遊煩悩林

住職のつぶやき

迷うこころ

2007年02月25日 | ブログ

1歳半になる息子が、夕べから40℃以上の熱を出して朝までうなされていました。代わってやることもできずに(さらさらそんな気もないのですが・・・)ウロウロすることしかできません。熱に気づいたのは土曜日の夜10時過ぎ、いつもならおとなしく眠っている時間なのですがが、なかなか寝つかずにグズグズ言い続けてくれたのでやっと気がつきました。しかし夜間診療は終わっているし、明日は休日だし・・・。救急病院に担ぎ込むか、救急車を呼ぶかとまで考え、とにかく以前の発熱時にもらった解熱の座薬はあるので使ってみようか、それとも今それを使うべきかどうか・・・。などといろいろ考えるのですが、結局何をすべきなのかわからない。日ごろから健康であるのが当たり前と考えているせいで、いざというときに「これ」というものを何も持ちあわせていない。こういうときはこうするべきだという確かな依りどころを持っていないことに気付かされました。結局、妻と相談して朝まで様子を見ようということになり、朝から休日診療所に連れて行きました。1人では何とも決断できないことが2人になるとできることもある、と妻に感謝の念を抱きました。ただそれも事態が違えばただの責任転嫁にしかならないのかもしれないですが・・・。

そんな日曜日、こんなお電話をいただきました。
「仏壇と神棚の配置はどうしたらいいのか?」という内容でした。
家を新築して仏壇を運び込んだのだが、間取りの関係で仏壇の上に神棚がきてしまうのだといいます。話を聞けば、当初1階にご安置するはずだったそうですが、ちょうどその真上に部屋があるから置いてはいけない、と誰かにいわれたそうです。では2階へ、というわけで苦労して2階へ移した。するとまたある人に今度は「向きが悪い」といわれて向きを変えた。その向きのまま壁際に据置くと、ちょうど神棚の下になってしまうという。もしかすると神棚も似たような経緯を経て、そこに祀られるに至ったのではないだろうかと勝手に想像しながら・・・「これでいいでしょうか?」と聞かれたので、「良くないと思ったからお寺に電話をくれたのでしょ?」と言うと、「実は、最近身内が入院しまして・・・このせいではないかと人にいわれて・・・」と話が続きました。
ドドのつまりに「じゃ1回お寺に聞いてみよう」ということになったというのです。とても寂しい気がしたので、言わなくてもいい余計なことを申しました。「なんでもっと早くに相談してくれなかったの」と。そんなことを言ってみたところで仕方がありません。そこには新築された屋敷があり、代々のお仏壇と、買い求めた神棚がすでにあり、最近身内が入院したという事実と、仏壇や神棚のことを「ああだこうだ」というお友達がいらっしゃるという現実があるだけです。お身内の入院と仏壇・神棚の配置には何の因果関係もありませんから「ご心配なく」とお伝えし、あまり周りの声に耳を貸し過ぎないようにして下さいと申しました。そして「私の立場から申せば」と前置きした上で「真宗の仏法を聞いて歩まれるならば神棚は必要ないですよ」と。ですから「仏壇」と「神棚」をどう配置すればいいか?についての答えは持っていません、と。「商売をしているので・・・」というのが神棚を祀る理由だそうですが、本人とその家族が一体何を大事にして生きているのかが問われているのです。あれも大事これも大事というのではなく、何よりもこのことが尊いという何かがなければ「私」や「家族」の主体性は他人の意見によって左右され奪われていくしかありません。何が大事なのかがはっきりすれば、自ずから神棚の必要や仏壇の置き場所に迷うこともなくなるのでしょう。
子どもの発熱にあってどうしたらいいかとウロウロ迷うしかない自分の姿に、仏壇の配置をどうしたらいいものかとああしたりこうしたり定らないお姿を照らしてみれば、互いに何ら変わらない心のあり様が見受けられてきました。
いまここに現象している子どもの病気、あるいはいまここに存在する神棚によって、「何を為すべきか」「どうすれば心落ち着くのか」という問いをいただき、「何が心の依りどころ」で「何を大切にしているのか」を見つめる縁となってくれていたのでした。修行の場は生活の中にあるといわれます。浄土真宗が在家仏教といわれるのもそのためです。

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他者批判による自己批判

2007年02月22日 | ブログ

国内で06年に生まれた子どもの数は、外国人も含め112万2278人と前年より3万2041人多く、1人の女性が一生に産む子どもの数を示す合計特殊 出生率は、過去最低だった05年の1.26から06年は1.3台に回復する見通しとなった。厚生労働省が発表した人口動態統計で明らかに なった。
厚労省が挙げる要因は雇用の回復。05年6月以降、男性の雇用者数は一貫して増え、正社員数も06年1月から増えている。20代の女性の結婚する割合も増えており、「若い世代の生活が安定しつつあることが、結婚や出産の増加に影響を与えている」としている。http://www.asahi.com/

出生率の増加の原因は雇用回復による生活の安定だという。つまり経済力の増加が出生率の増加というのです。経済力や出生率を算出していく作業は社会の制度を整備していくには必要なのかもしれません。しかし産まれた子どもや産む女性を数値化して、その値ばかり追いかけていると、産み、産まれたひとつひとつのいのちの尊さが、だんだん失われてはいかないだろうか。個々のいのちの重さを感じる機能が鈍っていくのではないかと心配になります。私たちはどうして子を産み、育てるのでしょうか。私たちは何故、何のために生きているのでしょうか。

さて、真宗大谷派は内閣総理大臣と厚生労働大臣に対して、同派解放運動推進本部長名にて、ある要望書を提出しました。それは男女平等参画社会の実現に向けた要望書です。

男女平等参画社会の実現に向けた要望書
http://www.tomo-net.or.jp

これは厚生労働大臣が、女性を子どもを産む「機械」や「装置」に例え、また若い人たちが「結婚し、子どもを2人以上持ちたいという健全な状況にある」と発言されたことに対する真宗大谷派の意見です。
少子化問題の原因は、女性が子どもを産まなくなったからではなく、安心して子どもを産み育てられない社会に原因があるとして、出産や育児を男女ともに担うことにおいて親と子が共に育っていく環境を整えるべきであり、男女とも安心して子どもを育てられる環境を整えて「男女共同参画」をもっとも身近な家庭から始める必要が求められているとの認識に立って、男女が共に豊かに生きられる社会の実現を願う 内容のものです。

先日開催の真宗入門講座における尾畑文正師の「自己批判のない他者批判はない」という立場からすれば、このたびの要望書は、ただ単に他者への要望でなく、いま自分たちが直面する問題の自覚と、行っていかねばならない取り組みを表明したものだと受けとめたいと思います。
要望書には「今回の発言が内包する問題の重大性を真摯にうけとめていただき」とありますが、このことは私たち一人ひとりの生き方を考える上においても、男女や既婚者・未婚者、子どもの有無に関わらず、今を生きる一人ひとりが真摯にうけとめねばならないのでしょう。それは総理大臣や一大臣だけの問題でもなく、法律や制度だけの問題でもなく、私たち一人ひとりの意識が問われているのでしょう。

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真宗入門講座 第1回 その2

2007年02月20日 | ブログ

第1回目の真宗入門連続講座。「真宗門徒の生き方を学ぶ -現代を生きる私たちはいかに生きるものなのか- 」というテーマの尾畑文正同朋大学教授の講義のなかで、昨今マスメディアを中心に精神世界を席巻している人物とその影響につ いての問題提起がありました。
この「精神世界を席巻している」とは、尾畑先生の表現ですが、ここにはテレビのゴールデンタイムを飾る3人の名が挙げられていました。
問題提起は、「霊」や「前世」の存在を前 提とするこれらの「スピリチュアルカウンセラー」なる出演者らのことばによって少なからずお茶の間に及ぼされている影響とこれらのことばにいちいち振り回されかねない私たちのあり方についての指摘です。
これら出演者は自 分のことを「宗教者」とは言っていませんが、宗教が扱う分野・ジャンルに確実に影響しています。私たちは、これという真実の「依りどころ」を持っていないと、これら に振り回され、流行とか、みんながやっていることに飲み込まれていくしかありません。
講義の中で先生は、人間の主体性を奪うものの象徴として「霊」を説明されま した。ありのままの自分を生きられない、自分を生きようとする主体性を奪っていくものが「霊」であると。占いや呪いによって私が方向付けられていくのであれば、私の主体性が完全に「霊」の名のもとに消し去られてしまっており、それらを依りどころとするところに自分自身なんてあり得ないということになります。
私たち真宗の仏教をいただくものにとっての依りどころは「霊魂不説」です。お釈迦さまは決して「霊」なるものについて語られなかったというスタンスです。仏教は占いや呪い、霊魂なるものを否定するのではなく、依りどころとはしないのです。

また尾 畑先生は「女性は子どもを産む機械」と発言した大臣のことばの背景には、女性差別というだけでなく人間そのものを「労働」や「経済活動」の機械やモノとしてしか見ていない人間観があるのではないかと指摘され、また真宗大谷派の世襲制度は、女性を「寺の跡継ぎを産む道具」として扱う問題を生み出したのではないかということにふれて、「自己批判のない他者批判はない」といわれました。
大臣の発言を批判する前に、まず自己とその足下から問うてみよ、ということです。他者(存 在)を批判・否定しようとしている自分は何者なのかということからはじまる自己批判、他者の問題を自分そのものの問題として問うてく姿勢を知らされます。このことから、「霊」を語る人を批判するでもなく、また「霊」を否定するのでもなく、それを 批判し否定しようとする自分自身は何を根拠にしているのかということを正しく見つめていく「眼」として、仏の教えをいただくのだということだと聞かせてい ただきました。

特伝ではこの後、「座談会」の時間がもたれました。
座談会は3班に別れて、それぞれ講義について「こう聞いた」「ああ聞いた」と話 し合いをして学びを深める場です。今回は第1回目ということ、また時間が限られていたこともあって自己紹介と、特伝に参加した感想などに終始して、なかな か話し合いが深まるというところまではいかなかったのですが、皆さんのご意見を伺っていると「仏教が、それまでイメージしていたものとは違う」という感覚 をお持ちになったのではないかということを感じます。同時に「仏教とは?」「真宗とは?」「門徒の生き方とは?」などの問いや、わかったようなつもりでいたけ ども、わかっていない「私」という問題について、悶々とした想いを抱きながらの研修となることと思いますが、講座を重ねてともに仏教をとおして自己を学んでまいりたいと思います。
次回も常照寺に て3月25日にお待ちしております。

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真宗入門講座 第1回 その1

2007年02月19日 | ブログ

「真宗入門連続講座」の第1回目の研修が常照寺で開催されました。
本講座は真宗大谷派三重教区の最重点教化施策である「壮年特別伝道(以下「特伝」)に充当する講座で、50歳以下のご門徒を対象に各組で4年に1回開催されます。特伝は今次で第8次を数えるので実に30数年にわたって行われてきました。
また、特伝は本山の定める「推進員認定研修」に充当することから、この連続講座の受講者は、真宗同朋会運動の「推進員」として認定されることになっています。
今講座に向けて、すでに推進員となられた南勢一組のご門徒と寺族を中心に、昨年から講師の尾畑文正同朋大学教授を迎えて5回のスタッフ学習を重ね、また同時に各寺にて参加の募集が行われてきました。
第1回目である今回は、南勢一組内各寺院の参加者、スタッフを含め約50人が集う賑やかな研修となりました。午後2時から6時までの研修がとてつもなく長い時間に感じた参加者もおられるかもしれませんが、4年前の第7次特伝は午前10時から午後4時までの6時間の研修であったことからすれば、もう少し時間的に余裕があった方が学び易いこともあるかもしれません。いずれにしても、この講座は50歳までのご門徒を対象にする入門講座でありますから、お寺に通い慣れた方であればとにかく、これまでお寺に足を運んだことがないという方に積極的に呼びかけたので、1回の研修時間はできるだけ短い方が参加しやすいのではないかということで、午後からの研修となりました。そのかわり回数が増えたのですが・・・。しかし今の時代にあって50歳以下の世代で寺に通い慣れているという人はほとんどいないといってもいいでしょう。だからこそ、この世代のご門徒があえて対象となっているのです。とにかく、50歳という年齢制限を若干?オーバーされた方も何名かおられますが、ともに全8回の講座をとおして真宗の教えを学んでまいりたいと思います。

さて、講座は勤行・挨拶等の開会式後、真宗入門という時間が設けられ、真宗の基本となる作法と、教えを学んでいくにあたっての基礎的な知識を学習しました。
今回は基本的な作法として「念珠の持ち方」「合掌の仕方」、真宗の基礎知識として、「お寺」や「門徒」について、また私たちの「宗旨」「宗派名」「本山の名称と所在地」「本尊」「所依の経典」「宗祖」などの固有名詞を確認し、続いて尾畑先生から講義をいただきました。
特伝は、従来「観無量寿経(以下「観経」)」という経典の序分を学習するための「現代の聖典」というテキストによって行われるのですが、はじめてお寺に来られたような方に、いきなり観経を読むというのでは無理があるとの過去の反省をふまえて、まず「真宗門徒の生き方を学ぶ」というテーマで「現代を生きる私たちはいかに生きるものなのか」について講義をいただきました。
できるだけ専門用語を使わずに身近なテーマをあげてのお話でしたが、真宗を学んでいくスタンスとして部落差別やハンセン病、女性差別などの諸問題や天皇制についてなど、真宗教団が直面してきた諸問題を含めた内容の講義でありました。

つづく

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四苦八苦

2007年02月15日 | ブログ

ローマ時代、皇帝の迫害を受けてヴァレンティヌスが処刑された日が2月14日。日本ではなぜかチョコレートがやりとりされるこの日、首相官邸で開かれた男女共同参画会議で「配偶者や恋人からの暴力防止と被害者保護を定めたドメスティックバイオレンス(DV)防止法について、裁判所が加害者に禁止できる行為として「電話、FAX、手紙、Eメールによる接触」を新たに盛り込むことが了承されたという記事を朝刊で読みました。
domesticは「家庭の」とか「家庭的な」という意味だそうですが、もはや会うこともできない、また電話やメールもできない「配偶者」や「恋人」ならば、実質的に夫婦でもなければ、恋人どころか「他人」ですらありません。ですが、一方は会いたい、一方は会いたくない、そういう関係です。何か不思議そうな関係ですが、考えてみれば私たちの日常にもよくあることです。
DV法の先進国アメリカに夫婦で旅行した日本人がDVの容疑で逮捕拘留されるケースが増えているといいます。アメリカでは当事者の訴えなしでも、夫婦喧嘩を目撃または聞いた第3者の通報によって夫や妻が逮捕されるのだそうです。
DV法など、社会における法整備は、共同体にとって必要不可欠なものですが、私たちは人として生まれ、生きる上で前提となる「法」を学ぶ必要がもっとあるのではないでしょうか。

さて今日は涅槃会です。お釈迦さまが入滅されたとされる日です。お釈迦さまが説かれた法が、のちに「経典」にまとめられて私たちのところにまで伝えられています。
よく「四苦八苦」といいます。「四苦」は「生」「老」「病」「死」。この4つに「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとっく)」「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」を加えて「八苦」。
愛別離苦は、いくら愛し合うものでも別れなければならない苦しみ。
怨憎会苦は、怨み憎しみ合うものとも生活しなければならない苦しみ。
求不得苦は、求めても、求めても得ることができない苦しみ。
五蘊盛苦は、人間が生存すること自身の苦しみです。
「五蘊」は、存在を構成する物質的・精神的5つの要素のことで色・受・想・行・識の総称です。「色」は物質的存在、「受」は事物を感受する心の働き、「想」は事物を思い描く心の働き、「行」は心の意志的働き、「識」は識別・判断する心の働きのことで、五蘊盛苦は、これらのはたらきが盛んであることによります。
これらの苦は、私たちが生きるときに必然的な姿であることをお釈迦さまは説かれ「人生は苦である」と受けとめるのです。
暴力は許されるべきではありませんが、生きている限り互いに傷つけ合う存在が私たちの姿です。この自覚に立つことすら難しい私ですが、だからこそ如来によって、浄土を願う生活が求められているのでしょう。

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