遊煩悩林

住職のつぶやき

忘備録

2014年12月27日 | ブログ


「忙」という字は、「立心偏」に「亡い」ということだから、「こころがない」状態をいうんだよ。などと説教しながら、年末のお参り。
誰に説教しとんねん?という声なき声に自分に言い聞かせるように年末を過ごしています。
今年もこの「遊煩悩林」のつぶやきにお付き合いくださりありがとうございました。しばらく連れ添ったOCNのサービス終了ということで、お引越を余儀なくされた年でもありましたが、変わらずにこのページを開いてくださる方があってのつぶやきです。

さて先日、桑名別院の報恩講にお参りさせていただきました。
23日の結願日中での池田勇諦先生の法話をスマホのメモに忘備しましたが、充分に自分の中でまとまることができないまま、ここに羅列します。
ブログの更新もどんどん横着になっている自分を知らされつつ。

メモ

2014.12.23 桑名別院報恩講 結願日中
池田勇諦 氏「ほんとうのじぶん」

・もっともやさしいことばは 相手の名を呼ぶことである 毎田周一

・天国  キリスト教が「天」の宗教ならば
 仏教  南無阿弥陀仏は「大地」の宗教
 大地は本願の大地である

・宿業の大地
・宿業は世間でいう宿命ではないのです 五木寛之

・業を背負うというのは、思い通りにはならない、願いどおりにならないということ

・宿業を背負う主体のことを「ほんとうのじぶん」という
・ほんとうのじぶんというのは、南無阿弥陀仏、宿業の大地に立たれた南無阿弥陀仏です

・人生には背負いきれない宿業はない

・人生には避けることができないことがふたつある。
 ひとつは死ぬこと。もうひとつは生きること。

・長生きは法の宝
 長生きが本当に幸せといえるのは、法に遇うてはじめていえるのである


・丈夫なワシでも参るのに、身体の調子が悪いあんたが参らんのか!

・気がつけば 民が奮(おこ)らん 民となり

・仏法に遇わんと人間に生まれててきた甲斐がないのよ

とメモにあります。こうして読み返してみると、とくに「私はこう聞いたよ」なんて言わずとも何かお感じいただけることがあるのではないかと思います。

冒頭の「ほんとうのじぶん」というのは、法話の中のことばですが、このたびの法話のタイトルを勝手につけるとすればコレだな、と。
ここは少し解釈が要るかと思いますが、日ごろ「じぶん」だと思っているのは自我意識のじぶん、じぶんの思いどおりに考えているじぶんだと。だけどそれはほんとうのじぶんでない。
ほんとうのじぶんと言うのは、思いどおりにならない。思いどおりにならないほんとうのじぶんこそナムアミダブツという・・・。
このようなニュアンスで受けとりました。その「ほんとうのじぶん」という私の聞き方のなかでの上記の忘備録です。

「気がつけば 民が奮(おこ)らん 民となり」というのは、先の総選挙の結果を受けて投稿された中日新聞の時事川柳ですが、選挙をする前も後も体制権力に大きな変化はなかったわけですが、この変化がなかったことに対する今後の国勢の変化は取り返しのつかないことでなかったかとも思います。
来る年も、仏法をとおしてこのじぶんがどのような「場」に生きているのか、確かめていこうと思います。

仏法に遇わんと人間に生まれててきた甲斐がないのよ

「忙」というのは、こころがない。人間に生まれてほんとうに大事なことは何だったかと確かめる暇を失ってしまっている。
ただそのことに気づかせていただくことだけでも有り難い。是非、年末年始、いとまを設けてお寺にお参りください。
来年もよろしくお願いします。

「除夜の鐘・修正会」のご案内に無断で井上雄彦作の親鸞屏風を転用しています。ご免なさい。
詳しくはこちら☞http://www.flow-er.co.jp/nshinran/

 

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選択本願

2014年12月03日 | ブログ

年に1回の寺報を発行しました。
1面がA3サイズで4面で構成しています。この体裁で前住職が創刊してから第38号になります。
全面は紹介しきれませんが、1面のみアップさせていただきますので興味のある方はお読みいただければ幸いです。
毎度のことですが、「朋光」と名づけられたこの寺報は「字獄」と自負するほど活字に溢れています。
教団連合のカレンダーや東本願寺の教化冊子とともにご門徒にお届けさせていただいておりますが、「『朋光』は読めん」という声も・・・。
4面とも活字が中心ですが、2・3面は坊守コラムやお寺の行事やご参拝の案内などを写真やイラスト入りで、4面は来年に年忌を迎えるご門徒の法名などを記載しています。いちばんとっつきにくいこの1面。
発行日を1月1日にしていますので、毎年この師走になると原稿に追われるところですが、今年は早々に完成しました。
その要因はズバリ「選挙」。
毎年11月半ばから、この私にとって何が今年の課題になったか、また来年の課題は、と。いろいろ考えるのですが、今年は首相の「衆議院解散総選挙」という時機を与えられてテーマが定まったのでした。
テーマが定まったとはいえ、この「朋光」を読んでみても「で、いったい何が言いたいの?」という声もあるかと思いますが、冒頭の『中外日報』の平川宗信氏(中京大教授・名古屋大学名誉教授)のこの視点をどうしても投票前に、ご門徒の方々に紹介したかったというのが私の思いです。
とはいえ、12月14日が投票ということは、それまでにご門徒にお届けしなければならないという使命感に駆り立てられて早々の発行に至ったのでした。

私たちはいったい何を基準に候補者を選択するかということが問われます。
この自分を概ね支配しているのは「損得感情」でしょう。損か得かという基準。
平川氏の視点から教えられることは、私を支配しているその損得感情をはるかに超えたところに、人間として生まれ、生きていく上で大切なことがあるというものです。
私たち一人ひとりが「損得」を超えていかなければならないテーマを与えられているわけです。
この『中外日報』の記事への導入に


人間は食わねば死ぬ しかし食っても死ぬ


という宮戸道雄氏の言葉を引用させていただきました。
このことばは、戦前の内務大臣だった望月圭介の「喰うておったら死なんかね」という問いに応えるもののようにも聞こえます。
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/66140a4a284818581759c39c5925db78
また、以前このブログでも紹介した、「念仏申せ」という母親に「念仏では喰うっていけへん」と言い返す息子に対して、「お念仏がないと食べたものが無駄になる」といった親子のやりとりhttp://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/5fb6840e35da994999fb3a4ed54ffa30を思い出します。
私たちは何のために喰っているのかという課題です。


何のために生まれ、何のために生きるのか


やなせたかしのアンパンマンのマーチのテーマは「何をして生きるのか」。やなせたかしが子どもたちに問いかける課題です。
選挙は大人に与えられている権利です。その大人がまずこの課題を明らかにして、損得を超えた選択ができないならば、それに倣っていく次世代を託す子どもたちもまた損得を超えることはできないのでしょう。
望んでか望まずしてかはとにかく「選挙」という時機を与えられて、この自分がいったい何を望んでいるかという経緯を経て、誰に何を願われているのかということをみつけることが、人生の重要な課題ではないでしょうか。
誰に何を願われているかを知ることで、はじめて「じぶん」という存在が明らかになり、歩むべき道が開かれてくるのだと思います。
ひいては、選択の基準が自ずとはっきりしてくるのです。それは迷わずに生きる道の発見でもあります。
何度このブログに書いたか分かりませんが


そんかとくか人間のものさし
うそかまことか佛さまのものさし
あいだみつを


それでもそれでも、年末年始に美味いものを食べたいという欲からはなれられない私です。

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