遊煩悩林

住職のつぶやき

難民願望

2015年01月12日 | ブログ

第一次大戦から100年を機に昨年ローマ法王が懸念を表明されて以来、ネット上に「第三次世界大戦がはじまっている」などとの見方が溢れ出てきました。
「戦争」は、いつも「ただ今から戦争を始めます」といってスタートするのではありません。省みた時に、あの時のアレがきっかけだったとか、それまでの複雑な伏線があるわけです。
戦争することを前提とした国づくりと戦争をしないことを前提とした国づくりでは、そのきっかけも全く別のものになるのでしょう。
戦争放棄を謳う国が、戦争に参加できるようにしようというのは、仮に「大戦」に参加しない以上それに伴う「おいしい汁」が吸えないからなのでしょう。
沖縄をめぐってこのようなニュースがありました。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150109-00000009-mai-pol
普天間飛行場の辺野古移設に反対する知事が当選し、総選挙では与党が議席を落とした沖縄。振興費は減らされ、知事が上京して面会を求めても総理大臣は会ってもくれない。
「国」というのは、政権与党とそれに従うものだけのものかと思わずにいられません。
そして「国民」というのは、国家権力に従順な「ひと」のみをいうのでしょうか。
大谷大学の教授で哲学者の鷲田清一先生が「削がれゆく国家」と題した文章を中日新聞(2015.1.14)に寄稿されています。

(日本国パスポートには)この旅券を持つ人物の「ひと」としての基本的権利を保障するようにとの要請が、一国の大臣の名で記載されている。基本的人権というものは「国民」としていずれかの国家に登録されているかぎりでのみ保障されるという逆説が、ここに書きとめられている。ひとは国家への帰属を外れ難民化すれば、同時に「ひと」としての権利も失ってしまうということだ。

さらに昨年末の総選挙の投票率の低さについて「国家がもはや公益を担うものとして受けとめられなくなっているという観点からも論じられるべきだった」として、「暮らしのセーフティネットをもはや国家に期待できないという不安を、人びとはつのらせ」「(旅券に記載された事項が効力をもたない状況がありうるということから目を逸らさないでいる)聡い若者たちは『日本国』にもはやみずからの存在を重ね合わすことなく、地方に、あるいは海外に拠点を移そうとしている」という。
日本国民であるという公益を捨て「難民化」を選ぶ志向といっては言い過ぎでしょうか。しかし国家の道具として存在する場合のみ公益が得られるとするならば、いっそどこの国にも属さない「難民」でありたいという願望も芽生えてきます。積極的な意味での「非国民」主義です。

私たちの国は、過去の戦争を経て、戦争こそ人間を人間でなくすることを教えられてきた。そして大きな犠牲を払って平和憲法を手に入れた。しかしながら戦争を国是とする国と同盟を結び、その国に追従する限り、その現実と憲法が互いに逆方向に引き裂きあっている。その裂け目にいま私たちは存在するのではないでしょうか。
戦争や戦争を是とする考え方そのものが、人間を非人間化するということを知る智慧がなければ、ますます私は「人間」から遠ざかっていくのでしょう。
「人の間」を生きる私たち。その「間」はまた「世間」の「間」でもあります。その「間」を「裂け目」といってもいいのでしょう。
その「裂け目」をどのようなものとして埋めていくのかというところに私たちの宗教観が強く問われます。
いま強力に私たちに刷り込まれようとしている「イスラム」に対するイメージ。
このような刷り込みを「教育」と称してやって来た歴史がこの国にはあります。
「宗教とは何か」正しく知らないと、宗教ではないものを宗教だといって迷信するばかりです。
いま私たちはその「裂け目」や「間」を埋めるような「信仰」を持ち合わせていません。奪われてきたといっても被害妄想ではないでしょう。
ですが、何かによって奪われたということさえ気づくことができれば、それを取り戻すきっかけになるはずです。
人間にとって最も大事なことは何であったか、という根本課題を骨抜きにされた私。
それに気づくことができたとすれば、それを気づかせたはたらきを「恩」と呼ぶのではないか。
そしてその「恩」に報いる歩みがはじまっていく。
恩に報いるというのは、恩を忘れた私が、まず恩を知り、失っていた人間性を回復し続けて生きるということではないかと思います。
常照寺の報恩講では、「憲法」をめぐってNHKスペシャル「靖国神社」から問題提起されつつ、私たちがほんとうに恩に報いるべき道を見出してまいりたく思います。

『骨のうたう』

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ
白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や 女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった
がらがらどんどん事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨は チンチン音を立てて粉になった

ああ 戦場やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった
なんにもないところで
骨は なんにもなしになった

竹内浩三

1945年に23歳でフィリピンで戦死した伊勢出身の竹内浩三のうた。

「報恩講」のご案内に無断で井上雄彦作の親鸞屏風を転用しています。ご免なさい。
詳しくはこちら http://www.flow-er.co.jp/nshinran/

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響感

2015年01月12日 | ブログ

新年を迎えた常照寺の掲示板に

いのちは闇の中のまたたく光だ
ナウシカ

と書き記しました。

映画化された宮崎駿原作の「風の谷のナウシカ(徳間書店)」の主人公ナウシカの1フレーズです。
映画では描かれなかった「その後」の原作コミックスに出てきます。

私自身はこの原作を読んではいないので、フレーズも孫引きではありますが、このフレーズに何か共鳴するメッセージ、響くものを感じます。
このフレーズに遇ったのは、東本願寺発行の月刊『同朋』誌に掲載された「べっきさんのエッセンス正信偈」を一冊にまとめた「親鸞の詩が聞こえる」の『寿(いのち)と光(ひかり)』と題したエッセイです。
執筆された戸次公正氏は

寿は命・生命であり、その長さつまり時間のこと。寿はまた限りなくはたらく仏の清らかな慈愛と大きな悲しみをあらわす。
光は明るさと輝きであり、その広さつまり空間のこと。光はまた思いはかることのできない仏の願いと人間の虚偽を見抜く眼差し。

と表現されています。

闇の中にまたたく光・・・それが「いのち」。
人類の歴史の中で一瞬ひかっては消えていくような私の命の光。そして個々のその瞬間的な生命の中にまたたいている光。
人類の歴史の闇、そして個々の煩悩の闇をまたたく光が照らしだす。
そのまたたく光がなければ、私はその闇に気づくことはできないのでした。
ナウシカのそのことばは、人類が自然を征服し繁栄を極めた末に第戦争で崩壊してから一千年後の物語の中に響くことばです。

東本願寺出版部
http://books.higashihonganji.or.jp/defaultShop/disp/CSfLastGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=15663&dispNo=

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寿限無

2015年01月09日 | ブログ

寿限無 寿限無
五劫の擦り切れ
海砂利水魚の
水行末 雲来末 風来末
食う寝る処に住む処
藪ら柑子の藪柑子
パイポパイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
長久命の長助


落語「寿限無」。
私たちが日々お勤めする正信偈の冒頭にもある

帰命無量寿如来

の「無量寿」に由来します。
寿命が無量ということです。
噺では、生まれたこどもに命名するのに説かれますが、それは寿命に限りのない如来の名、つまり無量寿如来の名にあやかってのこと。
しかもその無量のいのちと不可思議の智慧の光を完成するのに要した年月について正信偈には

五劫思惟之摂受

と述べられています。
噺中の「五劫の擦り切れ」の「五劫」。
「五劫」という時間、思惟して摂受された「之」が、無量寿と不可思議光、つまり「いのちとひかり」。
今朝の中日新聞「落語 人生劇場」というコラムに「ことぶき限りなし」という題で「寿限無」が取りあげられています。
そこでは「五劫」という時間について

三千年に一度天下る天女の衣が岩をなで、ついに擦り切る時間が一劫

と補足されています。「五劫」の解釈には諸説ありますが、つまり私たち人間の知恵では量ることができない時を表す単位を「一劫」と。
「五劫」というのですからその5倍ということ。「永劫」といいますがそのニュアンスです。
さらに、噺では「五劫の擦り切れ」ですが、もともとは「五劫の擦り切れず」だそうです。
五劫かかっても擦り切れないほどの「長寿」ということをいうのでしょう。
さて、皆さまから頂いたお年賀に「光寿無量」ということばを多く頂きました。
コラムでは「ことぶき限りなし」でしたが、この「寿」に「いのち」というルビをふってくださったのは親鸞聖人でした。
仏教徒としては「いのち限りなし」とよませていただきたいと思います。
そしてそれは誰のいのちが限りがないのか。
限りのある生命を生きている私たちが、限りの中で確かめておかなくてはならないことです。

帰命無量寿如来

昨年も何百回・何千回と口に出したとは思いますが、いくら口に称えても「無量寿如来に帰命したてまつる」身とならぬ私でございました。
どうか本年もよろしくお願い申し上げます。
南無阿弥陀仏 合掌

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