遊煩悩林

住職のつぶやき

愚民の立腹

2010年09月27日 | ブログ

尖閣諸島の問題があちらこちらで話題に上がります。
?多くの人はすでにしてご立腹のご様子です。
?日本政府や地検の判断に対するお怒りも聞きますが、ほとんどは「かの大国」に対して「せっかく言うことをきいてやったのに、調子に乗りやがって」という腹立たしさです。
?それに対して「腹を立たせようとしている誰かと、それをあおる誰かがいるのだからそれに乗らないようにだけはしたい」と思うのですが、そんなことでは腹がおさまらない、よくそんな流暢なことが言ってられるな!という雰囲気です。?
中国にとって尖閣沖を我がもの顔で航行したいことは当然ですから、中国の主張は当然のことなのでしょう。米国的にはやはりこの航路を日本の領土で塞いでおくことはこれまでどおり重要なわけです。
しかし今回の一件についての日本の対応がいかにも杜撰なように報道されていますが、このような批判をどこまで承知していたのかを考えてしまいます。
で、この「立腹」はどこに向かっていくのか。
外交責任と内閣不信任、解散総選挙か民主代表戦のやりなおし的なシナリオを誰が書いていてもおかしくはありません。
何も政治的なことをああだこうだと言いたいわけではありません。
ただ、一仏教徒としての目線に立ってこのシナリオが「改憲」、とくに憲法九条をターゲットにしているとしたら・・・ということを憂うのです。誰かにとっては「憲法の壁」は壊しておいた方が都合がいいのですから。?
その疑眼で見れば、この事件の政府の対応とマスコミの仕方によってすでに「愚民化」せられた私の「愚民の立腹」が向けられている方向ははっきりしてくるのではないでしょうか。?
誰が何を意図に何をあおっているのか。
?どうしてみんな揃って腹を立てなければならないのかを、冷静に考えてみたいところです。中国に冷静な対応を求める・・・の裏です。?
微妙なズレの中、国を超えたさまざまな利害が一致していることに注視し、感情は右往左往させられますが、改憲的な論議になれば「それはいかんよ」という主張だけは確かめておきたいと思います。

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なんちゅうのなん

2010年09月25日 | ブログ

真の知識にあうことは
 かたきがなかになおかたし
 流転輪廻のきわなきは
 疑情のさわりにしくぞなき

彼岸会の法話で荒山淳先生からご讃題としていただいた親鸞聖人のご和讃です。

偽でない世界に触れることは、難しいことの中でもさらに難しいことです。
偽の世界で苦しみをくり返すのは、偽物を疑うことができないからです。

ご法話をいただいて、こんなふうに了解してみました。
親鸞聖人にとって「真の知識」は法然上人のことですから、「人」ということで言い換えれば

真実を知らせてくれる人に出会うことは難中の難儀です。
迷ったり苦しんだりするのは、真実を言う人を疑い、偽を言う人を疑わないからです。

と、こんなイメージでしょうか。

「彼の岸」は「浄土」です。そのことを確かめるときとして「彼岸」という時節をいただいているとしたら、彼の岸が浄土であることを確かめるということは、「此岸」、此の岸が「穢土」であることを確かめるということになります。
つまり浄土真宗の教えを聞くことをとおして、穢土を生きていることを知るのです。
「浄土」を迷いや苦しみのない境地としていただくならば、「穢土」は、迷いと苦しみをくり返す世界です。
それが「流転輪廻」です。
荒山先生は「尺蠖循環」といわれました。「尺蠖」は尺取り虫のことです。尺取り虫が湯呑み茶碗の縁を永遠にまわり続けるさまです。
問題なのは、その「さま」に気づくことなく、「アンタ同じところを回っているよ」と教えてくれているにもかかわらずにそれを死ぬまでくり返す姿です。
自分がやっていることを疑えない私のことです。
「蚕繭自縛」ともいいます。蚕が繭によって己を縛りつけて苦しんでいるがごとき「さま」です。
このような和讃を思い出しました。

善知識にあうことも
 おしうることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなおかたし

真を求めて一所懸命になっているポーズはしていても、実はそこから眼をそらしているというのですから、遇うことも、教えることも、聞くことも、ましてや信ずることもできない私であることをくり返し巻き返し、彼の岸から教えられます。

浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実の我が身にて
 清浄の心もさらになし

教えられながら、それを自分のこととして受けとめることはまさに「難中之難無過斯(難中の難、これに過ぎたるはなし)」です。

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共業

2010年09月12日 | ブログ

広島県へ行ってきました。行き先は尾道です。
毎年2月に開催している同関協の現地研修ですが、来年は宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌法要の直今ということで、この時期の開催となりました。
同関協は御遠忌期間中の来年2011年4月6日、その讚仰事業として総会所にて「同朋教団をめざして」というテーマのシンポジウムを開催することになっており、それに連動するカタチで今回の研修が行なわれました。
研修は「大谷派糾弾会とは! -何を問い、何を願われたのか-」というテーマのもと、元部落解放同盟中央本部書記長で元衆議院議員の小森龍邦氏から「大谷派糾弾会で願われたこと」と「真宗教学と部落問題」の二つの講題についてお話をいただきました。
来年の御遠忌讚仰事業では、部落解放同盟中央執行委員長の組坂繁之氏に講演とシンポジウムのパネリストとしてご参加いただくことになっており、今回の研修では、糾弾会が行なわれた当時、大谷派教団の何が問われたのかということ、そして讚仰事業では、未だ糾弾中である大谷派教団に何が願われているのかを確かめるという点で「連動」するわけです。
それは同時に、かつての糾弾会で本願寺教団が問われたことが一体何であって、その問いをこれまでの教団の取り組みの中でどれだけ深めてきたのか、どれだけの問いに向き合い、また願いに応えてきたのかという、大谷派における解放運動の総括的な意味が込められています。

今回は、地元安芸と備後の本願寺派の僧侶らとともに学ぶ機会となりました。
本願寺派では「過去帳差別記載」を縁に「同朋三者懇話会」という糾弾学習会が20年ほど前から続けられています。
「同朋三者懇話会」は、本願寺派の安芸教区と備後教区と部落解放同盟広島県連の三者間で行なわれている真宗教学の研究の場です。特に、解放運動の中で問題となった「真俗二諦論」や「業・宿業論」を中心に学びが深められています。

講義では「業・宿業」の問題について、「共業」ということばを聞かせていただきました。
それは差別事象が「差別した人」と「差別された人」だけによって起こってくるのではなく、それが「共なる業」によって生起している、差別事象が起こってくる現代社会の構成員たる一人ひとりが差別を生み出している、つまり「みんなでそれをつくっている」ということです。「私は差別なんてしません」という水準の話ではないのです。
人間はただ弱肉強食の中にだけ生きているのではなく「人間性」を生きていて、「他人の苦しみを我が苦しみとする」という性分を如来よりたまわっています。だとすれば、みんなでつくり出している「差別」という「共業」を自覚し、私の業として「他人の苦しみを我が苦しみ」としてすべての人が背負っていかなければならないということです。
そして、宗教者への提言として「『ウソ(でたらめ)』の世の中から、いかに『真』をつかむか!」ということ、そして「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(歎異抄第13条)」とのことばを、教団の差別の歴史をふまえて確かめ続けなければならないという言葉を聞かせていただきました。
大谷派教団が糾弾によって問われたこととは、差別をする人だけでなく、それを黙認し、また無自覚でいることは同罪であり、そのことに気づいていますかという問いであり、他人の苦しみを我が苦しみとする仏の慈悲をいただく人間性に立って、デタラメの世の中で「ただ念仏のみぞまこと」の実践を果たしていくことが願いかけられてきたということを知らされました。
その問いや願いに対して、宗門はどう応えてきたのか、そしてその宗門に属する一人として私はどう応えてきたのか考えさせられます。
御遠忌に向けてその総括が一人ひとりに課せられていることです。

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曼珠沙華の支度は・・・

2010年09月07日 | ブログ

お彼岸のご案内です。
この暑さでまだまだピンときませんが、お彼岸を迎えるべく準備をしています。
ヒガンバナとまでいわれる曼珠沙華の咲く支度は、土の下ですすんでいるのでしょうか。大きなお世話ですが、ちょっと覗いてみたくもなります。

お寺の掲示板には

彼の岸はあの世ではない
私が生きる道だ

と記しました。
毎年同じようなことの繰り返しですが、毎度毎度このことを確かめないと、知らぬ間に「あの世」にしてしまう習性がこの国に生きる私にはあるようです。
ここでいう「あの世」とは、つまり「死後の世界」です。
彼岸は「死者の行き先」でなく、「私の行き先」としていただいてこそ「彼の岸」なのでしょう。

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