「今年の暑さは異常だな」
「やっぱり異常だよね」
こんな言葉が会話のなかで普通に交わされています。
「異常」なのですから「正常」でないということです。
「異常」を感じることができるのは「正常」を知っている人だけです。
よく天気予報では「平年並みの」といいます。平年並みであれば異常は感じないのかというとそうでもないでしょう。感じ方が変化するからです。
3歳の子どもは境内の砂利やアスファルトの上などで走り回っていますが、きっと大人よりも体感的には暑いはずです。30を過ぎた私なんかの方がよっぽど暑さは応えます。さらに地面に近いところで生きている妻の実家のパグなんかは、到底散歩に連れて行けるような状態ではありません。家の中でもエアコンが効いていなければ、舌を出してぐったり・・・です。
ですが、3歳の子どもや1歳の犬は「異常」を感じることはありません。その暑さに身体が適応できないとすれば、全身で異常を感じているともいえましょうが、せめて大人の会話の中から「異常なんだな」と知らされるよりないでしょう。ですが、なにか常に「いつもどおり」であることが正常だと思い込んでしまっている私ではないかと思うのです。平年並みであれば正常かというとそういうことではないのでしょう。
ではその「正常」な状態とはどこにあるのか?
気温が平年並みを上回ったり、過去の計測史上の最高を更新したりすれば「異常」といいたくなりますし、実際にいっているわけです。
言う人の主観でいうのであれば、たとえば50年前の夏が正常な暑さであったり、30年前の暑さが正常であったりすることもあります。3歳の子どもにしてみれば今のこの暑さが「普通」スタンダードなわけです。
二酸化炭素・温暖化・ヒートアイランド・そしてそれに対して地球にやさしいとかエコだとか、さまざまなキーワードに慣らされてしまっている私たちですが、科学的データの裏付けの上でのことであれば、私たち一人ひとりが排出し、させている二酸化炭素と、それを吸ってくれるはたらきを私たち一人ひとりが伐採し、伐採させているという現実からすれば、この暑さは「正常」なのでしょう。因果の法則にてらしてもそうなのでしょう。「だからこうなった」わけですから正常なわけです。それを「異常」だというのであれば、それは「鈍感」ということではないでしょうか。
近年の「異常気象」ということばにつられて、「異常」「異常」と簡単にいってしまう私ですが、人間の営みを含めたところで「自然」というのであれば、煩悩にあおり立てられるがごとく暑くなるのは当然なことでありますし、人間と自然を切り離してしまえば、「人間が自然を壊した」結果暑くなるのです。その反省が事実あるのかもしれませんが、この発想の上に立って「人間が壊れた自然を回復する」みたいな言い方をするところに、人間の力をまだまだ過信している私の姿が現れてくるのではないでしょうか。大いなる自然の中に生かされているにもかかわらず・・・です。
「異常」「異常」といわれれば「うーん確かに・・・」とか言いたくなりますし、地球に優しいとか、エコにつながるといわれれば、何かいいことをやっているような気にもなるのが私です。実際にはそれさえも経済的な消費の宣伝文句につながっていく、それに利用し、利用されていこうとする私ではないでしょうか。「異常」「異常」というのは、やはりそういう自分の姿が自覚されてないところの言葉ではないかと思うのです。つきつめれば私こそ正常で、他が異常なのだとする善人的発想が根っこにあるのです。私も自然も気候も「異常」はないのです。すべてがありのままです。ありのままということは「異常」でも「正常」でもない「無常」ということだと思います。そしてそれが「自然」なのでしょう。