遊煩悩林

住職のつぶやき

自分を騙すことになる

2013年02月18日 | ブログ

先週行われた南勢一組の門徒会研修で講師の岩田信行先生が、昨年8月14日の新聞の切り抜きをもってきてくれました。

だまされる罪 思う
- 伊丹万作の伝言 向き合う人々 -

と題された記事でした。
その伝言とは、日本が敗戦した翌年、伊丹十三の父で映画監督の伊丹万作が書いた「戦争責任者の問題」という文章。原発の事故後、「安全神話」にだまされた感が蔓延するなかで、「戦争」を「原発事故」に置き換えて読むと「今」に重なると、ツイッターなどで広まったそうです。
切り抜き記事には

戦争責任者の問題
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)だまされるという事もまたひとつの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。(略)「だまされていた」と平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(2010年ちくま学芸文庫「伊丹万作エッセイ集」)

と、抜粋されています。
全文はコチラ?https://app.blog.ocn.ne.jp/t/app/weblog/post?blog_id=75105でご覧いただけますが、その中で、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」との主張に

だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

という厳しい歎きの上で、

まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

と、終戦の翌年、亡くなる1ヶ月前に戦後を生きる私たちに言い遺していかれた。
それは常に被害者ぶった私そのものの罪の無自覚性を言い当てている言葉に他なりません。
「個人の尊厳の冒涜」「人間性への裏切り」は、お念仏を忘れて生きているということでしょう。
「悪の本体」を見極める智慧である念仏を、かの封建下で民衆から奪い取ったのは寺と坊主でした。「家畜的な盲従に自己の一切をゆだね」たがるところから目覚めよ、と今、厳しく問いかけられます。
「個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実」の背景に、親鸞の人間解放の精神を死後の世界へと葬り送った盲従教団の存在をみたとき、かつて法然・親鸞らが命懸けで発信した歎異の精神を自ら奪っておきながら、その責任を国や体制に転嫁し、あげくに奪われたなどと被害者の面で退転し続ける私。 奪ってきた教団の罪と無自覚に奪われてきた罪、だました罪とだまされた罪を同時に抱えながら、いま回復するべき「個人の尊厳」とは、今、如来の本願に照らされてある個々の存在に気づくこと、つまり人間の自力を超えた他力によって個々の尊厳が照らし出されてあることをいうのではないでしょうか。
念仏申すというのは、偽ることのできない罪を誤魔化さずに自分の中に見ていくということでありましょう。その罪の意識が深ければ深いほど、救わずにはおれない光が輝きを増すのだと。
「罪悪感など感じなくていいんだよ。みんなやってることだから」というあまい囁きに溢れるなかで、自らの罪を誤魔化して生きるということ自体が、自分を騙し、自ら個人の尊厳を奪っていくことに他ならないのでしょう。だとすればだました罪とだまされた罪をともに背負いながら独尊たる自己を見出していきたいところです。
伊丹万作の遺言を、「仏法ひろまれ!」の喚び声と聞かせていただきました。

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独尊と響存への刃

2013年02月15日 | ブログ

ナムアミダブツの風が吹いている。
ナムアミダブツの問いかけが聞こえる。

原発を動かし続けるということ、それは
人間を見失い続けるということ。
強い経済・強い国の名の下に、一人の人間を見失い続けていくということ。
そして人間を使い捨て続けるということ。
お金に飼われるということ。あふれ返るたくさんの「物」に飼われるということ。
そして子供たちを、これから生まれてくる新しいいのちたちを、未来を見捨て続けるということ。
自分の人生の間だけ良ければそれでいいということ。

原発とは、未来を傷め、殺し続けていくもの。国という入れ物だけが残り、人間はいなくなる。

原発は人間を見失わせ続ける。

ナムアミダブツ、それは人間を回復させるもの。決して誰も見捨てないという大きな悲しみ。
もうこれ以上人間を使い捨てるなという深い怒り。
人間一人ひとりと尊敬をもって出遇わせるもの。
強い経済、強い国、お金よりももっと本当に大切なものに出遇わせるもの。
それは未来が開くということ。
本当に私たちが子どもたちに手渡したい未来とは一体どんな未来か?

親鸞は言う「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」
ただのひと ただのひと 誰もがもれなくただのひと いのち尊きただのひと

知らず知らずの間に私たちは忘れてしまっていた。
上等ないのち、そうでないいのちといのちを切り貼りしながら
人を人材という名の材料にしていることに何ら疑いも持たず、
原発が多くのいのちを傷ませながら電気を作っているというそのことすら、
自分に関係はないと知ろうともしなかった。
電気のため、生活のため、経済のため、仕事のためにはしょうがないと言いながら
あらゆるものを割り切り、切り捨て、見捨てさせ続けてきたもの、それが原発。
そしてそれが今までの私たち。

われらを見失った私たち
人間を見失った私たち
一人を見失った私たち
今こそわれらに帰ろう
今こそ人間に帰ろう

人と人との間に帰ろう
人間は人の間でしか満ちない。
私の隣に生きる人、私の先に生きた人、私の後に生きる人

人間はきっと自分の人生の間だけ良くても仕方ない生きもの。
本当はきっと誰かの為に生きたい生きもの。
それこそが人間の尊さ。それこそが人間の誇り。
それこそが次の子供たちに繋いでいくもの。
原発はわれらを分断していく。
今こそわれらに帰れとナムアミダブツの声がする。
今こそ人間を思い出せとナムアミダブツの泣き声がする。
ナムアミダブツの風を受けて
ナムアミダブツの涙と共に

今はっきりと腹の底から言おう
魂の底から叫ぼう
原発はほんまにあかん!

「ナムナム大集会6」

今年もわずかなタイミングで参加のチャンスを逸してしまった「ナムナム大集会」。その場をともにすることができなかったじぶんにまでその叫びが届いてきました。
その表白文に毎年こころ動かされます。
昨年(ナムナム大集会 5 表白)も動かされたはずのこころが、また今年も動かされるとすれば、1年のうちに動かされたはずの心がまた「自分の人生の間だけ良ければそれでいい」というところに戻ってきてしまっているということでしょう。

ご案内のチラシには

ナムナム大集会 6
いし かわら つぶて のごとくなるわれらなり

念仏を、やめない。
たとえ、首を刎ねると脅されても。
なぜなら、念仏することが
生きることだから。
私と世界が、共にすくわれていく
たったひとつの道だから。

流罪806年

と。
念仏することが生きること・・・という立場とそこに立った表白に問われる親鸞流罪806年。流罪を私たちは「法難」と呼んできました。
ナムナム表白の響きを聞くに及んで、「独尊」と「響存」というフレーズが浮かんできました。
「原発を動かし続ける」指向は「独りにして尊い」という精神を奪い、お互いが「独尊者」と響存し合う社会への刃といえるのではないでしょうか。
そうだとしたら、それを黙認し依存しつづけるならばそれは「同朋社会の顕現」に背いていく行為に他なりません。この法難に際して、ナムアミダブツに刃を向けているのは他ならぬ私自身でないかと問われてきます。

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TKK48

2013年02月12日 | ブログ

TKK2013に参加させてもらいました。
TKKは「他教区交流研修」という名の研修会で、宗派や組織の枠を超えたバリアフリーな自主研修会(バリアフリーというからにはバリアがあるのです・・・)
第5回を数えるというTKKは、富山・金沢・高山・三重・長浜・京都・大阪・山陽の8教区の仏青(仏教青年会)や有志によって、「仏法に学ぶ関係存在-部落差別をはじめとする時代社会の問題がなぜ真宗門徒の課題なのか-」というテーマのもと、大阪市住吉区浅香の「市民交流センターすみよし南」をメイン会場に開催されました。
開催趣旨によると

私たちはこれまで、様々な研修会・聞法会へ身を運んできました。しかしながら、何が明らかになり、そこからどんな生き方がはじまってきたのでしょうか。踏み込んでいえば、自己肯定のための手段としてしか法を聞くことが出来ず、我が身の信心を問う信仰の課題になっていない現実があるのではないでしょうか。

とあります。
個人的に、「差別」という事柄を信仰課題として受け止めるということに関心を寄せていることがあって参加させていただいたのですが、正直50名を超える参加者が集ったことが驚きでした。しかもその多くは20代から30代の若手で、宗派や教区からの助成もありませんから手弁当で参加しているのです。
それはこのTKKがもともともっているチカラはもちろんですが、若い参加者らの「差別」という問題に対する関心の高さを感じずにはおれませんでした。
2月5日は真宗大谷派解放運動推進本部委員の訓覇 浩さんから講義、翌日は部落解放同盟大阪府連合会浅香支部顧問で浅香地区まちづくり協議会会長である山本義彦さんからお話を伺い、浅香の街をフィールドワークしました。
さらに7日はオプショナルとして、リバティおおさか 大阪人権博物館を訪ねました。

あまりのボリュームと内容の濃さは表現しきれませんが、テーマからはなれないところで、訓覇さんの「糾弾への呼応」と題された講義から問われたことは、本願寺に連なる僧侶の一人として「それでもあなたたちは親鸞を宗祖とする寺の僧侶ですか」という「糾弾」に対して、何も「呼応」していないということです。
問われたけど問われたままというのでしょうか。何も応えていないじぶんということがはっきりしてきたということです。
訓覇さんの言葉を借りていえば「何が問われているかわからない系」の僧侶が自覚されてきます。
「解放というのは『ともに』ということでないとなりたたない」とも言われました。被差別者だけが解放されるということはない、差別する側と「ともに」ということがあっての解放である、と。その「解放」への動きは「私の中からは出てこない」とも。「糾弾」という問いかけとなってはじめて、無意識的差別者が自覚され、解放への動きとなっていくということです。
その「動き」についても、それはただ差別がなくなればいいというものではなく、「解放」についてもそれは単に「差別がなくなる」だけのことではない。「旧土人保護法」や「らい予防法」に加担した宗派の歴史的事実をふまえて、天皇の名のもとにアイヌの人々やハンセン病の患者らを「救済」するという名目で侵略し、隔離してきた国とそれに加担した寺と僧侶。
自らが差別しておきながら、その自覚もなく被差別者を排除し、また同化させ、差別を見えなくさせるような「差別をなくそうとしている」かのような運動こそ、「人間を勦るかの如き運動」と水平社宣言によってすでにして指摘されていたのでした。
本願寺への度重なる糾弾は、国家や天皇の名のもとに麻痺させられた解放の精神を取り戻してくださいというメッセージでもあります。
「差別が人間の何を奪うのか」ということがはっきりしてこれば「部落問題がなぜ信心の課題であるのか」ということも自ずから理解されてくるのでしょう。
訓覇さんが言われた「問いを大切にしてください。答えを出すことは問いを捨てることです」というのは、解ったようなつもりで頭の中で理解することに留まらずに、問い続けることによって、それが本当にその人の「生き方」として、「動き」につながっていくということではないかと感じました。
僧侶として一門徒として「問い続ける」という姿で「呼応」し続けたいと思います。呼応し続ける必然性を感じたときにようやく、今なお糾弾中であることを知らされます。

「リバティおおさか」は今、存続の危機に直面しています。
今ふたたび「人間を勦るかの如き運動」によって、「人権」が無視され、奪われていくかのような風潮のなか、まさに人権博物館の灯が消えようとしています。その灯を消そうとしていたのは実はこの自分であったとの自覚とともに、今さらですがリバティサポーターの仲間入りをさせていただきます。

http://www.liberty.or.jp/

私にとって多くの再会と出会いの場となったTKK初参戦。
TKKの自主性こそ未来を築っていくものだと思います。
講師の方々をはじめスタッフ、浅香の皆さま、そして参加された皆さまありがとうございました。

浅香のづくり http://blhrri.org/info/book_guide/human/human_g_0122.htm

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弱体化した知性

2013年02月04日 | ブログ

新しい人たちに

あなたたちに詫びなければならない
素足で歩ける大地
思い切り倒れ込める雪原
せせらぎに飛沫をあげて歩く浅瀬の川
木漏れ日にふり仰ぐ森
色とりどりの落ち葉のプール
大地のエネルギーを蓄えた安全な作物
それらすべてを奪ってしまったことを

あなたたちに詫びなければならない
私たち大人の無知と無自覚と愚昧の結果
薄汚れた札束と引き換えに失われた日々
きらびやかな電飾の嘘
オール電化の指一本で回す生活
セシウム四百九十ベクレルのおしゃれなランチ
美しく盛り付けられた遺伝子組み換えのディナー

あなたたちに詫びなければならない
あなたのいのちの遺伝子が傷つき
あなたの体からセシウムが検出され
あなたの甲状腺が腫れたこと

私たちにできるのは
真実を探し続けること 伝え続けること
闘い続けること あなたたちを連れて逃げること
ひとつひとつの野菜や肉や魚を選び
私たち自身の手でくらしを紡ぎなおすこと

もう一度はじめから やり直そう
海が汚れる前の 土が汚れる前の あの日
一番最初の あのときから
じんるいが 間違えたあのとき
原子力発電所が 私たち女の胎内 一番最初のいのちの源まで
まっすぐに 直進を始めた あのとき

中村 純
詩集『3・11後の 新しい人たちへ』2012年9月30日刊より

「いのちのつながりの回復をねがって」というテーマのもと東本願寺で行われた「第6回 原子力問題に関する公開研修会」では、「志賀原発2号機差し止め訴訟」で運転差し止めを命じた元裁判官で、現在「ふくしま集団疎開裁判」「若狭原発再稼働禁止仮処事件」「大飯3・4号機定期検査終了証交付処分差し止め請求訴訟」の弁護団をつとめる弁護士の井戸謙一氏から「放射能汚染の現状と避難の必要性」と題した講演、つづいて井戸氏を交えて、福島県二本松市の佐々木るりさんと詩人の中村純さんの対談を聞かせていただきました。
「新しい人たちへ」と題した詩は、当日参加者に配られた資料に掲載されていた中村純さんの詩です。原発の事故後、東京からの移住を決意して京都に住され、「内部被曝から子どもを守る会 関西疎開移住者ネットワーク」をつくって、疎開(移住)先で孤立されがちな避難者を結ぶ活動を続けておられる中村さんが、この日の研修会に発題者として参加された思いを、詩とともに「愛する者たちへ 一緒に闘いましょう」というメッセージにしてくださいました。
その中に

海の底に今もある人々の暮らし。さかさ雨のふる海の底で、そのいのちはどのようにあるのでしょう。二歳の息子を抱え、京都に一時避難して、東北の海の底を思っていたとき、東京電力は、汚染水を大量に海に投棄しました。ご遺体もあがらない海に、です。
私たちは、いつまで、このようにいのちが踏みにじられるのを、見続けなくてはならないのでしょう。これは、大量ジェノサイド(虐殺)ではないのでしょうか。明るいガス室に、国民を置き去りにして、見え透いた嘘と隠蔽を重ねる国を信じ込もうとする私たちの弱体化した知性。私たちは、夢を見たまま、静かに病んで、死んでいくべきですか?

という言葉がありました。
「私たちの弱体化した知性」という厳しい自己批判の言葉から、いつかの新聞コラムの切り抜きを思い出して、引っぱりだしてみました。

この変革の時代において、もっとも悲劇的であったのは、悪人たちの辛辣な言葉や暴力ではなく、善人たちの恐ろしいまでの沈黙と無関心であった

消極的に悪を受けいれる者は、悪を行うことを助けるものと同様に悪に巻き込まれているのだ
マーチン・ルーサー・キング

?悲惨な事件が起きると、犠牲者に同情するが、その記憶は日常生活に埋没してしまう。そして目の前で起きている現実の問題には目をつぶり、何もなかったように日々を過ごす。そんな私たちの臆病さが鋭く批判されている気がする
中日春秋

原発事故から2年が経とうとしている今、東北の海にはまだまだ被災者のご遺体が沈んでいることさえ忘れている私に対して、「弱体化した知性」を指摘してくださるその目線は、放射性廃棄物にされた放射線量の高い被災地のご遺体にも向けられ、それらの「死者たちの声を聞かなくてはなりません」と中村純さんはおっしゃられました。生き残った者の「死者への目線」ではなく、「死者からの目線」をいただくことの尊さを再確認するとともに、その目線から我が目をそらして、まさにその遺体さえも見殺しにしている自分を知らされます。

現在も1日あたり2億4000万ベクレルという放射性物質が排出され続けているという現状のなか、高線量地域を離れられない人たちの中には、「放射能、放射能って言ってると何にも喰えない」「そんなこと気にして生きていかれない」、また避難された方や移住された方に対して「逃げた」と批難する声があるといいます。
避難・移住された方の中にも、年老いた親を残してこられた方などは、自分だけ逃げてきたというような負い目を感じながらの移住生活があるといいます。留まる人も、移住した人も今なお苦しみ続けている現状を聞かせていただきました。
福島県二本松市の佐々木さんは、真行寺の准坊守のかたわらで同寺が運営する幼稚園の教諭をされる5児の母親でもあります。子どもの甲状腺検査の結果など、園児の母親らとともに、今なお自分を責め続ける毎日だといいます。
「私の中での反原発は、運動ではなく、いのちの原点を見つめるための『生き方』です」との言葉をご主人である佐々木道範さんが、昨日、金沢で行われた「東日本大震災復興チャリティトーク」イベントで紹介されていたのが印象的でした。
高線量地域で生活せざるを得ない人々と避難・移住された人々の間、また避難・移住された人々はその人々の間、高線量地域に生きる人々の間をそれぞれ分断しようとする、そのつながりを切っていこうとする行政のあり方のなかで、今回福島で子育てをつづける母親と、避難・移住された母親との対談という場が開かれたことは大変貴重な場であったと思います。
「つながりを回復しよう」という願いによって、それが分断されていたことに気づかされ、分断していくはたらきが明らかになっていくのではないでしょうか。
「わからない」ことから目を背けずに、勇気をもって発してくれる声に耳を傾け続けたいと思います。
当日の参加者の感想に「どうしてここ(真宗本廟/東本願寺)でこの場(原子力問題に関する公開研修会)が開かれているのかという説明があってほしい」というご意見が出されていました。
それを自分なりに問いながら京都をあとにしましたが、お念仏を申していくということは、弱体化した知性を回復し、切り裂かれ続けるいのちのつながりを回復しようとすることではないでしょうか。

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住蓮・安楽をたずねて

2013年02月02日 | ブログ

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哲学の道をさらに東へ入ったところに・・・。
寺号は碑の裏側に記載されていました。

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碑の表には「浄土礼賛根元地」との記載。
石畳を上っていくと・・・。

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な、なんと・・・。一般公開は春秋の決められた日に行われるようです。

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門脇の切戸から参内させていただき、合掌。

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南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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両人の辞世の詠が刻まれています。

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そして両姫に・・・南無阿弥陀仏。

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本堂の前には、両上人の800回忌を厳修したことを示す塔婆が立てられていました。
浄土宗の寺院で通称「松虫鈴虫寺」とも呼ばれているそうです。

http://anrakuji-kyoto.com/access

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