遊煩悩林

住職のつぶやき

出遇いの質

2018年06月01日 | ブログ

「つぶやき」に告知するのを失念しておりましたが、先月末に常照寺の永代経をお勤めしました。

今年も名古屋から荒山優さんにお越しいただき、お話をいただきました。

「就人立信」-じゅにんりっしん-

人に就(つ)いて信が立つ、と。

ひとに出遇うことで、はじめて自分というものがはっきりするのだと噛み砕いてくださいました。

仏道をならうというは 自己をならうなり

と道元禅師はいわれますが、自分ということを知る、学ぶという問題。

この世は自分を探しに来たところ

と河井寛次郎は表現されます。

「就人立信」という教えを提起されて、「じぶん探し」の仕方・方法について一考。

一所懸命に「ほんとうの自分」なるものを探しまわってもなかなか見つからない。

それはその探し方の問題なのだ。

ひととの出遇いによって、自分というものがはっきりしてくるというのですから、ほんとうのじぶんを探すというのは、ほんとうに出遇うという「出遇いの質」の問題ということだ。

そうすると、なかなか自分が見つからない、はっきりしないというのは、ちゃんと人と出遇っていないということになる。

なかなか私が定まってこないのは、そこに問題があるのではないかという問題提起です。

他者こそが私を映し出してくださる鏡。

いちばん身近にいる人とちゃんと出遇えているか、はたまた生きとし生けるあらゆる人々と等しく出遇えるのか。

それとも生死を超えた「誰に」出遇うか。

 

さて永代経では、「私を支えるひと言」というテーマのエピソードも聞かせていただいた。

エピソードの中身は紹介できませんが、東別院の親鸞聖人御遠忌における座談会のテーマだったそうです。

「あいつのあの言葉だけは許さない」的なひと言は忘れないものですが、「私を支えていてくださるひと言」と問われると・・・

どうでしょう。恨み言ばかり記憶して、自分を生かしてくれている事柄にあまりに無頓着な私。

恨み言を蓄積していく時間がつくっていくじぶんと、自分を支えているはたらきを意識していく時間がもたらすじぶんとでは、全く別のじぶんの姿になるのだろう。

 

毎月初頭に、あんな言葉こんな言葉と選んでは掲示板に書き記しておりますが、私というものを言い当ててくださることばにちゃんと出遇っていかなくてはなりません。

悟るといふても 迷うていることを 悟るのである

安田理深

6月の掲示板に書き記しました。

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