遊煩悩林

住職のつぶやき

2016年07月31日 | ブログ

親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候わず

歎異抄

お盆はいかにも追善供養の色合いが濃い。しかし親鸞は、故人の供養を目的にした念仏はないと言い遺した。

現代社会において、故人の供養が目的でなければいったい何をどう拝めばいいのか。

それがどうもわからない。

その手がかりになれば。

東本願寺出版から発行されている『なぜ?からはじまる歎異抄』。

http://books.higashihonganji.or.jp/defaultShop/disp/CSfLastGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=18044

「父母の孝養」について記された第5条は同書を手元に置いて読んでほしいところですが、歎異抄第13条について書かれた記述に大事なヒントがあるように感じました。

人間のもっている毒で一番深い毒は悪ではなく、むしろ「善」

という表現です。

故人の冥福、慰霊、鎮魂・・・冥土の幸福をお祈りすることは善いことだと。死者の霊魂を慰めるのは生者の行いとして当然だと。先祖の魂を鎮めることに悪いことをしているつもりなど到底ありません。

我々は死者に対する供養を「善行」、つまり善いことだと思って疑わない。

私たちは故人を縁に念仏をいただいた。

念仏とは何なのか。冥福や慰霊・鎮魂とどう違うのか。

さきの親鸞の「父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候わず」は、まさに私たちが「悪いことではないはずだ」と思っていることを問い返してくる。

死者との関係だけの話ではない。

私たちが生きていく上で、それは善いことだと思って疑わない意識、善いことだとまでは思わなくても「悪いことではないはず」という感覚が誘導されて形成されている社会。

その住人は、悪いのはじぶんではなく、常に他者。

俺は悪くない、悪いのはあいつだ、という人で溢れかえる社会だ。

じぶんのなかに「毒」など見つけられない私に、亡き方々が「どうか?」と問うてくる。

それがお盆ではないか。

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Metanoetek

2016年07月12日 | ブログ

この国はどうなっていくのか。その舵とり役を選んだ私たちはどこに行こうとしているのか。

何年もせぬ将来に、こんなはずじゃなかったということばは言いたくないし聞きたくない。

ほら言わんこっちゃない!とも。

選挙が終わって、行き先を告げぬ船に乗ったような感覚が率直な感想です。

ミステリーツアーは帰ってくる場所があるからミステリーなのですが。

周囲では、選挙結果に「あれ?」というリアクションも聞こえてきます。

先のイギリスの国民投票も、結果を見てから「もう一回」という声があがったそうですが、今回の選挙の結果を見て、もう一回投票し直したいという人もいらっしゃる。

 

選挙に夢中になっている頃、永六輔さんが亡くなっていたとの訃報。

どんな世にあっても上を向いて歩めと。永さんの言う「上」をどこに設定するかだ。

 

51対49の多数決のあり方に見る民主主義の限界、あからさまな格差に見る資本主義の限界、そしてそこから派生してくるテロリズム。

私たちはどう生きたいのか。

数日前に大切な仲間たちに声をかけていただいて奈良に出かけました。

興福寺で開かれた「聞法会」のテーマは

「真宗」を批判する真宗

修学旅行以来の奈良を訪ねました。

興福寺といえば真宗門徒にとってまずピンとくるのは、のちに「承元の法難」へと発展していく「興福寺奏上」が思いあたります。

承元の法難 https://ja.wikipedia.org/wiki/承元の法難

興福寺奏上 https://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺奏状

「念仏の教団を弾圧した興福寺」という先入観。そんな感覚などお構いもなく興福寺に黙って迎え入れられ1泊2日お世話になりました。

講師の佐野明弘さんはお話の冒頭、「現代という時代は近代の発展的形態ではなく、その崩壊の姿であろう」と。

 そして「近代的自我のかかえる業は国家のあり方を孕んで深い闇を露呈していて、それを超克しようとしてきたことの結果、近代的自我の闇の深さがいよいよ鮮明となった(「光闡坊」安居の案内文参照)」という。

近代的自我を「土」のない孤独と空虚、と具体的に示された。そして近代的自我の終焉とは、と。

「土」は大地といってもいいのでしょう。大地を失ったことを指摘されればそれを回復しなければという意識もはたらきますが、その意識の出発するところがすでに孤独と虚しさに立っている。

孤独と虚しさは拠りどころを求め、帰属意識が強い。「義」を立て、その大義名分によって「役」を付与し、その「責任」によって、果たすことを「生き甲斐」として「善」を構成していく。

この「善」に従わないものは「悪」として排除する。「国家」というシステムは「土」にはならないと佐野さんはおっしゃいます。

「仏土」を回復しようという私たちもまた、根底は近代的自我に支配されて、真宗を義として立て排他的に閉じこもっている。同時に真宗や仏教を握りしめて自分たちの運動原理に利用することで仏さまの願を、人間の願におとしめている。

「義なきを義とす」のが真宗です。

まさに立つところがない場を自己はどうやって引き受けていくのか。

もはや自己も自我も問うことをあきらめ、人工知能に委ねていくところにきている。

 

興福寺は法相宗と言いますが、別名は唯識宗。

運慶が彫った天親菩薩像(国宝)が安置された北円堂で土砂降りの朝、願生偈を勤めさせていただいて大いに刺激を受けました。

真宗に閉じこもってそれを利用し、救いを求めることにさえシラけていることを言いあてられた私が、歩んでいく道として、宿題もいただきました。

『懺悔道としての哲学』https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/4/3369420.html

暑い夏に重たい一冊ですが。

 

懺悔道-Metanoetek-メタノイア-ノイアを超える-自己の突破-回心(講義メモ)

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どんなどこに生きたいか

2016年07月03日 | ブログ

5月のお寺の掲示板に

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

というゴーギャンの言葉を記した。

6月は

ここはどこか われわれはだれか

と公開講座のテーマから孤野秀存先生の言葉を記してみた。

いずれも「どこ」「だれ」を問うているのですが、いずれも主語は「われわれ」。

「私たち」です。

「じぶん探し」と言われて久しいですが、独善的な「じぶん探し」ではなくて、「われわれ」という表現には「ともに」という「共生」を前提にされているように思えます。

「じぶん」「私」、つまり自己を尋ねる質の宗教的な課題ですが、そこには共に生きる「他者」との関係が欠かせないのだと。

その「他者」によって「お前は一体誰やねん」「どこに居んねん」と問われるのかもしれない。

そうするとこの「じぶん」は誰なんか。どこに生きとるのか。

「わたし」は「ここ」にいる。

ただそれだけのことなのですが、それが言い切れない。

私が何で、ここが何なのかがわからない。

同時に「私」なるものが、どうして、なぜ、何のために「ここ」に出現しているのか。

そんなこんなで7月、

この世は自分を探しに来たところ この世は自分を見に来たところ

河井寛次郎

という言葉を手がかりに掲示板に挙げてみました。

「いま」「ここ」「じぶん」という課題を問われ続ける中で、「いつ」「どこ」「だれ」をはっきりしていく生き方でありたい。

 

バングラデシュで起きたテロ事件に遭って私たちは誰のどんな言葉に耳を傾けるのか。

テロ対策が新たなテロを呼び、防衛費の増大によって攻撃を被る。それでも憎悪を煽る発想に乗っかっていくのか。

それとも。古くから同じことを繰り返している私たちに「復讐」をとどまらせるような言葉に耳を寄せるのか。

http://mie-betsuin.com/2016/05/18/024殺人の正当化/

選挙前でみんな忙しい。「心」が「亡」いと書いて「忙」。そんな中で「お前は何か」との呼び声が聞こえる。

そういえば先日の学習会でこんな言葉を聞いた。

世俗の問題はすべて信心の課題なんです

 

参議院の任期は6年だと。次に選ばれる人たちの任期中に「憲法」がいかなる姿になるのか。

憲法の姿は、そのまま国の姿だと習った。

「どこ」を生きるかの問題だと思う。私はどんなどこに生きたいのか。

河井寛次郎 http://www.kanjiro.jp

 

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