遊煩悩林

住職のつぶやき

なかなかなまま

2022年12月31日 | ブログ

ふれかえれば、年々、更新の頻度が落ちてきているかなと。

内容が濃くなればよいのですがなかなか。

なかなかなまま齢を重ねてきた。なかなかなまま過ごし、なかなかなままやがていくのだろう、と。

コロナ下といえど、毎月の同朋会に足を運んでくださった方々。

そのご足労のおかげで、せめて月に一度の更新。

常照寺の掲示板に掲げた月のことばについて。

今年、法語の横に、つぶやきのQRコードを貼り付けたところ、読み込んでくださる方の光景にひそかなよろこび。

スマホに興味のないご門徒は、「最近、掲示板の写真撮っとる人が増えたな」と。

確かに。傍目にはコードを読み取っているのも、写真を撮っているのも同じスタイルだ。

たびたび申しておりますが、常照寺の掲示板は「?」がテーマ。

いわゆる「いいことば」という基準でなく、お寺に?なんで?と首を傾げていただくのが狙いのひとつ。

そこから「入門」ということがはじまってほしいところ。

そう考えると門内に暮らしているものはどうか。

常に入門し続けているかといえば、やはりなかなか。ただ出たり入ったりしているだけだ。

先日届いたある紙面に

お寺にいる者が寺離れしてんじゃねーか

と。

ドキッとしかしない。

さて、そんな反省と閲覧へのお礼を兼ねて年末年始のご案内。

本年の投稿を終いたいと思います。

おわりとはじまりの接点に、梵鐘の獅子吼を聞かせていただきたく。

 

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まかりならん

2022年12月21日 | ブログ

ワールドカップが終わった。

大河ドラマも終わった。

忘年会も終わった。

楽しみにしていたものが終わっていく。

この儚さは、ただ楽しいばかりでない日常の束の間を埋めるだけのものだろうか。

サッカーは負ければ終わり。

大河は主人公の死とともに終わった。

忘年会は飲んだくれて終わった。

サッカーも大河も忘年会も終わったけど、その前後や背景が気になる。

うん。終わったけど終わってない。

サッカーであれば、前回代表漏れした選手が得点。

今回、代表を逃した誰が4年後、いやオリンピックで活躍するかとか。

大河であれば、義時の死後の鎌倉、またいかに幕府が滅んでいくかとか。

忘年会ならば二日酔いを反省しながらどこまで記憶を辿れるかとか。

さて。

北条は上皇らを島流しに処した。

かの「承久の乱」。

その背景にみる「承元の法難」。

朝廷の念仏弾圧により4名は死罪。法然は土佐。親鸞は越後へ流罪。

その後、承久の乱によって、後鳥羽は隠岐、順徳は佐渡、土御門は土佐へ配流。

後鳥羽は出家。

親鸞は僧籍を剥奪されて流され、後鳥羽は僧侶となって流された。

後鳥羽は晩年、隠岐で「無常講式」を執筆したと。

講式はやがて、本願寺第3代覚如上人の子、存覚が自著に引用し「存覚法語」として伝わる。

第8代蓮如の「白骨の御文」の出拠は「存覚法語」だが、そのベースに「無常講式」。

念仏を弾圧した後鳥羽による願生浄土の思いを、親鸞はいかに知り、受けとめただろうかと。

「歎異抄」末には、死罪に遭うた4人の名。

まかりならんものか。

歴史上の出来事で済ませてはならぬ。

「首の飛ぶような念仏」であることを忘れてはならぬのだ。

 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。

あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

蓮如上人『御文』5帖目第16通「白骨の御文」

 

「あわれというも中々おろかなり」というが、「儚」をググると「おろか」とあった。

しっくりきた。

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始末

2022年12月02日 | ブログ

師走にあって寒い。

日暮れも早い。朝はなかなか明るくならない。

日が短いのか。過ぎるのが早いのか。

気忙しい。

気忙しさは「始末」に追われる感覚か。

いよいよあれもこれも年内に始末をつけなければならんという脅迫的観念か。

翻って、とっとと始末をつけて、冬眠時間を捻出したいという身体的欲求か。

そんな師走感。

師走感は年齢とともに増していくのではないかと思った。

始末のつかないことが年々増えているということか。

始末のつかないことに、始末をつけようとしているからただ気忙しいのか。

始末をつけなくてよいこと、つけてはならぬことにばかり手をつけているのかもしれない。

結句、いつまでたってもゆっくりなどしていられないのが人という生き物かしら。

いや性分なのか。

では。

いま私は何を為すべきか。

やることがいっぱいあるから忙しいのか、為すべきことがはっきりしないから延々いそがしいのか。

何をやってきたのか。一年を振り返るにはまだ少し猶予がある。

なら、生まれてこの方何をしてきたのか。

新たな年を迎える支度とは。それは何なのか。

何かを求めるようなものがあるとすれば。

どこまでも自己的な欲求、希望や願望、期待の範疇を出ない。

しかもそれを、先々に求めるのであればいつになっても満たされることはない。

御来光といっても望みのまま。希望といっても希望のまま。

いま光に遇うことがない。希望に満たされることはない。

さて今夏、8月1日の大谷祖廟の暁天講座。

念仏するというのは

人間として生きる希望を

後にのこしていく歩みである

梶原敬一

「願心荘厳」という講題のお話しの中で、聞き取らせていただいたこの言葉を師走の掲示板に書き出した。

https://jodo-shinshu.info/2021/09/03/30055/

小児科医として子どもたちが苦しんでいるのを診るなかで。

人間として生きる希望がなくなってきていることを感じる、と。

背景に、個人的な欲望に生きることを求められて絶望しているのです、と。

誰に求められているのか。

誰でもない大人の社会。

人間として生きる希望を見出すことをしないまま大人になった集団。

自己の欲求を満たすことにおいてのみ物事の始末をつけようとしている私が構成員の一味だ。

絶望をつくりだしている。さらさらそんなつもりもないし、絶望しているとも、自分に希望がないとも思わない。

人間に生まれた意味や生きる希望。確か疑問に思ったし、今でも思っているはず。

ただその問いを放棄してんじゃないか。

問うてばかりいても食うていけないからか。問わなくても食うていけたからか。

生きる希望を見出すことができない子どもを、大人であるはずの私のそういう無自覚さ、鈍感さが増殖させているというご指摘ならば。

人間として生きる希望とは。そしてそれを後にのこしていく歩み。

やるべきは始末でなかろう。

といいつつ。

 

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