遊煩悩林

住職のつぶやき

先進的な人権状況

2013年06月15日 | ブログ

国連の委員会で、日本の人権人道担当大使が「シャラップ」と大声で発言していた、との記事をみました。http://www.chunichi.co.jp/s/article/2013061401001081.html
大使の「日本の人権状況は先進的だ」との発言に対して場内から笑いが起き、大使は「何がおかしい。黙れ」と大声を張り上げたといいます。
発言は、拷問禁止委の委員の発言を受けてのものといいますが、場で起こった「笑い」はそれだけのことではないと思います。
未だ死刑を存置する国。国民一人ひとりの人権が脅かされるような憲法の草案が出てきている国です。
他国の「笑い」によって、周囲からどんな視線が送られているのかということにも気づかず、それでも「嘲笑を浴びせるなんてご無礼千万!」と言い放つ島国の人権意識を我が身の上に聞かせていただきました。

さて、6月11日、真宗大谷派の最高議決機関である宗議会(僧侶議員で構成)、また翌6月12日、参議会(門徒議員で構成)において「日本国憲法第九十六条「改正」反対決議」が全会一致で可決されました。

日本国憲法第九十六条「改正」反対決議

政府与党は、日本国憲法第九十六条の「改正」を表明しております。これは国会における改憲発議要件を3分の2以上から2分の1以上に緩和することにより、憲法「改正」を容易にしようとするものです。本来、憲法は、国民からの負託によって、国民に代わって行政権を執行する政府を規制する国の最高法規であります。それ故、他国においても同様に、その改正にはあえて厳しい制約が定められています。

言うまでもなく、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争の放棄」の三大原則を謳う現日本国憲法は、政府が先頭に立ってそれを遵守し、憲法に基づく施策を具現化していく義務を持つものであり、その具体的実践により、初めて日本国憲法は世界に誇りうる憲法となります。

「国豊かに民安し。兵戈用いることなし」と説く『仏説無量寿経』を正依の経典とする私たち真宗大谷派宗門は、宗祖親鸞聖人の開顕せられた念仏の教えと、そこに流れる御同朋・御同行の精神のもとに歩んでまいりました。しかし、私たちは、過去の戦争においてその教えを歪め、無数のかけがえのない命を戦場に送り込むという痛恨の過ちを犯してしまいました。その慙愧に立って、1995年宗会において「不戦決議」を行った私たちは、今こそ念仏者として、恒久平和を願う現日本国憲法を守らねばなりません。

よって真宗大谷派宗議会は、日本国憲法第九十六条「改正」反対をここに決議いたします。
2013年6月11日

よって真宗大谷派参議会は、日本国憲法第九十六条「改正」反対をここに決議いたします。
2013年6月12日

以上

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/2824/
http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/2862/

改憲について「改正」「改悪」など様々な論議がある中、なぜ東本願寺に所属する僧侶や門徒らのが反対を決議し、表明するのか。
この決議をとおして、私たち末端の寺においても僧侶と門徒がともに、このことを確かめていかなければならないと思います。

Gauguin_nous00

D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous? 1897
Paul Gauguin 1848-1903

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
ポール・ゴーギャン

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福島のこどもたち「と」三重「で」2013

2013年06月14日 | ブログ

姜尚中の「心」http://www.amazon.co.jp/を一気に読み切りました。
息子さんが亡くなる前に遺した

世界の悲惨が自分たちの外にあると思って欲しくない
世界の悲惨は、自分たちの中にあるんだ

という言葉。その後の震災をとおして姜さんは

空前の膨大な損失の上に築かれた〈戦後〉的なもの、その成れの果てがこの荒廃なのか、そしてこの荒廃の上に新たな〈戦前〉的なるものが蘇るとしたら・・・。

と「生と死についてわたしが思うこと」のまえがきに警鐘を鳴らしています。

さて、そんなことを思いながら「福島のこどもたちを三重へ」プロジェクト2013ご賛同とご支援のお願いです。

2013

昨年に引き続き、福島のこどもたちを三重へプロジェクトを実施します。
日程は8月16日から24日までの9日間です。
プロジェクトの実施に向けて現地には参加の募集、そしてご当地ではカンパのお願いを申し上げています。
どうかご賛同とご支援くださいますようお願い申し上げます。
また、昨年参加してくれた福島の皆さんには今年もお待ち申し上げております。
現在、プロジェクトのウェブサイトを作成中ですので、詳細はサイトが公開されてからお確かめいただきたいと思いますが、おおまかな日程は次のとおりです。
(変更になる場合があります)

8月16~17日 名張の対泉閣宿泊。
    18日 常照寺宿泊。
    19日 子どもチームは二見の民宿「潮風」宿泊。
        保護者チームは常照寺宿泊。
    20日 志摩市源慶寺宿泊。
   21~22日 ともやま公園キャンプ村宿泊。
    23日 桑名別院宿泊予定。

では、特別サイトの公開をお楽しみに!

ちなみにプロジェクトの正式名称は「福島のこどもたちを三重へ」ですが、タイトルの「福島のこどもたち『と』三重『で』」というのは、妻や子どもたち家族全員がプロジェクトに参加する私自身の個人的なモチベーションです。
福島のこどもたちを遊ばせてあげるのではなくて、私たちが彼らと遊びたいんです。

* ご支援はチラシ記載の振替口座をご利用ください

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だぁだぁ読むと、ごぉごぉ流される

2013年06月10日 | ブログ

おかげさまで常照寺の永代経を無事にお勤めさせていただきました。
勤修については皆さまからの多額の法要懇志をいただきありがとうございます。
寺に参ると金の請求ばっかりとの声が聞こえてきそうです。
永代経の懇志に加え、法要の懇志。
そして常照寺は護持会というご門徒の組織の年会費で護持・運営されていますが、会計年度が6月〆ということもあり、その年会費。
やれやれしていると、来春に厳修予定の三重教区・桑名別院の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の懇志。
畳み掛けるように、今夏の福島のこどもたちを三重へプロジェクトのカンパ。
まさに「どんだけー!」です。

それぞれ、なくてはならない必要なご懇志ですが、それがいったい何のために必要なのか。
昼と夜の法座をとおして皆さまで確かめさせていただいた永代経法要でした。
永代経は、いついつまでもお念仏の教えが正しく伝えられるようにとの願いが込められています。
それは後世にお伝えすると同時に、今ここにどれだけの懇念によって伝えられてきたのかということを知らされるということがあるのでしょう。

今年も昼の法座は、名古屋から荒山修さんにご法話をいただきました。毎年、電車でお越しくださいますが、伊勢神宮の「ご遷宮」ということもあり、近年にない混み具合だったそうです。
そんな「お伊勢さん」の賑わいに脇目も振らず、常照寺でご説法され、7時に来客があるといって飛んでお帰りになりました。しかもしっかりと来年の約束を交わして・・・。週に3度の人工透析の合間を縫ってのご布教にただただ頭が下がるばかりです。
しかも、今年はご参詣の各位にプレゼントを持ってきてくれました。
ご自身が意訳された正信偈を、愛知県のお寺さんが製本したものを30冊抱えて来てくださいました。
混雑した電車の乗り継ぎのなか、病身をおして重い本を持って来てくださった。そのことだけでも、親鸞さまのお念仏のおこころを知ってほしいという渾身の思いを感じます。まさに永代経という法要に対する態度を身で表現されておられるお姿を拝察させていただいたのでした。

近年、毎年お伝えしてくださることば「毎日、正信偈をだーだー読んどるだけでは虚しい」そこに込められている意味をたずねてほしいという願いです。
お持ちいただいた冊子のなかに

正信偈一句一句の句意を書きあらわすことは、自分は、どこまで正信偈から「人間」を、そして「世界」を学んできたのかを表白することになります。

とありました。
自身(人間)が何のためにこの世(世界)に生まれてきたのかということを、正信偈によって確かめさせていただくのだと受け止めてみました。

さて、法要ではそんな正信偈のおこころをお伝えいただき、まさにお釈迦さまから七高僧を経てこの私にまで脈々と伝えられてきたみ教えを、自分のところで途絶えさせてしまうのか、それともこの自分がしっかりと受けとることを通してまた後世にお伝えするのか、その姿勢を問われました。

夜の法座では、今年400回忌を数える「東本願寺創立の上人」ともいわれる教如上人の物語をプロジェクターでみました。
いまここで私が正信偈をご門徒とともに唱和することの背景には、お釈迦さまから七高僧へ、そして親鸞聖人へ仏陀の教えが伝えられ、また鎌倉・室町の時代をこえて戦国時代を経てきた歴史があります。
信長・秀吉・家康に象徴される乱世の中で、念仏をお伝えくださったご苦労の一端を学ぶことをとおして、お念仏がどうしてこの「お伊勢さん」にまで届けられてあるのかということを、ご門徒と確かめさせていただいたのでした。

日本における仏教の歴史の中でも、法然上人が選びとられ、親鸞聖人が深められたお念仏ほど権力者から疎まれた教えはないといってもいいのでしょう。
浄土真宗の教団はその原初の段階で、死罪・流罪という苦難から出発しています。教如上人もまた時の権力に追われました。
常照寺は明治の初めの廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた後、この伊勢の地に本山直轄の道場として創設されましたが、それは国家神道の旗印のもと戦争に突き進んでいこうとするその国の国威発揚の拠点に、親鸞の精神を届けたいという先達の願いではなかったでしょうか。
そのことに思い至ったとき、「この国、何かおかしい」と感じながら?も、とどまることを知らない膨張政策に突っ走らせてきたのは、江戸時代の封建体制にどっぷり浸かる中で教如上人のご苦労を忘れてきた教団と無関係ではないとも思います。
ただ、江戸期を経て失いかけた念仏の精神が、廃仏運動によって呼び覚まされ、伊勢のど真ん中に念仏の道場を開かせたのは、真宗の精神が枯れずに伝えられてあったことを物語っています。
ご遷宮に湧くお伊勢さんにあって、今また「国」のあり方が問われる時節でもあります。
いまここで申し上げる小さな声のお念仏ですが、ここで念仏申し上げることができることの背景にどれだけの願いが込められてあることか。たとえどんな時代になろうとも、小さな声でもお念仏を永代に残し伝えなくてはならない使命をご門徒とともに確かめさせていただいた永代経でした。
私は決して国家のために生まれてきたのではないでしょう。私が私として成就するために生まれてきた。その一つひとつの「私」が尊重されて存在し合える場のことを国というのだと思います。
さてさてそのためにも、正信偈の句意をしっかりと学んでいかないといけません。だーだー読んどるだけではなりません。
だぁだぁ読んどるだけでは、『お上』のご都合にごぉごぉと流されて死んでいくのでしょう。何も考えずにだぁだぁ読んで、ごぉごぉ流されることを心地よしとする体質の私なのですから。

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ネガワレ、トワレテイルコト

2013年06月06日 | ブログ

常照寺の永代経法要のご案内です。
今年も名古屋から荒山修先生にお越しいただきお話を聞かせていただきます。
また、お夕事の勤行後は、東本願寺を創立し、今年400回忌を数える教如上人の物語を本堂のプロジェクターで観賞します。
東本願寺教如上人四百回忌法要特別サイト
http://www.higashihonganji.or.jp/kyonyo_400/contents/top.html

ご門徒・有縁の皆さまにおかれては、ご参詣をお待ち申し上げております。

永代経は、いつまでも仏陀の教えが伝え続けられるようにとの願いから勤められる法要です。法要は今ここに伝えられてきましたが、知らず知らずのうちに私たちは念仏の智慧に背を向けて生きているのではないでしょうか。
先達方がいったいどうして、何のために、後世を生きる私たちに、どんな智慧を伝えたくてこの法要の伝統を残してくださっているのか。
そのお智慧を、今この時代を生きる私が確かめることなしに、また後の世におねんぶつのお智慧を伝えていかなければならないところに立つことはないのでしょう。
おねんぶつという智慧を今、ここに伝えてくださった先達方から私は今、何を願われているのか。
皆さまとともに確かめたいと思います。

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真宗会館のホームページには同日、第8回目の「親鸞フォーラム」が開催されるとのこと。六本木ヒルズでの開催ですので、常照寺の永代経と参加者がダブる心配はありませんが、非常に興味のあるテーマ、そしてパネリストです。

第8回親鸞フォーラム
「震災×経済×仏教 -私たちは今、何が問われているのか-」
http://shinshu-kaikan.jp/guidance/forum

首都圏に転居された常照寺のご門徒各位には是非おすすめ申し上げます。
時も場所も違いますが、永代経をご縁に「この私に問いかけられていること」に耳を傾けたいと思います。

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智慧のない愛は残酷

2013年06月02日 | ブログ

先月末から今月初めにかけて大切な学びの場をいただきました。
5月30-31日は、桑名の三重同朋会館にて三重教区育成員研修で大谷大学名誉教授の古田和弘先生から。
そして6月1日は、三重県総合文化センターで開かれた真宗公開講座にて大谷大学教授の加来雄之先生から。
いずれもたくさんのお言葉をいただいたのですが、その中で「智慧と慈悲」そして「愛」について言及されていたことが印象に残っています。

加来先生の有縁の方のエピソード。

ある独身の男性が、殺風景な一人暮らしの住まいに植物を置くことにした。無精な男性は、できるだけ育てやすい植物ということでサボテンを買ってきた。大事に育てようと意気込んで毎日朝晩、念入りに水をあげた結果、サボテンはすぐ腐ってしまった。

そんなエピソードでした。
そしてそのことを男性は加来先生にこう表現したのだそうです。

智慧のない愛は残酷だ

とても印象に残る話でした。

というのはその前々日、育成員研修の場で古田先生が、「仏教は智慧と慈悲の宗教だ」と言っておられたことが記憶にあったからでした。
比較宗教学という学問にふれて、「慈悲」はキリスト教でいうところの「愛」といったところだろうか、と。
「親鸞聖人が教えようとされたこと」というテーマで正信偈に学ぶ講義でしたが、その中で、南無阿弥陀仏は帰命無量寿如来また南無不可思議光である、と。
無量寿は「慈悲」、不可思議光は「智慧」である、と。
だから仏教は「慈悲と智慧」の宗教である。そして慈悲の根拠は智慧。智慧の伴わない慈悲はない。智慧が極限まで深まっていくとどうなるか。智慧の性質がだんだん薄れてきて「慈悲」になっていくと表現されておられたように記憶しています。
その智慧と慈悲ということがまだ脳裏に残っているところに飛び込んできた言葉が、サボテンを枯らした男性の「智慧のない愛は残酷だ」という言葉でした。

改めて問われるのは、私はおねんぶつと身近にある生活をしているつもりですが、果たしてその智慧をいただいているのかということです。
「愛」という名のもとに、接する相手の都合も考えず、自己主張を通しすぎてはいないか、と。
「オレは間違っていない」と思いたい自負心や、相手を思いやっているつもりの我執を、「愛」と勘違いして一方的に押しつけて相手を腐らせてはいないか。
稼ぐことが大事な勤めといって仕事に没頭し埋没している夫。教育が大事だと言って子どもに知識を押しつけていく父。
いよいよ他人事ではありません。
どれだけ知識を持ったとしても智慧がなければ作用しません。どれだけ稼いでも同じです。
キリスト教のいう真の「愛」ということについてはとにかく、私の日常で考えるところの「愛」というのは、どこまでも愛という名の我執なのでしょう。
だから、サボテンを枯らせた男性のいう「愛」というのは、そのまま「我」、私ということではないでしょうか。
智慧のない私は残酷だよ、と。普段、よかれと思ってやっている事柄のひとつひとつは他者にとってどれだけ残酷なことか。
この「私」を「命」「人生」と置き換えてもみます。智慧のない命、智慧のない人生は自他を腐らせていく。
いずれも智慧に背いて生きている私ということを指摘されます。
「おねんぶつをいただく」というのは、智慧をいただいていくことなのでした。
頑張って努力して仏教を勉強してお念仏の智慧をゲットするのではありません。どこまでも自分の計らいのないところで「いただいていく」ことなのでした。
加来先生は「濁世の中で無縁の大悲を生きる」という講演の中で、そのことを「無縁の大悲」と表現されておられたのでした。

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