遊煩悩林

住職のつぶやき

Booses活動報告

2012年08月28日 | ブログ
 

20120817

 

いろいろあった8月。いろいろありすぎて整理がつかぬまま。

生まれた意義と生きる喜びを見つけよう

という東本願寺のスローガン。

今年の8月は、初旬から中旬の“おぼん”、そして中旬から下旬にかけて実施された“福島のこどもたちを三重へプロジェクト”を通して、改めてこの「生まれた意義」と「生きる喜び」について考えさせられました。

はるか2500年の時を超えて、インドから伝えられたおぼんの仏事。
せっかく伝え届けられたのに、日本の「お盆」は仏事というより民族的な霊的ニュアンスが強く、「先祖の霊が帰ってくる」という受け止めが支配しています。
ご門徒のご家庭に寄せていただいても、よく「ご先祖さまのおかげで」「今があるのはご先祖さまのおかげ」という方があります。
「お仏壇=ご先祖さま」と信じて疑わないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「ご先祖さまがあっての私、ご先祖さまのおかげで今がある」確かにそれはそうでしょう。物理的にはご先祖さまがいらっしゃらなければ今、ここに、私という現象は生じない。
ただ、お盆を仏事とするならばそこからもう一歩、踏み出すことが必要ではないでしょうか。それはつまり、私が存在することの意義と、その存在のよろこびを確かめる必要です。
ここでいう「先祖のおかげ」は強迫観念的な「幸福感」によって支えられているにすぎないと思うのです。
幸せを感じる時は「ご先祖さまのおかげ」といえたとしても、幸せを感じられないときや苦しみのまっただ中で「ご先祖さまのおかげ」といえるでしょうか。

8月15日の終戦記念日の「英霊」という言葉にしても、いまのこの国の平和は、かつての戦争で「国のために死んでいった方々」のおかげでなりたっているというのですが、彼らは果たして「国」のために生まれてきたのか。いまの日本が果たして平和かどうかはとにかく。
ご先祖の「おかげ」、英霊の「おかげ」というのはどうも「おかげさま」の押し売りに聞こえてしまうのです。
あなたは恵まれている。しあわせだと思わなくてはならない。日本は平和なんだよ。と何か強制されているような違和感さえ感じてしまうというといい過ぎでしょうか。
言いたいのは、私たちは先祖のために生き、国のために生まれたのではないということです。私が私になるために(両親やご先祖を縁として)生まれ、私が私のいのちを全うしていくことができる場を豊かな国というのではないでしょうか。国や先祖をダシにしていのちを十把一絡げに絡めとっていこうとすれば、いくらGDPが高いといっても貧しい国なんでしょう。

福島のこどもたちに出会って感じたことです。

今回福島からお迎えをした子どもたちに「ご先祖さまのおかげで今があるんだよ」と誰が言えるのかと思うのです。
ましてや彼らはご先祖さまから受け継いで来た生業のなかで、そこから離れることができないという「しがらみ」のなかにある。
今この国に生きる一人ひとりが、いのちをお金に置きかえ、さらにいのちよりお金を優先させることを暗黙のうちに認めてきたことが、放射能という目に見えないカタチとなってその土地に降り注いだことを考えたとき、その未知なる不安と恐怖の中で、「ご先祖さまのおかげで」と果たしてどの口が言うのか。それでも「ご先祖さまのおかげで」なんて言う声は「ご先祖さまに申し訳がない」などと罪の意識に駆り立てていくだけではないでしょうか。
「ご先祖さまに申し訳がない」ということばの裏に、逆に先祖を恨むことさえあるのではないでしょうか。
大事なことは、ご先祖から受け継いだほとけさまの智慧を忘れ、子孫にそのツケを回すことになったことにどこまで思いを馳せられるかということではないでしょうか。

「福島の子どもたちを三重で遊ばせてほしい」という声を受けて、この春に立ち上がった「“福島の子どもたちを三重へ”プロジェクト」。
その声を受けた人が今度は呼びかけ人になって、またその声を聞いた人が呼びかけて・・・。
連鎖の過程で私にまでその声が届き、プロジェクトに関わることができました。
おかげさまで多くの方々のご支援によって8月17日から26日までの期間、福島のこどもたち「と」三重「で」たっぷり遊ばせてもらいました。

ご参加いただいたのは、警戒区域内の自宅に戻ることができない親子や、避難移住したくてもできない福島の子どもたち。
子どもたちとスタッフを無料で招待くださった鳥羽水族館に宛てたあるお母さんの「笑顔になれました」というメッセージに、このプロジェクトに関わらせてもらって本当によかったと感じました。
迷子に置き去り、待ちぼうけ、切符の手配、名札の記載、段取りの悪さなどなど、私一人だけでもこれだけのご迷惑に恥ずかしい限りですが、参加者の笑顔とリーダーはじめスタッフ・ボランティアの皆さまに助けられました。

いちばんはじめに「福島のこどもたちを三重で遊ばせてほしい」と声を挙げてくれた東北のセッキーが、責任を持って福島からこどもたちと保護者27名を引率してはるばる三重まで連れて来てくださり、ウェルカムデーを常照寺に滞在してくれました。
17日の7時到着予定のバスが到着したのは6時すぎ・・・、準備はそこそこ、スタッフのミーティングをやる間もなく日程に突入したことは、今回のプロジェクトの勢いを物語るかのごとくでしたし、いい意味でも悪い意味でも?このプロジェクトの方向性を決定づけたようにも思います。
お礼は言い尽くせませんが、関わっていただいたすべての方に感謝申し上げます。
何より、参加してくれた子どもたちと同行してくれた保護者、また子どもたちを送り出してくださった保護者の方々にお礼をいわなければなりません。
そしてこの企画を周知して現地で募集してくれた方々にも。
数えきれない方々のご支援でプロジェクトが実施され、おかげさまで福島の子どもたちとお母さん方と交流できたことで、いっぱいいろんなことを教えられ、無言のうちに考えさせられました。

子どもたちが口にするもの一つひとつにお母さん方は気を使います。
本来いのちを食していのちにする私たちが、いのちを蝕むものを子どもに与えていないか。
放射能に汚染されているかもしれない食品、食物に「いただきます」と手が合わさるということはありません。
我がいのちにするためにいのちを「いただく」のであって、いのちを蝕むものを「いただく」わけにはいかないのです。
ご先祖さまを縁にして、ほとけさまに手を合わせることができないとすれば、その因を1つずつ取り除いていきたいですし、食べるものに手が合わさらないとすれば、やはりその因を取り除きたいのです。

いつの時代、どこの場所に生まれても「生まれた意義」と「生きる喜び」が必ずあると先のスローガンはいいます。
苦しみや不安、恐怖の中で生きる時の「生まれた意義」とは何なのか、そして苦しみの中で人間として「生きる喜び」とは何なのか、問わずにおれません。

霊の信仰を超えて生きた方のことばに

人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない
金子大榮

ということばがあります。
私はこのことばをずっと受けとめることができませんでした。今でも受けとめきれてはいませんが、ただ私がいま「生まれた喜び」を知らない、感じられないとすれば、それは「人と生まれた悲しみ」を知らないからだということがはっきりしてきたような気がします。

さて、プロジェクトの目標は「震災の年に生まれた子どもたちが成人するまで!」です。

同じく被災した寺院を多く抱える東京教区ホームページの日替わり「今日の言葉(8/25)」に、たまたま

黙っていることは 認めていること

(「暮らしにじぃーん」http://www.ji-n.net/ということばに出会い、頭から離れません。
(人と生まれた悲しみを)知らないということの罪。知らさないということのへの批判とともに、知ろうとしなかった罪悪を自覚し、暗黙のうちにそれを認めてきた自責の念を込めて9月の常照寺の掲示板に記したいと思います。
この先20年、いやいのちある限り、ともに悲しみから目をそらさず、ともに育てられ続けたいと思います。
出会うということはお別れがあるということ。福島のこどもたちとの別れは悲しい別れでしたが、この悲しみによってまた次の出会いのよろこびになるのでしょう。また近々彼らに会える予感がしています。

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参加者の子どもたちを支援する署名
http://www.avaaz.org/jp/save_the_fukushima_children/

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成人と成仏

2012年08月26日 | ブログ

手のひらを合わせる機会が1年の中で最も多い月は8月でしょうか。
お坊さんでなくても毎朝夕ほとけさまの前で手を合わせる習慣があれば、それだけで少なくとも2回。勤行するなら勤行の前と後に合掌するのが常でありますから4回。
なかなかそこまでの習慣がないにしても、1日3回食事をするならば「いただきます」で3回、「ごちそうさま」で3回、1日6回は手を合わせるチャンスをいただいていることになります。
回数はとにかく、このチャンスを私はちゃんと生かしきっているだろうかと問われたお盆でした。
ほとけさまの前で手を合わせて「ナムアミダブツ」と申し上げるチャンス。
テーブルにならんだ食事の前で手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」というチャンス。
いずれも自分の命になってくださっている事実というか事柄に対する態度を表明する絶好のチャンスであると同時に、ほとけさまの方から、また食べられる側が、自身に対して手を合わせてほしいといのちをさらけ出しているような。食す私の血になり肉になってくださる、そしていのちとなってくださる事柄に対して手を合わせよ、と。
自分になってくれているいのちに、手を合わせることのある人間であってほしいという願い。「いのち」に対して手が合わさる者を仏教では「人間」とよんできたのではないでしょうか。
仏教は「成仏」を説きますが、「成仏」するにはまず人間にならなくてはなりません。成仏の前に「成人」なのでしょう。ハタチになって成人したとか、成人式をやったとかの話ではありません。

手を合わせて合掌する。この作業はいったい何を意味するのでしょうか。
「人となる」「人間」にお育てをいただくということに尽きるのではないでしょうか。
手を合わせるご縁は、誰にでも無量無数にはたらいているはずです。
ウチには仏壇があるからとか、ないからとか、お墓があるとかないとかいう問題ではないし、初盆だから参る、参らないの論議があるならばそれは、手を合わせる人間にお育てをいただくチャンスに鈍感になってないかということです。
私の場合であれば、ああだこうだと言いながら毎日手を合わせてはいても、それが惰性的になってないかと。

8月15日、常照寺の盂蘭盆会(ウラボンエ)をご門徒の方々とともに勤めました。盂蘭盆会は、盂蘭盆経に説かれる「餓鬼」を救う故事に基づく行事ですが、私たちはこの故事を縁として「人間」になる法を学ぶのです。ケチケチケチケチと餓鬼道に生きている自分の姿を知り、布施をしてまでしてほとけさまに手を合わせ、人間に育てられるのです。
例年、初盆をご縁にはじめて子や孫とともにお寺にお参りするという方や、近年では中年と呼ばれる世代の方や、定年退職された世代の方でも初めて寺に参るという方も少なくありません。
そういった方はこれまで手を合わせるチャンスがなかったかというとそんなことはないはずです。
よく「ご縁がなくて」といいますが、縁は無数無量にあるのでしょう。ただそのご縁を切っているにすぎない。
「無縁社会」ともいわれますが、縁がないわけではない。「絶縁社会」なんでしょう。縁を自ら絶っている。
「あなたと私は関係ないですよー」「お互い迷惑かけないようにしましょうねー」「なんでお前にそんなこと言われなイカンのや」「そんなこと言われる筋合いはない」とか、絶縁なのでしょう。

まず、私にはたらいてくださっているご縁に敏感になりたい。それには鈍感さに気づくところからしかはじまりません。
「初盆」がご縁となって、はじめてほとけさまに手が合わさったのであれば、それは亡き方がほとけさまとしてはたらいてくださっているお姿を認識してのことだと思います。それが面倒であるかどうかはとにかく。
そのはたらきに気づくアンテナをみがく、毎食毎食のいただきます、ごちそうさまも、いのちのはたらきに鈍感になっている、感度が鈍っているアンテナを向こう側から磨いてくれる作業と受けとってはいけないでしょうか。

今年の盂蘭盆会は、不思議な出会いとご縁をいただいてシンガーソングライターのRyu-01のミニライブをしました。
Ryu-01自身、今年がおばあちゃんの初盆ということもあって、気持ちのこもったその歌はご参詣の皆さまのこころに届いたようです。
Ryuちゃん来年もよろしく!

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いのちをたずねて

2012年08月10日 | ブログ

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お盆のご案内。
勤行後、今年おばあちゃんの初盆を迎える“Ryu-01”のミニライブがあります。
“Ryu-01”には、8月17日の“福島の子どもたちを三重へ”プロジェクトin伊勢志摩でも歌ってもらいます。

Ryu-01ブログ「Life is Beautiful」http://ameblo.jp/chang-ryu/

Ryu-01のテーマ「Life is Beautiful」の「Life」を僕は「いのち」と読んでいます。
「Life」って、いろいろ読めるとは思うのですが、「生活」とか「生命」「人生」って全部「生」が伴っています。そこに異論はないのですが、気になるのはその「生」について、そこには「死」を伴っているのか否かということです。
「生」と「死」は概念的に別個だと言えばそれまでですが、「生」は「死」を包括していると考えたいのです。
わざわざ「生活」に対して「死活」とか、「生命」に対して「死命」、人生に対して「人死」なんて言わないわけですが、すべてその前提に「死」があるということを忘れてしまっていないだろうかという自己確認です。
わざわざ言わないだけで、「人生」は「死」を孕んでいるし、「生命」にも「生活」にも「死」を孕んでいると思うのです。
だから「いのち」というひらがなに響きを感じるのです。
生も死もあって「命」、生きていても死んでいてももはや関係ない「命」、「生きていても死んでいても」というのは、どうでもいいのではなくて「生死を条件としない命」という感覚でしょうか。
どうも「命」が、「人命」とくに「生命」にこだわりすぎているというか、「人間の生命」にしか「いのち」を感じられなくなっているのではないかという風潮を感じるお盆に、なぜ「生命」が尊いのかという問いをいただいています。
生まれて、生きて尊い命は当然そのまま死んでも尊いのだと思うのです。
生きている命にしか尊さを感じられないとすれば、死の尊さを知ることはないでしょうし、死に尊さを見出すことができなければ、無駄に生命をやり過ごしているだけのような気がします。
言いたいのは「死」が意図するところをはっきりしなければ、「生」ということの意味、「生まれた」ことの意味、「生きている」ことの意味がはっきりしないということです。
「何のために生まれてきたのか」という問いに対して、「死」から目を背けていてはいくら捻っても「生まれてきた」ことの意味ははっきりせず、苦悩の現実を生きることによろこびを見つけるということはないのでしょう。
他者を批判したいのではありません。無量のいのちの教えをいただいているにもかかわらず、「生命」に拘る自分を知らされてのことです。

「いのち」を尋ねに常照寺の盂蘭盆会にどなたでもお参り下さい。

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Booooses!

2012年08月06日 | ブログ

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すっかりご無沙汰してしまった遊煩悩林。ご報告しなければならないことがたくさんあるにもかかわらず、言ってる間に8月になってしまいました。

子どもたちは夏休み。
ゲームやってる子どもに「楽しい?」と尋ねたところ「暇だから・・・」と、胸が傷みます。
ゲームばかりでもありません。お盆明けに常照寺にやって来てくれる福島のこどもたちと「朝まで『ワンピース』上映会」を楽しんじゃおうということで、試写をしてくれています。http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/
私は観たこともなくて全然知らないのですが、先月お寺に届いた“NETWORK NEWS 願いから動きへ”という「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」が発行する広報誌の巻頭言に、「ワンピース」に登場するドクターヒルルクという人物の言葉が引用されていて印象に残っていました。

人はいつ死ぬと思う?
心臓を銃で打ち抜かれた時・・・違う
不治の病のおかされた時・・・違う
猛毒キノコのスープを飲んだ時・・・違う!

人に忘れられたときさ・・・

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YouTube: One Piece - Dr Hiluluk Death

「知ってる?」と子どもに尋ねたところ、妻までもが「名言だよね」と。
この夏、福島の子どもたちをお寺に迎えるにあたって、「忘れない!」ということをテーマとして、常照寺の今月の掲示板にヒルルクの台詞を記してみました。
忘れない!というテーマを与えられることによって、それでも大事なことを忘れる、忘れている自分に気がつかされます。

さて“福島のこどもたちを三重へ”プロジェクト実行委員会からご支援状況の中間報告をいただいています。7月30日現在で3,438,085円のご支援。
先月、最終回を迎えた「仏教に学ぶ講座」でも、参加者とスタッフにご支援をお呼びかけしたところ55,000円のカンパをいただきました。
御礼方々ご報告させていただきます。

また過日、福島県二本松市で「市民放射能測定室」http://team-nihonmatsu.r-cms.biz/を運営するNPO法人「TEAM二本松」のブログには、子どもたちの内部被爆線量を測る「ホールボディカウンター」の設置が完了したことが報告されていました。http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji

いよいよ8月17日から子どもたちをお迎えするにあたり、夏休み終盤の週末に伊勢志摩の観光地の雑踏でもスタッフが見分けられるようスタッフT-shirtsを作成しました。
名付けて“Booses”
画家のナカタニタケシ氏http://takeshinakatani.jp/がプロジェクトの支援にと、私たちの活動を「ボージーズ」と名づけて原画を制作くださり、それをモチーフにしたスタッフT-shirtsをデザインしてくれました。
スタッフ用とは別に枚数限定で販売もしてくださっていて、売り上げはすべてプロジェクトにご寄付いただきます。http://yellow.ap.teacup.com/t_emelon/951.html
タケシさん、またT-shiritsをご購入いただいた皆さまありがとうございました。
http://www.facebook.com/

追伸
当日、銭湯「ときわ湯」さんが定休日にも関わらずプロジェクトのために風呂を開放してくれることになりました。ついては、こどもたちが使うバスタオルを、そして本堂宿泊用の敷布団はヒラマツさんがご提供くださいますが、掛布用のタオルケットを募集しています。できるだけ新しいものを使ってもらいたいので、ご家庭に新品のものがございましたらご支援いただければ幸いでございます。

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