遊煩悩林

住職のつぶやき

根を訪う

2019年06月25日 | ブログ

5年前、沖縄の佐喜眞美術館で丸木位里・俊 作の「沖縄戦の図」をみた。

昨年、群馬県の太田市足尾鉱毒展示資料室で同じく「足尾鉱毒の図」をみた。

そして数日前、丸木夫妻が描いた「大逆事件」のレプリカのパネルを和歌山県新宮市の「大逆事件資料室」でみた。

この「大逆事件」の図にも、足尾の田中正造の姿が描かれている。「念仏講」の表記とともに。

 

「念仏とは何なのか」、この問いを抱えながらの住職道である。

そんなことも知らずによく住職が務まるな、と自分でも思う。

念仏の道場たるお寺の住職である。

ただの商売道具にしてはいないかと自問する。

 

さて、6月22日に新宮市の浄泉寺にて、かつて大逆事件をでっち上げられて連座した高木顕明住職の事績を訪う「遠松忌」法要が営まれ、お参りさせていただく機会をいただきました。

浄泉寺さまをお訪ねしたのは3度目です。

その都度、大切な学びをいただくのだが、果たしてその学びが行動として実践できているのか。

「念仏を生きた」顕明のこの世の最期は、秋田監獄での「絶望」だったのかもしれない。

そう思うと「絶望」に立てない私の姿こそ、顕明を刑務所に送った張本人かもしれない。

「前を訪う」がテーマの遠松忌で、さらにその「根」を訪っていかなくてはならないことを聞いた。

 

顕明は、部落改善運動を進める虚心会で

「頭の中では排斥しておいて外面だけ体裁よく交際するというのはそれは少々偽善、まぁ偽善ですな」

と語ったともいう。

そして「戦争は極楽の分人の成す事では無い」という顕明の姿勢は、念仏を申す人の真の姿だったと学ぶ。

 

そういえば今月11日、伊勢朝熊の三法寺を訪ねるご縁をいただいた。

かつてそのお寺に住寺されていた植木徹誠は、

「戦争は集団殺人だ」

「宗教者は戦争に反対すべきものである」

と言い切った。

その根拠はやはり念仏に尽きる。

 

念仏は、非戦であり、平等である。

それが体裁であれば本当は「絶望」に値するはずであるのだが。

丸木夫妻の執筆の原動力ももしかしたら「絶望」ではなかったか。

親鸞も絶望を生きたという。

私の南無阿弥陀仏が問われ続けています。

 
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もうひとつ

2019年06月14日 | ブログ

「新宿の猫」

「水辺のブッダ」

妻がせっせと読書に励んでいます。

https://www.amazon.co.jp/本-ドリアン助川/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3Aドリアン助川

 

明日6月15日(土)午後2時から、松阪市の農業屋コミュニティ文化センターで、第38回の真宗公開講座が開催されます。

講師はドリアン助川さん。

司会進行は妻が・・・やります。

どうも雨のようですが、ご都合のつく方は当日券もあるようです。

かつてこの講座は、サブタイトルに「人間性を探る」とあったような気がします。

いつの間にかそのような副題は見えなくなりましたが、ドリアン氏の講題は「生きることのもう一つの意味」とあります。

もう一つ・・・

本当の意味を私たちは見失っていませんか、という問いかけを聞かせていただこうと思います。

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後半戦

2019年06月01日 | ブログ

2023年に迎える親鸞聖人御誕生850年に向けて、

南無阿弥陀仏

人と生まれたことの意味をたずねていこう

というテーマが発表されました。

http://www.higashihonganji.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/05/テーマの願い・趣旨1.pdf

これは50年前の御誕生800年のテーマ

生まれた意義と生きる喜びを見つけよう

をふまえたものでしょう。

おもえば、物心がついたころから京都(東本願寺)に行くと、外壁に大きく書かれたこのスローガンを目にしてきた。

その文字の羅列が自分に迫ってきたのは、中学生の頃、母親が死んでからのことだった。

生まれた意義とか生きる喜びとか、そんなことも意識することもなく過ごしていた私に、同朋会館の講堂に吊るされた布製のタペストリーに書かれたこの文字が問いかけてきたという感じだっただろうか。

生まれた意義って何なのか。生きることの喜びって何なのか。

やがてその問いは「じぶん」って何なのかという問題に転化されていった。

それがそもそも私がお坊さんという道を決断させた課題だったし、それは今でも教えを聞く動機になっている。

人と生まれたことの意味をたずねていこう

とのスローガン。

何もセンセーショナルなものは感じない。

ただ、あの頃と比べて違うのは「意味」を求めることの意味だ。

意味を求めすぎて「存在」の尊さを見失ってきたという反省がある。

うまく言えないが、「意味のない(意味を持っていない、意味を見出せない)」存在に価値が見出せなかった時間がある。

それは相模原の事件のごとく、そこ(存在)に意味を見出そうとしない「じぶん」、そこ(存在)に尊さを見出す教えを持っていなかったということに過ぎない。

最近、息子とカラオケに行くことがある。

「練習」と称して必ず歌っている歌詞に

ぼくが歩いてきた日々と道のりを

ほんとは"ジブン"っていうらしい

スガシカオ「Progress」

さて、

この世は自分を探しに来たところ

この世は自分を見に来たところ

とは、たびたび出てくる河井寛次郎さんの言葉だが、私のじぶん探しもおそらく後半戦にはさしかかっていることだろう。

いつまで探しとるの?

の声なき声も聞こえてきますが、いのちあるかぎり。

ただし都合の良い探し方はもう卒業しなければならないと思う。

悪意は反省しても 善意の反省はしない私

先月末、常照寺の永代経で荒山優さんのお話を聞いていて、春の彼岸会でお父さんの荒山信さんが

悪意の反省はできても善意の反省はできない

と言っておられたのを思い出したので今月の掲示板にしたためた。

ことの程度はとにかく、「悪いことしたな」の反省はできる。

「善いことをした」つもりでいることを反省することは難い。

他人事ではなく「私」を付して。

「じぶん探し」後半戦の課題は「善意の反省」である。

ただ、それができればじぶん探しも完結に向かうかもしれない。

いつまでもそれができない「私」を言い当てられ続けるしかない。

果たして「だれに」言い当てられるか、だ。

南無阿弥陀仏 

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