遊煩悩林

住職のつぶやき

異常なし

2008年07月25日 | ブログ

「今年の暑さは異常だな」
「やっぱり異常だよね」
こんな言葉が会話のなかで普通に交わされています。
「異常」なのですから「正常」でないということです。
「異常」を感じることができるのは「正常」を知っている人だけです。
よく天気予報では「平年並みの」といいます。平年並みであれば異常は感じないのかというとそうでもないでしょう。感じ方が変化するからです。
3歳の子どもは境内の砂利やアスファルトの上などで走り回っていますが、きっと大人よりも体感的には暑いはずです。30を過ぎた私なんかの方がよっぽど暑さは応えます。さらに地面に近いところで生きている妻の実家のパグなんかは、到底散歩に連れて行けるような状態ではありません。家の中でもエアコンが効いていなければ、舌を出してぐったり・・・です。
ですが、3歳の子どもや1歳の犬は「異常」を感じることはありません。その暑さに身体が適応できないとすれば、全身で異常を感じているともいえましょうが、せめて大人の会話の中から「異常なんだな」と知らされるよりないでしょう。ですが、なにか常に「いつもどおり」であることが正常だと思い込んでしまっている私ではないかと思うのです。平年並みであれば正常かというとそういうことではないのでしょう。
ではその「正常」な状態とはどこにあるのか?
気温が平年並みを上回ったり、過去の計測史上の最高を更新したりすれば「異常」といいたくなりますし、実際にいっているわけです。
言う人の主観でいうのであれば、たとえば50年前の夏が正常な暑さであったり、30年前の暑さが正常であったりすることもあります。3歳の子どもにしてみれば今のこの暑さが「普通」スタンダードなわけです。
二酸化炭素・温暖化・ヒートアイランド・そしてそれに対して地球にやさしいとかエコだとか、さまざまなキーワードに慣らされてしまっている私たちですが、科学的データの裏付けの上でのことであれば、私たち一人ひとりが排出し、させている二酸化炭素と、それを吸ってくれるはたらきを私たち一人ひとりが伐採し、伐採させているという現実からすれば、この暑さは「正常」なのでしょう。因果の法則にてらしてもそうなのでしょう。「だからこうなった」わけですから正常なわけです。それを「異常」だというのであれば、それは「鈍感」ということではないでしょうか。
近年の「異常気象」ということばにつられて、「異常」「異常」と簡単にいってしまう私ですが、人間の営みを含めたところで「自然」というのであれば、煩悩にあおり立てられるがごとく暑くなるのは当然なことでありますし、人間と自然を切り離してしまえば、「人間が自然を壊した」結果暑くなるのです。その反省が事実あるのかもしれませんが、この発想の上に立って「人間が壊れた自然を回復する」みたいな言い方をするところに、人間の力をまだまだ過信している私の姿が現れてくるのではないでしょうか。大いなる自然の中に生かされているにもかかわらず・・・です。

「異常」「異常」といわれれば「うーん確かに・・・」とか言いたくなりますし、地球に優しいとか、エコにつながるといわれれば、何かいいことをやっているような気にもなるのが私です。実際にはそれさえも経済的な消費の宣伝文句につながっていく、それに利用し、利用されていこうとする私ではないでしょうか。「異常」「異常」というのは、やはりそういう自分の姿が自覚されてないところの言葉ではないかと思うのです。つきつめれば私こそ正常で、他が異常なのだとする善人的発想が根っこにあるのです。私も自然も気候も「異常」はないのです。すべてがありのままです。ありのままということは「異常」でも「正常」でもない「無常」ということだと思います。そしてそれが「自然」なのでしょう。

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出てきた?

2008年07月17日 | ブログ

出てきました!
昨夕、3760gの女の子が妻のお腹から出てきてくれました。
分娩に立ち会いましたが、やはりあの壮絶な現場を生で感じると、「出てきた」という表現は「ちょっと違うな?」と思いました。
出てきたことには違いがないのですが、かといって勝手に出てくるわけではありません。出るのか出ないのかのせめぎ合いの中、すべての条件が整って「生まれてくる」「産まれる」のです。

考えてみれば「生まれる」「産まれた」というのは受動態です。産まれるための条件が過去何億年にもさかのぼって整い、そのおはたらきによって「産まれた」という受け身であります。
母体からすれば「生む」「産む」の能動態です。
分娩中、「ヒッヒッフー」の息の中、「ケツ(肛門)を突き上げて!」「産み上げるように!」という先生の指導のとおり、「ケツ」はともかく、「産み上げる」という表現が心に響きました。
ただ産まれたのではなく、数多の縁がそこに結集して、最終的に妻の肉体から産み上げられることによって「産まれた」ということでしょう。
しかも、「お腹」から産まれたといいますが、これも腹から直接出るわけではありません。細い産道を通って、こちらからは見えてきては引っ込み、引っ込んでは見えてくるという母体と胎児の駆け引きの中で、タイミングを整えているのでした。
いやいやしかし、私はよく「臨終の現場にできるだけ立ち会って下さい」とか「ご遺体にふれて下さい」とかいうのですが、やはり産まれてくる現場に立ち会うことができて「生死」する生命を生きるという実感が湧いてきたような、教えられたような気がします。この感動を忘れずに・・・とは思うのですが、同時にやれやれこれはまた忙しくなるぞと対策的にもなるのでありました。

大きな赤ちゃんではありますが、それはそれは愛おしい小さな生命です。愛おしければ愛おしいほど我が子の「我が」という思いも強くなります。彼女の生命は誰のものでもありません。それを「我がもの」にしようとするところに罪が見出されてくるのでしょう。お釈迦さまの実子が「羅睺羅(梵名Rāhula[ラーフラ]:障碍するもの)」という名で伝えられていることを思います。「障碍」とは「さまたげ、さわり」ということです。愛が深ければ深いほど、同時に罪もまた深いのです。

ところで、3年前の長男が生まれたとき、牛のホルモンのようなへその緒と、同じくレバーの固まりのような胎盤を直視することができなかった私ですが、今回は長くのびたへその緒を比較的冷静に見ることができました。しかし、子宮と胎盤の癒着が長男の時よりはげしく「後産」ともいわれる胎盤娩出までは分娩室にいられませんでした。胎盤は多くのほ乳類が娩出後に食べるのだそうです。ヒトも同じく産婦や家族が産後に、生食や煮炊きをして食べる胎盤食の文化が世界各地であるといいます。ただ、出産直前に分娩室で妻や看護士さんらとその話をしていたのですが、牛や豚のレバーには何の抵抗もないのに、人間の、ましてや自分の胎盤を食することへの抵抗感は一体どこからくるのだろうと、そんなことも長女の出産に際して彼女から提起されてきた問題です。

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「出てこない」と「出た」

2008年07月12日 | ブログ

出てきません。
物をなくしたのでも、思い出せないのでもありません。
第2子が妻のお腹から出てきてくれないのです。
昨日7月11日が一応出産予定日でした。
「生まれた?」と、皆さんからお電話をいただくのですが、「いやそれがなかなか・・・」。私の兄も「お参りは代わってやるから・・・」といってくれます。
しかし、ご心配をいただくたびに、妻のいちばん近くにいる私と長男がいちばん彼女たちへの心配りが足りないのではないかと思わせられます。
3歳になった長男は何かを感じているのか、しきりに妻にだっこをせがみますし、私は私でこの1週間、陣痛にそなえて禁酒を余儀なくされ、愚痴が出る始末。いつもどおり自分中心でおるだけです。

薄情を告白したいわけではありません。彼女の様子を見ていると何か安心しておれるといいますか、そう振る舞っていてくれているのか、それとも私たちのペースでやっていくから大丈夫といわんばかりの妊婦と胎児であることをお伝えしたいだけです。

誤解を恐れずにいえば妊娠出産は、生むことができる人だけのものです。先日海外で(法律上の)男性が、(法律上の)女性との間の子どもを出産したという話題もありましたが、子どもを産むことができない男女の一人として羨望を込めて妻には「いいよなー」と伝えています。できないことが判っていていうのは卑怯なのでしょう。
どんな姿であれ、いつかきっと出てきます。それを待つことにしましょう。それしかできないのですから。* 性・ジェンダーの問題を含んでいますが、あえてこのように表記します。

それと、出ました。
出産予定の第2子は出ませんでしたが、世界同時発売予定のこの商品は予定どおり出ました。
昨日は話題のiphone3Gの発売日でもありました。
妻の実家はsoftbankの販売店をやっておりまして、そこで手に入れることができました。予約とかは一切聞いてくれませんでしたが・・・。1500人が列をなしたのはテレビの中の話で、まあ田舎ではそんなもんです。しかしながら何台入荷したかどうかは知りませんが、入荷分は昨日中にすべて売れたそうです。
機能は報道のとおりですが、スケジュールやアドレスの管理、自宅に届いていたメールを外出先で対応できるとなると私にとっては大助かりの便利ツールです。
便利のウラには大きな闇が広がっていますが、ここでは不問にします。20080712_173214
報道で、年配の方が「買っても使いこなせない」といっていましたが、どうかな?と思いました。これまでの携帯電話のように分厚い取扱説明書も入っていません。使いこなせないから、とあきらめずにとにかく触ってみて、そこから広がっていくこともありそうです。使いこなせなきゃいけないこともないでしょう。おもちゃにしては少し贅沢かもしれませんが、機能もさることながら遊べる機械です。
ですが、便利を言い訳に、夢中でそれに振り回されている疎かさを思います。暑い最中、出産を控えた妻を横目に遊びに夢中な亭主であります。

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占いを信じてはいけないという占い

2008年07月06日 | ブログ

7月の常照寺掲示板に
占いを信じる生き方はいのちを放棄するのと同じである
と記しました。
何を記そうかと思案したところ、6月にお聞かせいただいたふたつのお話からこの言葉が連想されてきました。
ひとつは常照寺の永代経でご法話いただいた荒山修先生のおことば。
観無量寿経序分*6月18日遊煩悩林「王舍城の悲劇」を引かれて、国王は占いに頼らなければ我が子にいのちを奪われることはなかった、と。*常照寺永代経「依存と転嫁」
もうひとつは、三重教区の特伝学習会公開講義*6月23日遊煩悩林「善人の苦悩」で武田定光先生が、日本全国の真宗の寺院(私の知る限り)には占い・呪いの類いのもの(おみくじやお守り)がない。そのことだけをみても、そこに如来、つまり真実がはたらいてくれていることを思う、と。
お二人の言葉とも若干ニュアンスや文言は違ったかもしれませんが、そのように受けとめております。

そのことばから

占いを信じる生き方はいのちを放棄するのと同じである

と連想されてきたのです。
感無量寿経には、占いを信じることで我が子に自分を殺さしめてしまった父のエピソードが記されています。事実「生命」が奪われてたわけです。
ですが、ここで連想されてきた「いのち」は生命ではなく、荒山先生の言葉を借りれば「たましい」ですし、「依りどころ」「信仰」「真実」といってもいい「いのち」です。
占いは面白いもんです。そんなバカな!と思っていても、もしかしたら?とか魅力を感じるかもしれません。ですが、それを信じて生きるとなると、それは自分の生きる責任を放棄していくのに近いのではないかと。都合が悪ければ占いや予言のせいにして運命を持ち出して責任をなすり付ける。都合良くいけば、おかげさんでうまいこといった、と。間違った意味での他力本願となってしまう。
真宗の寺院に占いや呪いがないのは、そうではなく、うまいこといったりいかなかったりするそのままの私をいかに引き受けていくことができるか、もしくはありのままの私を引き受けさせなくするものの正体を照らし出すことを学ぶための真宗であり、仏教であるからです。
私が私であるところの「いのち」を投げ出さずに、いかに生きることができるのか。気がつけばいただいていた「いのち」をどこで確認することができるか。知らず知らずのうちに「いのち」を放棄し、占いに生きたがるのが「私」です。それは意識して排除しなければ、どんどんはまり込む質のものです。信じるわけではないが、楽しむ程度にほどほどに付き合うとかいっているととんでもないことになってしまうのです。といってしまうとこれも占い的な脅しかも?ですが、「占い」をいのちとするのでなく、ほんとうの「いのち」によってほんとうの「私」が明らかになり、そのほんとうを生きたいと思うのです。

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落ち着かない

2008年07月03日 | ブログ

落ち着かない日々です。
予報と実際に隔たりのあるお天気に脳と身体が適応できないのか、頭痛と微熱がつづきます。
お寺は7月から新年度、2008年度が始まりました。といっても年度始めの仕事は、前年度の決算から。この何年かの間に「はい、はい」と断りきれずにお預かりした会計帳簿と預金通帳をいちいち照らし合わせながら決算書を作成、また、それをいちいち照らし合わせながら新年度の予算作成。
一般社会から見れば、そんな作業をするお坊さんの姿はあまりイメージされないのかもしれません。ですがお寺は歴とした宗教法人、法人の業務を果たさなければお国が許してくれません。お国が許さずとも、信仰のあるものがそれと認めれば宗教は成り立つのでしょうが・・・。

伊勢を管轄とする税務当局は必ずといっていいほど7-8年を1周期にお寺に税務調査に来られます。前住職は「私はご門徒に住む場所を与えられ、布施をいただいて生きているだけの者ですから・・・」とその信念を貫くことで、法人としての業務を疎かにしたのか、過分な税金を支払うことになっていました。今は半期ごとに申告を行っていますが、それらの慣れない数字とのにらめっこも私の頭痛の引き金か、と。
頭痛は地味な存在ですが、「頭痛発作」という表現をするそうです。処方してもらった頓服の注意書に「頭痛発作時に服用」とありました。私の頭痛はずーっとダラダラ、というのでなく突然やってきて数時間のちに去っていくやつです。ただ、それが予知できないので冷や冷やしながらの日常生活です。
それと、落ち着かせないのは間もなく出産予定の第2子の存在。しまい込んであったベビーベットをすでに組み立て、チャイルドシートも1台増え、性別を聞いていないのにピンクの服が届き、名前もすでに文字が決定し、読み方を思案しているところです。準備は整いつつも、いつ陣痛が来るかと思うとやはり落ち着きません。私が出産するわけではないですし、いざというとき何も役に立たないのですからドーンとしておればいいのでしょうが、そうかといっておちおち酒も飲んでおられません。だいたい頭痛持ちが酒などもってのほか・・・。

それが、子どもの出産を待つ父親の心境の一部であることとして、記しておきたいと思います。それにしても、よくもまあ母ちゃんの腹の中で10ヶ月も育ってくれたもんだと思います。近々、出産の報告ができますことを・・・。

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