遊煩悩林

住職のつぶやき

ナムアミダンス

2012年10月18日 | ブログ

「神無月」
「神の月」が音写されたといいますが、全国の神々が出雲にご出向されるという俗説が浸透するにはそれなりの背景があるのでしょう。
「実りの秋」ということもあり「五穀豊穣」を祝う祭りが全国各地で行われる季節、やはり神がおいでにならなければお祭りにはなりません。ご当地伊勢の神宮でも「神嘗祭」というお祭りが毎年10月15~17日に行われますが、神宮のホームページに記載された「神嘗祭」の趣旨文から、五穀豊穣のお祈りは何のためになされるかということを考えさせられました。
伊勢神宮 http://www.isejingu.or.jp/whatsnew/detail.php?uid=26
さて、その伊勢を離れ、15~16日の二日間、伊勢神宮と出雲大社を結んだ中間点にあるともいわれる兵庫県宍粟市の伊和神社の秋季大祭を視察してきました。坊さんが神社の祭りを視察というと不思議な響きかもしれませんが・・・要は見物です。「祭礼差別」とその実状について、元朝日新記者の平賀正弘氏にお話を伺い、現地をご案内いただきました。
「祭礼差別」といいますが、それは神が人間を差別しているのではなく、神の名を借りて人が人を差別しているわけです。それが具体化する場が「祭」。差別が潜在化したといわれる昨今、それが表面化する現場です。
ここでは神事に参加できない山車屋台が、神事が終わるのを待って合流し、いかにも祭に参加したようなカタチをとっているという現状です。
気になるのは、その現状に対して「差別」という意識がはたしてはたらいているのかということです。
それが「祭礼差別」ならば、「差別する側」そして「差別される側」にその意識があるのかどうか。
平賀氏の言葉を借りれば「巧妙なバランスを保ち安定しているように見える」と。何が安定しているかというと「差別の構造」がです。
祭に参加する山車屋台と、祭が終わるのを待っている山車屋台。一見するだけでは何でもないような光景が、話を聞けば聞くほど奇異に映ってきます。ただその奇異性までも包み込んでしまっているような差別構造の安定感というのでしょうか。それが「当たり前」の光景として成り立っているとすれば、そこに差別者の意識も被差別者の意識もないに等しいことになります。
今回、外部から訪れてみて感じる目線は「そこ」です。「差別」が当然のこととして放置されているというと言い過ぎでしょうか。
さらにいえば、神事に参加する山車屋台の側からすれば、参加できない山車屋台に対して、祭のあとの屋台の練り合わせを「やってあげている」という感覚。逆に祭が終わるのを待っている山車屋台の側にも、「祭のあと」に「入れてもらっている」感があるのではないか。
あるとすれば、これが平賀氏のいう「巧妙なバランス」でしょう。
ただ、それが互いに「いいこと」をやっている、つまり「やってあげている」、「やってもらっている」という前向きな意識ならばどうなのか。
私のような外部の人間が率直な感想を綴ることに慎重にならざるを得ません。
この事象について外部から「差別だ!」と声を上げることは、せっかくやってあげているのに・・・やってもらっているのに・・・の巧妙なバランスを壊すことを意味します。壊れたいのは「無意識的な差別構造」ですが、それが壊れることによってはっきりしてくるのは、差別者と被差別者です。いいことをやってあげようとしていたその善意そのものが差別であったことを知らせるとともに差別者として、逆に、善意に甘えているとすら思っていたものが被差別者であったことがはっきりしてきます。「差別」がはっきりすると、差別者と被差別者がはっきりする。
客観的にはっきりしても、差別者は差別者であることを、被差別者は被差別者であることを認識できないということがあります。「差別なんかしてません」、ましてやそれが「いいこと」だと思っていた。逆に被差別者は自分が差別を受けていたとは認めたくないような・・・。低い人権意識や安っぽいヒューマニズムの私のところでは曖昧で済んできた対立関係が、ここではあからさまになるのです。
問わされるのは、このような差別の実態に対して絶対平等を説く仏教がどう応えてきたのか。寺がどう応えていくのかということです。
差別を訴え、対立構造をあおるのが仏教ではないでしょう。差別する者、される者がともに救われていく教えをいただきながら、その対立をまるまる受けとめ、それを克服していける場を寺が開き、僧侶が応えていけるのかということが問われます。
たまたまこの神社の祭礼について取りあげていますが、仏教寺院の現場で起こってきた宗教差別の歴史、浄土真宗を語りながら起こってきた数々の差別事象について、神や仏が差別するのではなく、神社や寺院が差別するのではなく、そこに関係する人間が、この自分がいったいどうなのか!と。
支配的につくりあげられてきた差別構造は、誰かが立ち上がるとか、誰かが犠牲になるとかで解き放たれることではありません。「私は差別をしません」という言葉自体が差別的構造の中に組み込まれているのでしょう。一人の問題ではなく「ともに」ということが求められているように思います。「いいことしてあげていた」つもりの者と「してもらっていた」つもりの者がともに、差別者と被差別者がともに、です。

このお祭りの前日、部落解放同盟宍粟市支部連絡協議会支部長の大久保氏からは「宍粟市における被差別部落の実態」について大変厳しい現状を伺いました。その中で言われた「差別に馴染んだ国」という表現と、当日平賀氏が言われた「日本の社会全体が被差別化してきている」ということばが印象に残っています。いずれとも「貧困層を拡大させる構造」のことを言うのだと思います。
国民を愚民化し、貧困を拡大させる、差別意識をあおる・・・どこかの誰かを批判したいのではありません。支配する側に立って考えてみればこの頭に思い浮かぶことです。この身がそのこころを持っているという自己批判と同時に、そのことが知らされてきたということが差別構造からの自己防衛でもあります。自身の差別意識を知らせるはたらきが「摂取不捨」の仏のこころでしょう。

帰路に着いて、東本願寺の廊下に掲げてあった法語が浮かびました。

神はこの身をにぎるもの
仏はその身を解放するもの
藤代聰麿

束縛を求めるのも私、解放を求めるのも私です。

15日の夜、地元を離れ南米に念仏を伝える住職との出会いがありました。
アルゼンチンでどうやって念仏を伝えているかという問いに「ナムアミダンス!」をアカペラで披露してくれました。

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YouTube: Namuamidance//Argentina//Furaibo/

いのち くらし こども宍粟市民ネットワーク http://ikknet.blog.ocn.ne.jp/
宍粟市民ネットワーク http://www3.ocn.ne.jp/~ikknet/

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宗教しよう!

2012年10月08日 | ブログ

孫のお宮参りはどうしたらいいでしょう?

85歳で亡くなったお母さまの二・七日(ふたなのか)のお参りのあと、その娘である奥さまがいくつかの質問を記したメモを見ながら尋ねてくれました。
聞くと、この11月に孫のお宮参りがあって、娘さんは「お母さんも一緒に」といっているのですが、無病息災を願う宮参りに、母親を亡くしたばかりの自分が行ってもし孫の成長に何かあったらと思うとどうしたらいいのか迷っている・・・のだとか。
ご主人とあれこれネットを検索しながら、49日が過ぎているからいいだろうとか、100ヶ日が過ぎていないから駄目だとか。忌明けしたからいいだろうとか、喪中はがきを出すんだからまだ喪中だとか。嫁に出した娘の子だからいいとか、嫁ぎ先にご迷惑になるとか。ああでもないこうでもないと理屈をつけて納得してみたり、ため息をついてみたり。「昔からの言い伝えにはそれなりの根拠があるのでしょうから・・・本当のところはどうなのでしょう」と。

「それはお宮さんに聞いてください」というわけにもいかず。
だいたい寺の住職がお宮参りをすすめる理由もありません。「わざわざ行かなくていいでしょう」と言いたいところでしたが、浄土真宗の確かさを体現するならば堂々と鳥居をくぐれるのです。
おすすめの意味の問題です。
僧侶である私が「おすすめしない」のは、忌中だからとか、喪中だからとかいう理由ではありません。浄土真宗の確かさを表明するならば、気にせず行っておいで、と「おすすめ」できるのです。に、してもお念仏の確かさを証明するためにわざわざお宮参りに行っておいでというのも未熟な僧侶には気が引けるところです。
昔からの言い伝えは大事にしたいという気持ちもわかりますが、それが「因習」だとはっきりすれば、誰かがきっちりと決別しなくてはなりません。ただその「誰か」に誰もなりたくないわけです。
触穢思想と霊性とでもいうのでしょうか。ケガレが伝染するといった意識と万世は霊が支配しているという感覚から逃れられない。その解放がナムアミダブツとして伝統されています。
ナムアミダブツと念仏申してきた母親の死をどう受けとめるか。
浄土に往生を遂げたと信仰すれば、何もお宮さんに遠慮することはありません。
しかし、穢土に送って冥福を祈る信仰ならば、ご遠慮しなければならないことも出てくる。ただし遠慮せずにおれるのは、一人ひとりの信仰が認められる成熟した社会においてです。遠慮する必要がないというよりは、それについて干渉されることがないということでしょう。それを許さないのは、神さまでもなく、仏さまでもない「世間さま」。

「本当のところ」は、実は孫の成長の心配ではなくて「私」の問題です。
嫁ぎ先のご親類をはじめ、いわゆる「世間さま」から「非常識」といわれるのではないか。そして、孫の健やかな成長を願っているつもりが、その孫に何かあれば「私のせい」になるのではないかという恐れ。極端にいえば、孫の無病息災の問題ではなくて、自分を弁護し、保障してくれる都合を求めているにすぎません。
「子どもの健やかな健康をお祈りする」といいますが、この時点で祖父母の精神状態は健康とはいえないのではないでしょうか。なぜそんな不健康が生じるかといえば、「宮参りは慎むものだ」という世間が未だに蔓延っているからでしょう。
いろいろ理屈を並び立てて誰かが「行ってもいいよ」といったところで、モヤモヤはいつまでも晴れるものではありません。どこでモヤモヤが晴れるかといえば、「世間さま」が認め、また「孫の健やかな成長」が確約されたときです。
孫の健やかな成長が確約されなければ、喪中の宮参りのせいで、という不安が払拭されることはありません。
まず「孫の健やかな成長」と「私の宮参り」と「おばあちゃんの死」を関連づけ、一括りにされている呪縛から解放されなくてはなりません。
もしお孫さまの健康に不具合が生じたとき、その犯人を誰になすりつけるつもりでしょうか。喪中に宮参りした母なのか、亡くなったおばあちゃんなのか、はたまた神さまか、仏さまか、霊とかか。

無病息災を願う宮参りを否定する気はありません。ただしそれは御利益信仰とは称しても宗教ではないと思うのです。
「無病息災」は煩悩です。煩悩を満たす宗教はありません。
孫の無病息災を願わずにはおれないという煩悩に気づき、その煩悩を抱えたままこの私が救われるということが明らかになった時に宗教、信仰の道が開かれてくるのでしょう。
自分や家族の無病息災を祈ることが我欲だと気づき、神の名を借りてそれを満たそうとしていた自分がはっきりすれば、亡くなったお母さんも孫も、そしてこの私も「生老病死」する身をともに堂々と引き受けましょうと一歩踏み出せるのではないでしょうか。
虐待の話題が目立つ今日。健やかな成長を願われて育ったはずの子どもが、親のつまらない期待に応えられなかったり、親の自己愛と善意の押し売りにうんざりして反抗した時にどんなカタチで「親の願い」が転換するのか。これだけあなたに愛情を注ぎ込んできたとか、大切にしてきたとか、よくよく胸に手をあててみなければなりません。

ただ、宮参りしていいとかいかんとか、そんなことが宗教として語られるとすれば、何かやはり未成熟なのでしょう。
お参りするのに制限をつけるのは仏さまでも神さまでもない。全部人間です。
人間といっても実態のない「世間さま」が、神や仏の罰や祟りを語り、宗教を装って脅すだけです。
何も仏や神を軽んじろというのではありません。
宗教は生きる人間を救いとるはたらきです。
人間を世間から解放するのが宗教かもしれません。世間の中で独立させるといってもいいのではないでしょうか。それに対していえば、人間を孤立させるのが世間です。
ちゃんと宗教しないと、宗教でも何でもないもの(世間)に振り回され続けて人生が終わっていきます。ちゃんと宗教するというのは、ちゃんと私が救われる者になっていくということです。
亡くなったおばあちゃんから、孫を縁にして、お母さんに発露した宗教心の芽生えです。ともに悩みながら育てられたいと思います。

数年前にもこんな記事を書きました。
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20060116
いつの時代も、親の子を思う心はかわりません。
勝手なことをつぶやいていますが、「喪中の宮参り」が、いいとか悪いとかではなく、そこから問われ続けるということが大切なのでしょう。

世間にもこんな記事が
http://allabout.co.jp/gm/gc/67475/2/
坊主のつぶやきよりも「説得力」があります。

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