遊煩悩林

住職のつぶやき

真宗大谷派三重教区南勢1組2部

2006年09月30日 | ブログ

真宗大谷派は行政的に全国を30のブロックに分けて組織されています。このブロックを「教区」といいます。常照寺が所属するブロックは「三重教区」といい、都道府県でいう「三重県」全域を三重教区といいます。
三重教区には212ヶ寺の大谷派の寺院があり、さらに11のブロックに分かれています。このブロックを「組」と書いて「そ」と読みます。「組織」の「そ」というわけです。常照寺は「南勢1組(なんせいいっそ)」という組に属しています。南勢1組は22ヶ寺で組織されています。
南勢1組はさらに「1部」「2部」というカタチで地理的に分れています。
真宗大谷派の寺院はそれぞれが独立した宗教法人でありますが、同時に真宗大谷派という宗教法人に包括されています。常照寺の場合、常照寺という寺院の法人格とさらに真宗大谷派の法人格を併せ持っているといえます。ですから常照寺の事業と真宗大谷派の事業、三重教区の事業、南勢1組の事業とそれぞれにあるわけです。
さて昨晩、南勢1組2部の部会が開かれました。この2部には10ヶ寺が所属していますが、これまでは住職が不在の寺院や、南勢1組が地理的にあまりにも広範囲であるために参加し得なかった寺院があったので、なかなか10ヶ寺が出揃うということが難しい状況でありました。そのような状況の中で、1ヶ寺のご住職はご都合つかず欠席でありましたが、他の寺院におかれては副住職や代務者が住職に代わって出席することで各寺の代表者がすべて揃っての部会となりました。
部会では、前年度の「部」の決算と今年度の「組」の事業計画について意見がかわされた他、10月から来年2月にかけて各寺院でお勤まりになる報恩講の日程が調整されました。
報恩講は大谷派のすべての寺院の根本となる最も大切な行事であります。各寺院でお勤まりになる報恩講に部内のご住職方が互いに参勤しあうため、できるだけ日程が重ならないように調整されます。現在、大谷派内で組織されている「部」という単位が生まれる以前から、この報恩講のつながりによって教団の末端が組織されてきたのでしょう。
みな真宗の寺院といえども、それぞれの地域の習慣や伝統によってそこで行われている仏事の内容はそれぞれに異なります。その中でそれぞれの住職には異なった悩みや問題を抱えておられます。
かつてから、この「講」という集いの中で、各寺の住職らが互いの問題や悩みを話し合い、ともに真宗の名のもとにどうしていけばいいのかということを模索しながら歩まれたのでしょう。
いま、それぞれが預かるご門徒との関係の中で、部に所属するそれぞれの想いなどを伺いながら問題や悩みを共有しあうところから「真宗大谷派南勢1組2部」として歩む方向を見出し、その道を築いていく中で、部の声を組や教区、そして宗門に反映していきたいと思います。

コメント

真宗公開講座

2006年09月28日 | ブログ

毎年6月に桑名別院主催で行われる「真宗公開講座」の実行委員会が津市のリージョンプラザにて開かれました。
委員会では今年6月に開催された第25回講座の決算と、来年度の第26回の日程と会場が確認され、講師の選定等について協議がされました。
公開講座は三重教区の中勢一・二組、南勢一・二組と伊賀組の寺院から実行委員が選ばれて、企画し開催しています。
この講座の主催はあくまでも「桑名別院」ですが、毎年上記の組が持ち回り、担当組の組長が実行委員長となって、組内の住職や門徒会のメンバーにお手伝いをいただきながら毎年、中南勢地区の会場で開催されてきました。
発行される聴講券は毎回500枚ですから大きな会場が必要となりますし、中南勢と伊賀組を含めて大変大規模な講座であります。
これまでは松阪市内もしくは津市内の500名規模のホールで開催されてきた公開講座ですが、次回の第26回ははじめて伊賀地方に場所を移して開催されることが決定されました。
どうして桑名別院主催の公開講座が中南勢や伊賀地方で開催されるのかという疑問をもたれる方もいらっしゃることでしょう。
毎年、桑名別院では、夏至の頃の早朝に本堂を会場に「暁天講座」という講座が開かれています。早朝という条件もあり、この講座に参加されるのは主に北勢地区のご門徒に限られているといってもいいでしょう。またその実行も北勢の寺院が中心となります。
真宗公開講座は、この「暁天講座」には時間的にも地理的にも参加することが難しい中南勢と伊賀地方の住職らが中心となって、桑名別院に遠く離れた地域にも真宗の仏法を届けて欲しいとのご門徒らの願いによってスタートした講座であります。
つまり、聞法の意欲のある方がお寺に出向くのではなく、仏法の方から出向いてきて下さっている法座ということができるかもしれません。
しかし今、25年間もの間受け継がれてきたこの講座の根底に流れる願いが見失われてきていることを感じます。仏法から出向いてきて下さっているなんていう思い、つまり仏の方から呼びかけて下さっているという願いを感じることが難しくなってきているともいえましょう。
そんななか来年、第26回の真宗公開講座が伊賀という場所ではじめて開催されるということによって、この講座に携わるものがこの講座を生み出していかれた先輩方の願いをあらためて確認していくご縁にしたいと思います。
常照寺から伊賀市までは、伊勢から桑名別院に出向くよりも遠い距離でもあります。ですが、これまでも伊賀地方から南勢地区にまでこの講座に足を運んで下さった方がおありになることを踏まえて、今度はこちらからご門徒とともに出向き、そして真宗が決して盛んであるとはいえない地域にできるだけの協力をしたいと思います。
今日までに決定している事項は次のとおりです。

第26回 真宗公開講座
日時 2007年6月16日(土)
会場 伊賀市 青山ホール

南勢1組ではバスを手配します。
来年中旬のことではありますが、是非ご予定いただきたいと思います。
その他、詳細につきましては決まり次第お伝えします。

コメント

南勢一組門徒会研修

2006年09月27日 | ブログ

松阪の無碍光寺を会場に南勢一組の門徒会研修が開催されました。
新たに各寺院から選出された会員さんにおかれては、はじめての研修となります。三重教区の「寺族・門徒研修小委員会」というところで事業計画がたてられ、教区内の各組で実施されます。
第1回目は「宗門機構・財政・帰敬式」について、教区の事務を取り扱う三重教務所に駐在する教導さんと、主に財務を扱う主計さんのお二人から説明がありました。
かつての門徒会研修は初っぱなから法話を聴聞するスタイルでありましたが、「真宗の教え」に学んでいく前に、

・宗門機構の中で門徒会はどのような役割を担っているのか
・宗門・教区・組の予決算等の財政について
・任期中の上山奉仕と帰敬式について

といった基本的なことについて知っていただく必要から、このようなカリキュラムが組まれました。
今回の研修会では限られた時間でありましたが、「真宗本廟について」「真宗大谷派について」「本尊・宗祖・経典・七高僧について」「真宗大谷派の最高規則である『宗憲』について」「門首について」「相続講と院号法名、須弥壇収骨について」「真宗同朋会運動について」「教区と組、教務所と別院について」のほか、「帰敬式について」など内容盛りだくさんでありました。
その中で感じたことは、以前のスタイルでいきなり仏教や真宗の教えを聞いていただくよりも、質疑が多く得られたことは、それだけ参加者が関心の持てる内容であるということです。
まず自分が立っているところを知っていないと地図を見ても意味がないのと同じように、まず自分たちがどんな組織に属しているのか、その基本的なところから確認していく作業が必要であることを感じました。
ただ、門徒会に新たに選出された会員さんには必要な時間なのですが、再任された会員さんにおかれては同じ話の繰り返しに聞こえてしまうかもしれません。ですが、宗門の組織機構や帰敬式の意義など、何度問い返してもいいテーマだと思います。
「もうわかった」というところから堕落があると教えられます。教えを聞き「実はわかってなかった」ことに気づかされていく、「わかったつもり」にしているこころこそ問い返していきたいと感じました。

ところで、常照寺のホームページに「真宗の教え」のコーナーを設けておりましたが、リニューアルしました。
内容は、「お内仏のお給仕」についてはそのまま更新しましたが、「真宗門徒の基礎知識」と「帰敬式」についてのページを新たに設けて「真宗入門」のコーナーにしました。
是非一度といわず、二度、三度とご覧いただき「わかったこと」にしている事柄について確認をいただければ有り難いことです。

真宗入門はこちらから 真宗入門

コメント

真宗の修行は一生の聞法である

2006年09月26日 | ブログ

彼岸会に荒山淳先生からいただいたお話の中から、昨日記したキーワードをおおまかに辿っていきたいと思います。

「それ」「ふつ」「最後生・最後生」は、昨日記した御文さまに表現されている文言についての先生のご了解についてです。
「御文」はお手紙だから「あなかしこ」で終わる のだけれども、その冒頭に「それ」ではじまるとはどういう意味があるのかと。それはこれから大事なことを伝えようとする上人のかけ声である、と。

「ふつ」とは聞き慣れないことばだけど「ふっ」とは読まないということ。声明作法においても「ふ」「つ」をはっきり発音すること。「ふつとたすかる」とは「絶対にたすかる」ということである、と。

「今度の後生」というと、ついつい「死後」のことと読んでしまいがち。しかし死後なんてものは死んでみないとわからんのだから、このことばの意とするとこ ろは「最後生」である、と。いつ終わるかもわからない命を生きている私。明日があるかどうかわからん道理に立てば、生きている「いま」とい う一瞬こそが「最後生」だと、最後の「生」を生きているのだ、と。
明日があるかわからんけども、私にまで命が流れてくるには100億年の因果があったこと は確かなことなのだから、私たちの年齢は「100億年と○○歳」と表現できる、と。はかりない「いのち」のいただき方です。

そして「四無記」。8万4千ともいわれる教えを説かれたお釈迦さまが生涯語られなかったという4つの事柄を「四無記」として示され、そのひとつとして、いわゆる「死後」の世界観についてお釈迦さまはふれたことはない、ということを教えていただいた。

「リスカ」とは、先生が指導される学校の生徒のあだ名。「リストカット」を縮めて「リスカ」と呼ばれているその子は、自分で自分の腕を切り、流れる血を見 て「生」を実感するという告白をある作文でしたのだそうです。先生が担当する「宗教の時間」に観た「出産」のビデオに、「いのち」の尊さに気づかされてい のちを傷つけることをやめたという少女のエピソードを聞かせていただきました。
彼岸会後の懇親の場で、その話題になりました。多くの年配の方々には「リストカット」という行為自体が信 じ難い行為なようです。かつて「家庭内暴力」や「校内暴力」が社会問題であったころからか「ひとに迷惑をかけなければ、何をやってもいい」的な教育やしつ け、あるいはそのような意識が結果として彼女のような自虐的な行為に向かわせたのではないか。そしてその前提に「自分の人生」とか「自分の体」という、い わゆる「いのちの私有化」的な考え方があるんでないかという意見などがありました。つまり「自分で自分の体を傷つけるのだから誰にも迷惑かけてない」とい う発想であります。それでも「ひとに迷惑さえかけなければ・・・」という意識を「是」とする雰囲気は未だに圧倒的なようです。そんな中、古い聞法者の方がこう言い残され て席を立っていかれました。「ワシは迷惑かけんと生きられん」と。
「迷惑かけずには生きられない私」という言葉は、開き直り的な放漫さではなく、「生」に対するこころからの謙虚な姿勢が響いてきます。

「共命之鳥」は「ぐみょうしちょう」と読みます。阿弥陀経に出てくる胴体はひとつで頭が二つある鳥のこと。私たちも目に見えて繋がっているわけではないけれど「ともなるいのち」を生きているんだということに気づかせていただくヒントをいただきました。

「弥陀の本願」ということばについては、後に疑問が出ていました。「それは何なのか?」と。彼岸のお中日にお寺にお参りをされてご本尊に向き合い、仏法を聞かせていただいたご縁。このご縁を結んで下さるすべてのはたらきが弥陀の本願なのだと受け取らせていただきました。

彼岸に聴聞された多くの方が、先生のお話をそれぞれの人生に照らし合わせておられました。おかげさまで尊い秋の彼岸となりました。
ただ、こうしてキーワードをたよりに、記憶を辿っていくと一つひとつのキーワードがぶつ切りになってしまいました。先生のお話しには一貫したテーマがあったように思います。それは「八万の法蔵」の精神をお手紙にしてお伝え下さった上人と同じテーマであるのでしょう。
「真宗の修行は一生の聞法である」といいます。何度聞かせていただいてもすぐに忘れる私であるからです。荒山先生におかれては来年もお待ちしております。よろしくお願いします。

コメント

くそのふた

2006年09月25日 | ブログ

それ八万の法蔵をしるというとも後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。このゆえに、いかなる女人なりというとも、もろもろの雑行をすてて、一念に、弥陀如来今度の後生たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

彼岸会と書いて「ひがんえ」と読みます。文字どおり「彼岸に会う」仏事であります。彼岸の中日、秋の彼岸会を大勢のご門徒の方々とともにお勤めさせていただきました。用意した「お引き」のお餅が足りなくなるほどたくさんのご参詣をこころより御礼申し上げます。
午後2時からの彼岸会は勤行の後、今年も名古屋教区の荒山淳先生にお越しいただいて法話をいただきました。
先生におかれては、朝からご門徒のご葬儀を勤められ、名古屋市内のお寺で午前にお勤まりになった永代経の法話をされて後、はるばる伊勢までお越しいただきました。淳先生には、ご多忙のところをお越しくださり改めて御礼を申し上げます。日ごろは豊田大谷高校で教鞭をとられるほか、真宗大谷派の名古屋教区教化センターの主幹業務に携わられ、さらに本山の同朋会館の教導職を勤められる。舞楽を舞われ、雅楽などの指導もされる。一体いつ寝ていらっしゃるのだろうかと思うほどのパワフルな先生であります。実際に伺うと平均睡眠時間は3・4時間ほどだとか。くれぐれもお体を大事にしていただき、末永く常照寺とのご縁をいただきたいと思います。

さて彼岸会では、500年も前に本願寺第8代の蓮如上人がご門徒宛に記された「御文さま」の五帖目第二通、通称「八万の法蔵」を法題として、ご自身の経験と豊富な話題を盛りだくさんに、大変わかりやすいお話をいただいきました。しかしまだお中日から3日ほどしかたっていませんが、大切なお話の内容が記憶から遠ざかりつつあります・・・。せめて彼岸が明けるまでに何かしら記憶にとどめて、大切なお話を垂れ流しにせずに、感じたことを念仏の生活に生かしたいと思います。
そこでお話の中でいくつか記憶に残っているキーワードをあげてみました。

「糞の蓋」「それ!」「ふつ」「再後世・最後生」「100億年と○○歳」「四無記」「リスカ」「共命之鳥」「弥陀の本願」・・・。

たとえば「糞の蓋」は「くそのふた」と読みます。「糞の蓋にもならない」と名古屋ではよく?使い、無意味な事柄を言い表すことばだそうです。しかし、このことばのインパクトが強すぎて、いったい何が「糞の蓋にもならない」とおっしゃっておられたのかを忘れてしまいました。まさしくこの言葉の意味だけを記憶していても「糞の蓋にもならん」といったところでしょうか?

ですが、せめてこのキーワードだけでも記して、このキーワードをたよりに記憶を辿ってみたいと思います。

お彼岸会の画像を常照寺のホームページに掲載していますので、ご覧ください。Jyosyoji - events -

コメント