遊煩悩林

住職のつぶやき

トイレがない!

2012年09月27日 | ブログ

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便所のない別荘

数日前、玄関の網戸の隙間から上がり込んできた子ネコ。子どもらが勝手に「ミーちゃん、ミーちゃん」と呼んで居つかせてしまいました。
トイレトレーニングしているのですがなかなか・・・。床にオシッコ、ソファにウンコ、ノミだらけのカラダ中にゆるいウンコをくっつけて・・・。

煩悩をのけた念仏は 便所のない別荘だ

大正から昭和の時代に仏灯を掲げられた池山栄吉という仏者のことばだそうです。http://komyouji.com/hougocalender/2012-4.html
我が家は別荘ではありませんが、便所を知らない野良生活を送っていた子ネコにとっては、人間の都合でいえば別荘といえるのかもしれません。

ここでいうのは、煩悩がはたらくところにお念仏がはたらくのであって、煩悩のはたらかないところにはお念仏の風はふかないということ。お念仏によって煩悩のはたらきを鎮めるのではなく、念仏によっていよいよ我が身の煩悩がますます盛んなことを自覚させられるともいえるのでしょう。お念仏を有り難い有り難いといって毎度毎度手を合わせるのは結構だけれども、それは煩悩のおかげさまなんだということかもしれません。
いくら豪華な別荘を建てたとしても、便所がなければそこに人は住めないわけです。
「便所のない別荘」には人間とその生活が排除されています。
その意味で受けとれば「煩悩をのけた念仏」というのは、念仏を人間の生活とは無関係の事柄として扱っているに過ぎない。しかし念仏は人間とその生活とは無関係ではない。別荘に便所が必ずあるように、人間の苦悩の原因である煩悩にこそ、必ずお念仏が伴っている。つまり人間の苦悩には常に念仏が寄り添ってあるということでしょう。
人間存在のあらゆる苦しみや悲しみは、この私がお念仏のはたらきによって必ず救われていくご縁となるのです。お念仏によってどこかの誰かを救ってあげるのではありません。「救われるべき人間」とは、他ならないこの「私」、煩悩いっぱいのこの私のことです。

念仏のない私は 便所を知らないネコか

いつまでもトイレを覚えてくれなければ、ともに生きることはままなりません。

トイレのないマンション

原発について「トイレのないマンション」と喩えられます。
核廃棄物の処理に関して原発を否定する立場でよく用いられている言葉です。反原発を主張するのにいうのですが、生命の危機を及ぼすような放射性廃棄物を糞尿に喩える表現に、被害を被った方々の違和感を感じつつ・・・。
ネコの糞尿は、拭き取ってゴミ箱へ、汚れた部分は洗濯すれば済みます。
誰が掃除するのかといえば、そのネコのいのちを受け入れてともに生きようとする者がするのでしょう。
「トイレのないマンション」に人は住めませんが、原発事故は人が住む場所に「トイレのないマンション」を建ててきたことを知らしめました。
溜め込んだ排泄物がまき散らかされた今、この排泄物は誰の排泄物なのか、誰の排泄物を誰がかぶり、誰が処分するのか。
トイレがないのを知ってか知らずか、いったいどこの誰がどれだけ飲んで食べてしてきたのか。我が身に問われることです。
マンションを建てた人にその排泄物を処分させるのか、建てさせた人に処分させるのか、さんざん飲み食いして排泄した人はどうなのか。そもそも処分のしようのない排泄物をどこにどう処分するというのか。
排泄した人が、まき散らかされた人と「ともに生きよう」とするならば、必然的に「ともに」という「つながり」が生まれるはずです。
その「つながり」を分断するはたらき、分断しようとする力もまたつながる。
そこに目を光らせる眼差しが如来の光ではないでしょうか。
「夢のエネルギー」といって「トイレのないマンション」を建て続け、黙って建て続けさせた私。
先日の彼岸会では、名古屋東別院の教化センター主幹の荒山淳さんから「人間存在の悲しみ」という視座をいただきました。
その存在そのものを悲しまずにはおれない如来の眼を感じるとき、排泄物を再利用できるという「夢」の中で寝ぼけて「トイレのないマンション」を建て続けた私たち人間の夢が夢であったと気づかされます。「目覚めよ」という響きがナムアミダブツではないでしょうか。
かつて、さまざまな排泄物は肥料として資源化されましたが、「トイレのないマンション」の排泄物の核燃料リサイクルという夢うつつの中で、トイレの必要がないような子守唄に眠らされてきたことを知らされた私たちです。

悲しみの共有

この夏、「ともに生きよう」とつながった福島の子どもたちや保護者からいただいたお手紙やメッセージを読ませていただく中で、今改めて「悲しみの共有」ということを思います。
子どもたちやその保護者の方々とたくさん遊び、たくさん笑った時間でしたが、その出会えたよろこびやうれしさや楽しみはすべてこの「人間存在の(根源的な)悲しみ」に支えられてのことだったのではないかと思うのです。
浄土真宗の僧侶や門徒らが中心になって呼びかけたことで、「仏さまのお慈悲」に根ざした慈善事業、社会貢献的な評価を受けることがあります。
いろいろな目線でそれぞれの評価があるのでしょうが、根っこは「つながって!」という呼びかけに、「うん」と頷いたまでのことです。
世間には「支援する人」と「される人」という見方がありますが、する人もされる人も「ともに」支えられているという感覚や、悲しみを抱えながらも生きていこうとする意欲を思うとき、善意の押し売りではつながれないことを改めて思います。「いいことやったね」などと評価されると複雑なのです。
社会的にどんな評価を受けようが、国の安全宣言を反故にするような活動だといわれてもそんなことはどうでもいいのでしょう。
ただあえていうならば、社会的な評価を求めたり、達成感や自己満足に浸ってみたり、至らなかったことや失敗に卑下してみたり、それでも「やったどー」と自負したい『善人根性』が知らされてきた時、子どもたちをさまざまな視線にさらして「利用した」ことにしかならないことが知らされる。人のためにやるというならば、そこからいよいよ救われないような私、助かりようのない私がはっきりしてきます。
ネコのためにその世話をやいてやるのではないように、「福島のこどもたちのために何かやってあげる」のではない。可哀想な子どもたちを助けてあげるのではないのでしょう。
自分が排泄した糞尿に迷惑を被っている人を「可哀想」と呼んでいくような、その救いようのない私がほんとうに救われることのないような自分であったと受けとめられるとするならば、そこに仏教的な意味も開かれてくるのだと思います。
哀れみや同情や、助けてあげようという正義的な人間の発想努力では、苦しみや悲しみをごまかすことはできても助かることはないのでしょう。支援する側される側を分たずに、立場を入れ替えつつ、互いに支え合っていることを教えられながら、悲しみをともにしてはじめて、ともに生きることがはじまるのではないでしょうか。
悲しみの共有といっても、互いの傷をなめ合おうというのではありません。人として生まれたことの「悲しさ」に裏打ちされて、人として生まれたよろこびを共有しつながり続けたいと思います。

ちんぷんか

彼岸会で荒山先生からこの句をいただきました。

たらいから 盥へうつる ちんぷんか
一茶

自分の排泄物はただ便器に流し、子ネコのウンコに右往左往する私です。
「便所のない別荘」も「トイレのないマンション」もいったい何が優先されて、何がぬけているのかと問うたとき、今ここにある私が問われてきます。
誰かに産湯に浸けてもらったことも、誰かに納棺前に湯灌をしてもらうことにも気づかずに、誰にも世話になってないような顔をしている生きざまを「ちんぷんか」と。チンプンカンプンなことにも気づかずにいるから「ちんぷんか」と。

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
歎異抄

合掌

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人間存在の悲しみ

2012年09月18日 | ブログ

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常照寺の秋のお彼岸のご案内です。

人間存在の悲しみを、私の悲しみとして受けとめた如来の御教えが響いた時、あらゆる人々の悲しみも観えてくるのであろう

とのご述懐をセンタージャーナル(2012.7.3「同じく悲引す」)から勝手に抜粋させていただきました。

全文はこちら
真宗大谷派名古屋教区教化センター「お東ネット」
http://www.ohigashi.net/center_kantougen.htm

いつも「正義」に傾き、常に「大悲」から目を背ける我が身を知らせる視線を彼の岸からいただきたいと思います。

他力には義なきを義とす
親鸞聖人御消息

念仏には無義をもって義とす
歎異抄

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靴の中の小石

2012年09月10日 | ブログ

どうも凡ミスが多いこのごろです。
事前に用意したつもりが、「いざっ」という途端、失敗の多いこと多いこと。
自分で呆れているくらいですからめでたいものです。
しかも誰かが問うてくれるわけでもないのですが、次から次へと言い訳が湧いてきます。
誰かという他者に問われるわけでもなく、言い訳が次から次へと出てくるということは、自分で問うて自分に言い訳しているわけです。
しかもすべて自分への慰めか開き直り。忙しいからとか、疲れているからとか、結局「しょうがない」「しょうがない」と自分を擁護することばかり。
仏教でいう内観が「自己を問う」ということだとすれば、果たしてそれは内観というのか。自己を問うというのか。言わんのでしょう。
ただ、問われてもいないのに言い訳が起こるような私であるということだけは自覚させられます。ではなぜ、言い訳するのか。
何かの言い訳のために、何かを誤摩化すために日々行動し、生きているような毎日になっているのではないかと思い至ります。
そもそも明日のゴルフの準備を2日も3日も前からはじめる性分が、その支度が追っつかない。事前の準備は、緊急を要する事案に対処するためにも大事だと思ってきたのですが、その支度も整わないまま、次から次へと舞い込んでくる事案に締切順に追われる。
そういえば、来るかどうかわからない先の準備ばかりして毎日過ごしているような、現在を生きていない感覚をいつかも書いたとおりです。
それがいつの間にか、その先の準備もままならず、現在を成り立たしめようとする充分な準備もなく、その言い訳と慰めに終始するステージに至ったというところでしょうか。
「アンタはこの世に何しにきたのや?」という問いを人間はいただいています。
「それがなかなか忙しくて考えとる暇がありませんのや」という言い訳に生きているのではないか。
何をやっても問わされる日々です。

それでも、それでも凡ミスの言い訳は「靴の中の小石」と。
自分にとって都合の悪い物事・・・そんな小石がゴロゴロしているような違和感、被害者意識・・・被害感情でしょうか。
自己を問うということなく、自分のペースを乱しているのはこの靴の中の石ころのせいだと決めつけて疑おうともしない。
その「靴の中に石を抱えた自分」が集団の中で、その集団という靴の石になってしまっているにもかかわらずです。
取り返せないようなミスを連発しながら、人のせいにしてみたり、言い訳してみたり。迷惑かけ通しの日々だけに、余計に周囲の気遣いやフォローを感じます。
案外、靴の中の石はなくしたはずの宝石なのかもしれません。

恥ずべし 傷むべし

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