遊煩悩林

住職のつぶやき

免疫力

2014年05月28日 | ブログ

5月23日、真宗大谷派三重教区の社会教化小委員会主催の「カルト問題」学習会に参加させていただきました。
東本願寺青少幼年センター幹事の四衢亮氏からは、「カルト」という語源から被害の概要についてなど、また「真宗の教えからの視点」についてお話をいただきました。
一概に"カルト"を定義づけることはできません。
ただ過度な「集団アイデンティティ」によって、批判が許されず、服従を強いられ、労力と時間、財産を奪い取られるカルト問題。
これらは「ブレインウォッシング」といわれる「洗脳」とは違い、いわゆる「マインドコントロール」といわれる手法によるといわれます。
それは「オレオレ詐欺」や「振り込め詐欺」と同じ手口といってもいい、と。
カルト性の強い教団や集団による、学生のサークル活動を通じて勧誘されるケースが目立つともいいます。
まさに子どもから年配の方々までこのマインドコントロールのターゲットになっているといえます。
氏は、これらの勧誘を防ぐことはできないといいます。しかし一度入会したりすると、抜け出すのに莫大な時間と苦労が待っている。だから入会を防ぐには予防がいちばんです、と。
さて、何がいちばんの予防策なのか。
「本来の宗教性に触れることだ」といわれます。
本物を知らなければ本物でないものを本物と思ってしまうのが私です。
自ら本来の宗教性を発信できているのかと自己批判しつつ、各ご家庭のお内仏(おぶつだん)を中心とした生活の中で偽物に対する免疫性を育てたいと思います。

詳しくは東本願寺青少幼年センターのホームページをご覧ください
?http://www.higashihonganji.or.jp/oyc/cult/

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いたづらに暮らして

2014年05月26日 | ブログ

それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。
蓮如上人『御文』第3帖第4通

「いたづらに明かし、いたずらに暮らして、年月を送るばかりなり」という言葉のとおり、いたずらに過ごして"つぶやき"も滞っております。
ただ、「いたずらに」とは言いつつも、本人はそれなりに一所懸命に毎日を過ごしているつもりです。
今月16日に桑名別院で行われた「同朋大会」で講演された池田勇諦氏の講題は「怳忽の間に」というものでした。
「怳忽(こうこつ)」は、辞書によると「うっかりするさま。ぼんやりするさま。」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%80%B3%E5%BF%BD
とありますが、「王舎城の悲劇」を描いた観無量寿経の序分について、善導大師の「観経疏」にみられる

  嗚呼、哀れなる哉。怳忽の間に斯の苦難に逢える

というこの記述について、「『怳忽』といっても何も一瞬ボヤッとしたわけではない、むしろ一所懸命に生きてきた結果の悲劇」と仰っておられたように思います。
一所懸命に生きてきた結果として起こってきた悲劇という「結果」から見た時に、何でこんなことになったのか、こんなはずではなかった、と。
蓮如上人に言わせれば「いたづらに明かし、いたづらに暮らして」ということでしょうか。
何も「いたづら」になど過ごしているつもりもない、ぼんやり毎日過ごしているつもりもない。けれども起こってきた現実に対して、その一所懸命に生きてきたその時間は「怳忽」であったと断じざるを得ない事柄が起こってくる。
つまりその一所懸命に生きているところに、大事な事柄が抜け落ちていたということではないかと聞かせていただきました。
その大事な事柄を蓮如上人は

受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり

と遺しておってくださいます。

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誰の願い?

2014年05月01日 | ブログ

 神は人間を超越した不思議な能力を有し、我々に禍福を降ろす存在である。キリスト教の神は全知全能・宇宙を創造し我々を裁く絶対者としての存在であり、神道の神は国土を創造し支配する神聖な存在である。そして神は我々の欲望を適えてくれる存在であるため「願う宗教」というべきである。しかし、我々の方から「願う宗教」は、困った時の神頼みのごとく、不幸な出来事から逃避する「逃げる宗教」であり、いつも願いが適うとは限らないため、「裏切られる宗教」でもある。そして、願う心は日頃、神仏を大切にしておけば不幸な出来事がふりかかってこないかもしれないという気持ちが基本であるため、神仏との取り引きをすることにもなる。
 これに対して仏教は我々が仏(覚者)になる教えであるから、仏は我々の大先輩であり、中でも阿弥陀仏は、我々の欲望から解放してくれる存在である。「願う宗教」の虚しさに気づき、迷いから目覚めよと、目覚めた仏から「願われている宗教」である。(『宗教』三〇八号・要旨)
真宗教団連合 2014年法語カレンダー 『月々のことば』/本願寺出版社

上記は『月々のことば』からの孫引きですが、筆者はこの「願う宗教」を「請求書の宗教」、そして「願われている宗教」は「領収書の宗教」とも表現しています。
請求ばかりでは駄目だということではありません。常に「ありがとうございます」と、領収書を発行しつづけなければならないといいたいのでもありません。
言いたいのは、神仏を「不幸な出来事」をできるだけ遠ざけようとする手段のひとつにしてしまっている「私」ということです。注意しておかないと、欲望を適える神が駄目で、欲望から解放してくれる仏はいいという話に聞こえかねません。欲望が適ったときだけ「おかげさま」という「領収書」を発行するような私自身のあり方が問題視されているということでしょう。
キリスト教や神道の神々を批判したり、否定するのではありません。
祈りを捧げ、願いを適える、つまり自分と自分たちの都合のいいことばかりしか求めることができない私、思いどおりにならないと気がすまない私に対して、その欲望に気づかせ、思いどおりにならないことを思いどおりにしようとしていたその欲望こそが「苦」であったと知らしめていくプロセス。そこに私を願う仏さまのはたらきがあるのではないかと思います。
「願う」の主語が問題なのでしょう。
「私」が主語になると、対象物を設定して目的を達成するための手段にしかなりません。この主語が「私たち」といった時はさらに危険な気がします。「私たち」が願うことが、それ以外の「人たち」の願いでなければ対立を生むのでしょう。
平和を願い祈る「私たち」と、また別の「私たち」が争いあう私たちです。
主語は「仏さま」。仏さまが、「私たち」ではなく、すべての「私」に対して呼びかけておってくださることがあります。何と呼びかけておってくださるのか。その喚び声を聞いていくことが宗教の本質ではないでしょうか。
それでも、それでも日々、都合のよいことを求めてばかりで、大事な事に気づかない私。

私が願うのは神さま 私を願うのが仏さま

と掲示板に記しました。

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