遊煩悩林

住職のつぶやき

おわりとはじまり

2013年12月26日 | ブログ

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も!

2013年12月25日 | ブログ

そうこうしている間に今年も残すところ1週間。
年賀状に取りかかるところまでくれば、しめたところですが・・・それはいろいろ翌年に持ち越すことでもあります。

さて、今年は喪中はがきをいただいた方にもお正月のご挨拶状を送ることにしました。
喪中の欠礼はがきをいただいたご門徒の皆さまにはひとつご容赦のほどを。
もちろん「あけましておめでとうございます!」といった賀詞は控えさせていただきますが、ひとこと喪中の交際を忌み嫌いませんので、と付け加えて。
これまでは、いくら極楽浄土に往生を遂げたといっても正月を祝う気持ちになれないといったお気持ちに配慮してという理屈から、寒中のお見舞いとしてご挨拶を申し上げておりましたが、それも言い訳に過ぎないかな、と。
逆に如来の本願力を疑っている証拠だと思い至ってのことです。
どんな理屈をつけたとしても、結果的に死を穢れとして肯定していくことになることの方が亡き人を冒涜し、また遺された者の迷いと悲しみを増長することにはならないでしょうか。

またややこしいことを言っておりますが、なぜ「喪中はがき」をくださった方に寒中見舞いを出すことが、如来の本願力を疑っていることになるのか。また、死を穢れとして肯定していくことになるのか。
それは「も」の存在を前提化することで認めてしまうことになるからです。
いくら「内心に他力を蓄えて、表向き仁義には従いなさい」といわれても、喪の服従者になることが仏教徒としてどうなのか。仁義に従うことで弥陀の五劫思惟の誓願を汚すとすればどうなのか。という信仰態度を問うテーマとして、この師走の慌ただしいなかで考えはじめてしまったのでございます。

そもそも「喪」とは何なのでしょう。喪に服すことを「服忌」といって江戸時代は「服忌令」によって定められていました。明治になって諸説ある服忌の慣習を太政官布告によって改めて制定し直されたものが、実に戦後に廃止されるまでつづいてきたようです。喪に服す具体的な内容としては、家に引きこもって外交わりをしない、とか鳥居をくぐらないなど様々ですが、それは次のような「触穢」思想によるものでしょう。

穢として強く人々に意識されたのは、死穢・産穢・血穢の三つであり、これらを三不浄と総称し、人畜の死に発するのは黒不浄、出血にかかわるのは赤不浄といわれた。また、穢は伝染するものと固く信じられ、穢に染まることを触穢といい、これを避けて生命力を保持すべく、不浄とみるものを遠ざける忌、清浄とみるものを隔離する斎が行なわれ、これを服忌・斎戒などといった。「部落問題辞典」

このような浄穢感は、江戸時代の封建的身分制度や、男尊化を支えるひとつの根拠でもあったことからすると、服忌制度はそれ自体、家制度、家督相続、男性中心社会を是とした儀礼で、現代の人権感覚からはほど遠い。にもかかわらず、その流れを汲む喪中はがきを、いかにも常識的に行っているとすれば、何も特別な人権意識を持たずとも恥ずべき悪習とさえ感じられてきます。
さて、とあるご門徒の中陰のお参り中、「喪中」について話し合っていたところ、そのお宅のお嫁さんが神宮司庁の服忌表というのを見せてくれました。

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「へぇー!」と写真を撮らせてもらってきましたが、これでいくと夫の親が亡くなったら妻は喪に服さなくてはなりませんが、妻の父母が亡くなっても夫は喪に服さないことになります・・・。

式年遷宮が行われた伊勢神宮。今年は過去最高1300万人もの参拝があったとも。様々な行事が行われるなかで、その行事への参加を巡ってやはりこの「服喪規定」を私たちが欲し求めるとするならば、どこまでも進歩がないように思えてなりません。
そもそも年賀欠礼の挨拶状が一般的になったのは、実は「喪」を定めた法律「服忌令」が廃止されてからのことだといいます。そこには古い因習を知的常識としてあおる者と、そうとも知らずにあおられた私たちの無知ということがみえてきます。

そんなことを考えると、「ウチの死穢があなたに伝染するといけませんから、歳暮も正月の挨拶も遠慮しておきます」というのは、「欠礼」とは言いながら相手にとってそんな失礼なことはないともいえるのではないでしょうか。
「喪中につき年末年始の挨拶をご遠慮させていただきます」というのは、服喪教の信者さんに向けての言葉であって少なくとも仏教徒に対する言葉ではないでしょう。
さらにいえば、「個人生前中のご厚誼に深謝して明年も変わらぬご交誼をお願いします」と続くのですから、果たしてこの方々は故人をどこにお送りになったのだろうか?と問わずにはおれなくなってしまいます。「生前中」というのですから、どこかに生まれてくださってあるわけです。生まれる前のご厚誼に対する謝辞です。仏教であれば極楽浄土に生まれたというのでしょう。だけど浄土に往生を遂げたはずが、喪中だから穢れが伝染るというのでは、浄土往生を約束された如来の本願力を反故することになりはしないでしょうか。
何も君子面して喪中はがきケシカランといいたいのではありません。自身、喪中とまでは宣言しませんでしたが、過去に年賀を欠礼したことがあることの反省です。
弥陀の五劫思惟の誓願を汚すというのは、五劫という途方もない年月をかけて完成された私たちの往生浄土のお約束を、世間的常識と称する善人根性でひっくり返してしまうようなことだとまで思い尽きるのです。
ただ、そんな私の根性までを見越して如来の本願が建てられていることを知った時に、どうでもよいことをしながらイタズラニアカシ イタズラニクラシテ 年月オクルバカリの私を知らされます。
歳暮がどうの、年始の挨拶がどうのという世事に振り回され、如来さまやご開山さまへの礼は尽くしているのかと問われます。

新しい年の掲示板のことばが浮かんできました。

疑い 疑い 疑いぬいて
疑う余地のない時にはじめて
信が芽生えてくる

暁烏 敏

なかなか信の芽生えぬ私でございます。今年も他愛のない「つぶやき」に耳を傾けてくださいまして有り難うございました。また明年のつぶやきをよろしくお願いします。

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デタラメをマコトシヤカに

2013年12月01日 | ブログ

三重教区の親鸞聖人750回御遠忌事業として公演された劇団大阪による「臨界幻想」を南勢からバスで観劇ツアーを組んでみてきました。
芝居はみた人だけの感動ですので詳しいことはとにかくとして・・・、このなかで「この国はデタラメばっかり」という台詞がとても印象に残っています。
この世には真なるものはなはだ少なく・・・という親鸞の精神に通じるものを感じました。
真なるものがないことを知ることによって、真なる世界を欲することができるとも思いました。

世は無常なり。
これは真実でしょう。
ただ世の中は真でないものに満ちています。
世はそのままが真実なのですが、世の中はそうにもいかない。真実の受けとり方が違うというか、「世間虚仮」といいますが、「世間」つまり世の間は偽物なのでしょう。

この劇のチラシを様々に持って歩きましたが、あるご門徒から「ご院さん。お坊さんたちがこういう活動をされて世の中変わると思いますか?」と尋ねてくださった方がありました。
そのときは「『世の中を変えたいと思ってやっているかどうか』というより自分は『どうなりたいのか』『どうしたいのか』という疑問的な感覚が強いですね」と曖昧なことしかいえませんでしたが、公演をみて今はっきり思うことは、世の中が変わるかどうかはしれないが、私自身は少なからず変わることができるということです。

さて今月のお寺の掲示板に

ある人いわく「死ぬのが怖い」
師いわく「お前、生きとったんか」

と記しました。
これは東本願寺出版部発行の月刊『同朋』に連載されている「真宗入門」の11月号(往生とは)に抄出されていて記憶にあったことばです。http://books.higashihonganji.or.jp/defaultShop/disp/CSfLastGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=15143&dispNo=001001

ただただ垂れ流し的に生きさせられている感覚を拭えない現代において、デタラメをマコトシヤカに生きている自分との自覚をむねに、「生きている」という実感を伴って生きるということ、そんな新年を迎えるべく師走を過ごしたいと思います。

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