【ヴァガバッド】とも発音されますから、なるほど井上雄彦氏の「バガボンド」は「薄伽梵」+「土」=「浄土」を表現しているのか?と・・・勝手に想像を膨らませてみました。
「バガボンド(vagabond)」は、英語で「放浪者」「漂泊者」という意味だそうです。
ちなみにサンスクリットで「薄伽梵」は、「世尊」「如来」を意味するということです。
さてその井上雄彦氏作の屏風「親鸞」の秋季特別公開のお知らせがありました。
http://www.higashihonganji.or.jp/info/news/
場所は東本願寺「渉成園」閬風亭
http://higashihonganji.or.jp/special/#/shoseien
東本願寺で宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌音楽法要が行われる11月19日~20日、同じく宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌御正当報恩講の11月21~28日、そして阿弥陀堂後修復工事着工にともなう御本尊動座式が行われる11月29日までの期間、円山応挙筆の衝立や徳川慶喜筆の扁額なども公開されるようです。
秋の京都に是非足を運びたいと思います。

余談
NHK番組(「セカイでニホンGo」9.15放映http://www.nhk.or.jp/)を見て、今ごろになって「墓マイラー」「墓トモ」なる存在と言葉を知りました。
墓マイラーは著名人の墓地を巡ってお参りする人、墓トモは共同墓地の会員同士のコミュニティをいうようです。
面白いなーと思います。
墓をとおして生死を見つめ、その意味を求めたときに「寺マイラー」「寺トモ」に展開していく?とすれば、すでにある7万ヶ寺という「僧伽【サンガ】(仏教徒)」というコミュニティに導く道を29万人の僧侶がプロデュースしていく役割があるのではないかと、一人の僧伽として感じたのでありました。そのためにも寺は、その意味と智慧を確かに持ち合わせておかなくてはなりませんが、これがなかなか・・・です。

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ひじが抜けた!

2011年09月09日 | ブログ

近隣の若手僧侶らで開いている「一闡提(いっせんだい)の会」。
この学習会にアドバイザーとして遠路、無償で欠かさずに参加してくださった別院在中の先生が本山(ほんざん)に転任され、昨夜はその送別会。?
例によってベロベロになって帰宅すると、腕に湿布を貼った長男が寝ていました。
?どうも腕が痛いという。?
今朝、幼稚園から帰ったら病院行こうね、と親の都合でそのまま幼稚園に送り出したところ、さっそく幼稚園からお呼出しのTEL。?運動会のお遊戯の稽古ができない、お絵描きペンの蓋もはずせないということで病院へ。?
しかしどこ(何科)へ行ったらいいものかと悩みつつ、いつもお世話になっている近所の小児科に相談。?
「うーんどれどれこれは痛いかな?」と言いながら、腕をパコッ!っと(驚)?
肘の亜脱臼で肘内障というのだそうです。
?いわゆる「ひじが抜ける」というやつで、厳密には脱臼ではなく靭帯がズレた状態だそうです。
 http://baby.goo.ne.jp/member/ikuji/byoki/2/kenkou03_69.html
ともあれ何事もなかったように元気に幼稚園に帰っていったのでした。
?おかげで午後からの公開講座に出席の予定がキャンセルになり、このような言い訳的なつぶやきをしておるのであります。

それにしても昨夜の送別会の席で、どなたかがおっしゃっておられた言葉が断片的に記憶にとどまっています。
「年下の人を理解するには、年上の人を理解する3倍の力がいる」
つまり「若い人間とつきあうのは、年上の人間とつきあう3倍の力(体力・精神力)がいる」といったニュアンスだったかと。
若手(この業界では30代・40代もこう呼ぶ)の育成につとめた先生の労をねぎらう言葉でしたが、何が言いたいのかというと、ひじが抜けた長男のことではなく、まさに「手を抜く」ことなく私たちの育成につとめて下さったと改めてお礼を申し上げたいのでございます。
子どもの主張も症状もまるで理解できない名ばかりの親の私に、その送別の席で親の心を伝えていって下さったような気がします。
あたたかいお伝えではありますが内容は厳しいものです。
子どもの主張を「理解できない」のではなくて「理解しようとしない」のが「名ばかりの親」だということです。
名ばかりの親に欠けている資質は「聞く」「待つ」「信じる」。親が親であるために必要な要素だと教えられました。
問題はそれがどこで育まれるかです。子が育つとは同時に親が育つことでしょう。
子が育てられるのと同時に親がまた育てられていく場を、仏の名のもとに開いていきたいと思います。

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