遊煩悩林

住職のつぶやき

お盆が過ぎたお坊さん

2017年08月19日 | ブログ

おぼんを過ぎたお坊さんはいったい何をしているでしょうか。

・朝酒

・昼寝

・金勘定

・夏休み

・彼岸の準備

などなどいろいろありますが、東日本大震災以降、被災地の子どもたちに貴重な時間をいただいています。

6年目のプロジェクト。

おぼん中もたくさんの方々からご支援をいただきました。

おぼんの最中、現地まで子どもたちを迎えに行ってくれる仲間もいます。

何の役にも立てませんが、皆さまからのご支援だけはきっちりお届けして、子どもたちといい汗をかいてきます。

http://booses.net

コメント

我が身の行く末

2017年08月12日 | ブログ

 

慰霊 鎮魂 冥福 黙祷 念仏

亡き人に私の態度が問われる

 

8月のお寺の掲示板。

私のところに命を届けてくださった無数の泣き方々に対して私はいかなる態度を表明するのか。

霊として慰める態度をとるのか。

魂を鎮めてさしあげるのか。

冥土での幸福を黙って祷るのか。

なむあみだぶつとお念仏申し上げるのか。

逆に言えば、私に命を届けていかれた亡き方々は、慰められなくてはならない霊なのか。

鎮められなければならない魂なのか。冥土の世界を彷徨っておられるのか。

それとも私がお念仏を申していくはたらきとなっておいでになるのか。

 

我が身の行く末を憶いつつ盂蘭盆会を勤めたいと思います。

コメント

何が足らんか

2017年08月04日 | ブログ

8月です。

おぼんです。

お寺の周辺がザワザワしてきています。

「お盆はどうしたらいいのか?」と。

ただ手を合わせてお念仏申すしかないのですが、それでもザワザワするのは念仏だけでは物足りないということなのでしょう。

地域や在所によって独自の俗習や因習はさまざまです。

また親類や縁者、友人知人が「ウチのお盆は」ああだこうだ、と。

スーパーに行けば、お盆のお供と称した野菜やお菓子。

お迎えはいつか。施餓鬼はしやんのか。提灯はどれがいいとか。

このご時世、何かお金をかけないことには供養した気になれないのかもしれません。

「お念仏を申しましょう」では、どうも物足りない。

物足りないのは、お寺のお伝えが行き届いてない証拠かもしれません。

ただし行き届いているかいないか、いずれにしても物足りなさを感じるのであれば、それは智慧と慈悲が感じられないということでしょう。

智慧と慈悲はいつでもどこでも誰にでも届いているのですが、感じられない。

それは、知ってか知らずか、如来の智慧と慈悲を疑っていることに他ならないということです。

 

今から20年前のお盆に逝去した全住職は、お盆のお参りの際、決まった和讃を勤めておりました。

親鸞聖人の現世利益和讃、15首あります。

阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 ときおきたまえるみのりなり

山家の伝教大師は 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなうべし

一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなうれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり

南無阿弥陀仏をとなうれば この世の利益きわもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ

南無阿弥陀仏をとなうれば 梵王帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば 四天大王もろともに よるひるつねにまもりつつ よろずの悪鬼をちかづけず

南無阿弥陀仏をとなうれば 堅牢地祇は尊敬す かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば 難陀跋難大龍等 無量の龍神尊敬し よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば 他化天の大魔王 釈迦牟尼仏のみまえにて まもらんとこそちかいしか

天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり

願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば 観音勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそえり

無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまうなり

繰り返し繰り返し、この和讃を勤めていた親の心が少し理解できてきたような気がします。

何か物足らん、足らん足らんと、永久に満たされない私の根性。

充分足りておるよ、と。

すでに如来の智慧と慈悲がお前のところに届いているよ、と。

20年目の父親の命日に和讃の心をいただきなおしたいと思います。

 

物足りない、物足りないといってあれやこれや買っては供えしてみても、火を焚いてみたり、提灯をつってみたり、膳を並べてみたり、どれだけ墓石をきれいにみがいて施餓鬼の塔婆を立て並べてみたとしても。

なるほど足りてないのは「お念仏」だったのだ。この自分がお念仏をしていくことが抜けていたのだ。

 

コメント