遊煩悩林

住職のつぶやき

そうこうしてる間に

2015年07月19日 | ブログ

そうこうしている間に子どもたちは夏休み。
そうこうしている間ではありましたが、10日は名古屋伏見のミリオン座で映画「あん」http://an-movie.comを、翌11日は大阪難波別院で「太平洋食堂」http://taiheiyousyokudou.comの公演を観る機会を恵まれました。
それから数日、またまたそうこうしている間に「安保関連法案」が衆議院を通過・・・。
この一大事に、居ても立っても居られない多くの人々の抗議の声があがっています。
その姿をテレビや新聞で見るだけでなく、私が住んでいる街で実際に目にするところまで展開されてきています。
さて、映画「あん」は「ハンセン病問題」に光をあてた作品。
ハンセン病を「問題」として学ぶときの背景にある、日清日露戦争前後の「富国強兵」的発想による「民族浄化政策」。
また、「太平洋食堂」は「史上最悪の冤罪事件」ともいわれる1910年の「大逆事件」をテーマにした演劇ですが、そこには日露戦争に際して非戦を唱え、また遊郭の設置について廃娼運動を展開した一人の僧侶の姿が表現されています。
日清日露の戦争後の膨張政策によってまさに韓国を「併合」した当時、経済の活性化を目的にした「兵営誘致」は軍隊と遊郭がワンセットだった。非戦を唱えることと廃娼運動はそのまま直結していた。
それを見抜いていた高木顕明という僧侶は被差別民衆の解放と非戦平和に生きた僧侶の先駆者ですが、「大逆罪」というでっち上げの思想弾圧事件によって「死刑判決」を受けた僧侶を宗派は追放し、顕明は獄中で自ら命を絶つ。
ハンセン病問題について、宗派は患者の隔離政策に対する「慰安教化」を行った。療養所に隔離される患者に「ここで静かに暮らすことは菩薩の修行に等しく尊いこと」だと、国家の政策に追従した。
これらの過ちを経て私たちは今、これらのことをただ過去のこととして学ぶのではなく、今ここにある私の問題として学ばなくてはならない。
「あん」の原作者のドリアン助川さんは「スポンサーが見つかるかどうかもわからず」と言っていますし、出演者の永瀬正敏さんはハンセン病を扱った作品で未だに政策の目処がたってない作品がある、と。ついつい近日公開された映画「HERO」と比べたりする。「正義」の人にはスポンサーがつき、「正義」のために捨てられた人には光が当たらない構造を生み出している私たち視聴者。
「徴兵」に従わないものは「死刑」だという言葉まで出てきた今この国。「国を強くする」という大義名分は、社会を疲弊させ、人を貧しくする。人を優劣で差別し、都合の悪い人間を排除する。
そうこうしてる間に国立競技場の建設が建設費高騰によって白紙になった。オリンピック招致の背景にある海外からの日本の「死刑制度」に対する目線。また招致活動における「放射能は完全にコントロールできている」という原発への目線。
本当に私たちの国は大丈夫なんだろうかという問いを抱く時、仏教徒として私たちが意識しなくてはならないのは、「人間が人間であるかどうか」という仏の目線ではないか。人間が人間でなくなった時代を経て、人間を回復したかどうか、さらに人間であることを見失わせていく過程に今私たちは生きているのではないか。
主義・主張は制限され、思想が弾圧され、逆らえば厳罰化、後方支援という戦争に命を落とすか、行かないと言って首を切られるか。
あらゆる問題に対して「賛成」と「反対」で人と人とが分断されていく。対立が激化する。ゆがんだ民主主義と多数決の名の決定事項に、賛成も反対もなく人間を見失わせる事柄には宗教的に「従わない」という選択肢。自らを非人間化することに「従わない」という立場を尊重するコミュニティの形成が求められる。それをお釈迦さまは「サンガ」といい、親鸞は「同朋」といったのではないだろうか。
念仏して首を切られるか、念仏をやめて生きるかと迫られた歴史がある。私たちの信仰目的が「同朋社会の顕現」にあることを、いうだけでなく具体的に示す時だ。

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