遊煩悩林

住職のつぶやき

不安に立つ

2011年07月26日 | ブログ

お盆は「盂蘭盆経」に基づく列記とした仏事でありますが、仏教は何を説いているかと「成仏」を説くわけです。

「私が成仏する道」を説いているのです。「私が成仏する」ということはどういうことかといえば、あなたも私も仏になるということです。だから亡き人を仏として敬っていく。
世間では「お精霊さん」も「餓鬼」も「霊魂」もひっくるめて「先祖」とよんでいますが、問題はそのご先祖、つまり亡き方々を「精霊」にするのか、「餓鬼」にするのか「霊魂」にするのか「仏」にするのかは、この世に残された私たちの態度と行為によって決まるわけです。
亡き人を仏として敬い、あなたも私も仏になるというのであれば、阿弥陀如来に対してナムアミダブツと申し上げる、それしかありません。

「満足」を得るか、「不安」を得るかというとだれも不安を得ようとは思わないでしょう。しかし、どれだけ一所懸命ご先祖をもてなしたつもりでも「これでいいのか?」という不安は尽きることはありません。
大事なことはその不安を取り除こうとするのではなくて、不安に立っていくことではないでしょうか。

ちなみに盂蘭盆経はどんなストーリーかというと、死んだ母ちゃんが餓鬼道に堕ちたと思って一所懸命お供え物をして助けてやろうとしていたモクレンさ んが、お釈迦さんに相談したところ「ほな、死んだ母ちゃんに供えるつもりの食物をサンガ(仏教徒)に布施してみなはれ」と言われて、それをすることによっ て餓鬼の迷いから解放されたというお話です。
どういうことかというと、死んだ母ちゃんに物を与えるのが供養だと思って、母ちゃんにばっかりお供えしていたモクレンさん自身がじつは他者に施しをしない餓鬼であって、仏を敬う他者に布施をすることによってそのケチケチ餓鬼道から救われたということです。
仏教では地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道はすべて生きている人間の姿をいうのであって、死者を餓鬼にすることはありません。
仏教の名を語って、亡き人を餓鬼などとよぶ宗教や占いがあるとすればそれは脅しです。気をつけた方がいいでしょう。

念のために記しておきますが、他宗での施餓鬼やキョウリや茄子で乗り物をつくる習慣、お膳をならべる習慣、提灯を吊る習慣を批判したいのでも、否定するものでもありません。
その行為がどういう意味を持っているのか、それをやる各々が確かめるということが必要ではないかということです。
その確かめによってほんとうの仏教に出遇っていくご縁となれば、それもまた尊い習慣なのですから。

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おもてなしのこころ

2011年07月25日 | ブログ

お盆のご案内をご門徒の皆さまに発送させていただきました。
毎年、この時期になるとお寺には「お迎え」と「お送り」、そして「おもてなし」についての問い合わせが多数寄せられます。

どうやってお迎えしたらいいんでしょうか?
どうやっておもてなしすればいいんでしょうか?
どうやってお送りすればいいんでしょうか?

さて問題は「誰を?」ということです。
「何を?」といってもいいのでしょう。
何かも、誰かもわからない物体?を迎え、もてなそうとしてもわからないのは当たり前です。
もっとも望まれる回答は「キュウリや茄子で乗り物をつくってお迎えし、お膳をならべてもてなし、提灯をぶら下げてお墓に送りに行く」といったところでしょうか。
そうやって回答すれば安心してもらえるのではないかと思うのですが、仏教の教えに回答を求めればそうはいきません。
「手を合わせてナムアミダブツと申してください」
これだけです。
「それで?」といいたくなりますが、それだけです。
「キュウリや茄子でお迎えし、お膳をならべ、提灯に灯をともして送りなさい」といわれれば「安心する」というのは、「やることがはっきりする」という意味です。責任の所在がはっきりするということでしょうか。

私はあの人が言うとおりにやった。つまりそれをやることによって「やった」というある意味の達成感と、やったから「大丈夫」という安心を得ようということです。あの人のいうとおりにやったのだから、私の責任ではないよ、という責任転嫁・・・。
「合掌して念仏しなさい」というのも、やることがはっきりしているはずなんですが、どうもそれでは「大丈夫」だと安心できないのは、やはりなにか「やった」という責任が達成されないという「不安」ということではないか、と。
要するに「言われたとおりに」「何かした」という責任と満足が満たされるかどうかという問題ではないという話です。

本題に戻りますとやはり「誰に?」という問題です。
「何かをしてあげる」というのは大事な行為ですが、その対象をはっきりさせなければなりません。
それによってお迎えする態度も、接する態度も違ってくるのは当然です。

キュウリや茄子をつくって満足するのは「お精霊さん」を迎えようとする人でしょう。
お膳をならべないと気がすまない人は「餓鬼」を迎えようとするひとでしょう。
火を焚いたり、提灯を吊らないときがすまない人は「霊魂」を迎えようとする人でしょう。

つづく?

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日本損得教教団

2011年07月23日 | ブログ

損得教という信仰団体。
主に資本主義を主体とする国に信者が多く、国教とする損得教国もある。
日本損得教教団によると国内の信者数は裕に1億人を超えるとか。

勝手な作り話ですが、自分自身に問うてみればわざわざ言うまでもなく立派な信者の一人です。
損をしたくない
得をしたい
と自覚する人はもちろんその信者のひとりですが、「いい物をより安く」という売り言葉に弱い人はその構成員といってもいいのでしょう。
売り手として「いい物をより安く」を実践しているひとは、異教徒と見なされて村八分にされていきます。
消費者としてわざわざ「品質の良くない物をより高く」買おうとする人でない限り、すでにその教義に帰依しているといってもいいでしょう。

さてさて先日、中日新聞に「寄付文化を広げよう」という社説がありました。
「寄付をすれば税金が減る優遇税制」と、寄付対象NPO法人の認定を簡素化する改正法が成立したことについての記事です。
「寄付白書2010」という存在も初耳ですが、それによると日本の故人寄付は5千455億円。アメリカは何と19兆円もあるといいます。というわけで?欧米型の税制控除を導入したというわけです。
さて気になったのは「税金をとられるより寄付しよう、と動機は高まるだろう」という文言。よくいえば「行政任せからの脱却」ですが、そこには「損して得とれ!」という合言葉が潜んでいるように聞こえます。
税金は「損」、寄付すれば「得」というイメージを植え付けられている感覚です。
日本にはまだまだ寄付をした人に対する揶揄の眼差しがありますから、逆に寄付行為の見返りがはっきりすることでやりやすくなるということも計算されているのでしょう。ですがその行為が人間の何を育てる行為であるのかということを思うと、どうかと思うのです。「見返りがあるから行動する」というカタチこそ欧米型であって、それは集金の目的化でしかなく、そこに「寄付」という行為に至る過程とか動機とか、それよって育てられる精神は完全に葬られているような気がします。
得をするから寄付をする
損をしないために寄付をする
寄付が集まればそれでいいじゃないか、という発想です。
社説によると「震災復興では行政の手が届きにくい分野が無限にある。『新しい公共』として、(寄付対象のNPO法人を)どんどん育てたい。」といういうことですが、一方で物理的な復興と同時に人間を復興していかなければならないと思う時、寄付によってNPOを育てるという意識よりも、損得を離れた目線を自分自身に育てられたいと感じるのでした。

損か得か 人間のものさし
嘘か真か 仏さまのものさし

みつお

ところで間もなく、餓鬼が布施の行によって「成仏が約束された人間」になっていく仏事の時期を迎えます。
損得でしか生きられない私に届けられたメッセージを受けとる「おぼん」の支度を整えたいと思います。

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団扇

2011年07月22日 | ブログ

集会の悪党、手に髑髏を執り、血をその掌に塗らん、共にあい殺害せん。かくのごときの悪の衆生の中に、我いま菩提樹下に出世して、初めて正覚を成れり。
教行信証 化身土巻末 親鸞

20110722_180344

画家のナカタニタケシ氏にオリジナルの団扇をいただきました。
なんとすべて手描きです。

skullグッズが大量に出まわる昨今ですが、「一つといえども同一の存在はないんだよ」という氏のメッセージがそれによる涼から伝わってきます。

さてパッと見、髑髏はわかるのですが、このおじさんは誰・・・?
で、きちんと裏書を記してくれてありました。
これで涼をとるのはあまりにも勿体ないので、額装でもしようかと・・・。
タケシさんありがとうございました。

Takeshi Nakatani Information&Taik
http://yellow.ap.teacup.com/t_emelon/863.html

伊勢のことなど
http://blog.livedoor.jp/gaki_122/archives/51841093.html

Photo

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便利は困る

2011年07月21日 | ブログ

台風6号の被害に遭われた皆さまにお見舞い申し上げます。
真宗大谷派三重教区では台風による寺院やご門徒の被害状況の確認をしています。
南勢一組内のご住職の皆さまにおかれては、お寺やご門徒の被害情報をお寄せください。現在のところ、本堂の雨樋が倒壊したという報告を組内寺院から受けています。
組内に、浸水した地域があったとの報道もありましたので、ご門徒の被害についても判明次第お知らせいただきたく思います。

19日、台風接近に伴って雨風が強まる中、迷いに迷って京都への出張を断行。
翌日は昼までの会議後、夕方から自坊での集会までに帰れればよかったのですが、果たして帰宅できるのかという不安と、県内各地からの参加者の交通網の心配もあって集会を延期させていただきました。スタッフ・参加者の皆さまには急な日程変更でご迷惑をおかけします。

そんなこんなで、一方で中止の連絡をしつつ京都に到着。束の間、別院から連絡があり、20日から予定されていた暁天講座の翌朝の開催が中止になったとのこと。組内の寺院に周知するように、というご依頼・・・。現地での勤めもほどほどに電話とメールにカカリキリでたいへん恐縮な会議でございました。

世の中が便利になって困っているのは実は人間なんです

という浅田正作という念仏者の言葉が頭をかすめました。

まさに携帯電話は便利かそうでないかというと便利には違いありませんが、結局、人間・・・私の「都合」ということになりますと、これほど人を縛りつける道具は他にないでしょう。
「便利」ということばの同義語に「困る」ということばもあるんだなと認識したのでした。

翌日、思いのほか雨風も弱まり一部区間が通行止めでしたが無事に帰ってこれました。
道中・・・今度は「組内の被害状況を取りまとめてご報告ください」との業務命令?
お坊さんっていうのは、こうやって日暮らしをしておるのであります。
愚痴のように聞こえるかもしれませんが、お坊さんの日常についてのお話です。

ちなみに我が家では、家庭菜園のミニトマトの破裂、にょきにょき伸びた数十本の萩がなぎ倒された程度の被害でありました。

浅田正作さんの「世の中が~」の言葉は、個々の人間の都合なんてスケール小さなことではなく、「便利」だと思い込まされているその方向性が、さらに人知を信じる方向に向かっていて、人間が信心の智慧から離れていっている、そんな憂いが表現されているのでしょう。念のため・・・

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