遊煩悩林

住職のつぶやき

深い闇

2009年02月18日 | ブログ

昨朝、坊守に「おめでとう」といわれて思い出した。
一瞬「?」と思ったのですが、そうか誕生日だと。
幼いいつの頃か自分の誕生日を認識して以来、自分の誕生日をうっかりしていたなんてことはなかったような気がします。もちろん今月は誕生日だなっと過ったことは確かにありましたが・・・。
それだけ自己への執着が薄らいできたのかと勝手な「プラス思考」をしてみましたが、どうもそうではなさそうです。ますます自己執着の闇が深まっています。

誕生日を祝うようなというか、それどころではないことがあったということもあります。
数日前の全国ニュースや新聞でも報道された事故・・・。体育館の天井に引っかかったボールを捕ろうとして転落して死亡したのは、義妹の嫁ぎ先の父親でありました。妻の妹が6月に結婚する相手の父親、ひらたくいえば私からしても義理の父親になります。
夕べはその通夜に寄せていただきました。
あまりにも突然のお別れに何もことばがありません。
ですが、妹も、そして彼女が嫁ぐその家族もそれを引き受けて歩まねばなりません。
現実を引き受ける、ということが私たちにとっていちばん残酷なことなのかもしれません。引き受けずにごまかしていく方がよっぽど楽なのです。

通夜に向かう道中、交通事故による渋滞に巻き込まれました。
その日の昼間も同じ道で死亡事故があったそうです。今朝の新聞にその報道がされていて、再び唖然としました。その事故で亡くなったのは、いつも私たち夫婦にあたたかい声をかけてくれた方でありました。

義理の父も、この知人もともに50代。そして事故。
「死の縁、無量なり」とは頭で理解し、口には出ることばでありますが、本当にその現実が引き受けられるかというと・・・。
自己執着の闇が深まってきたというのは、日常に溢れている訃報と近親者の訃報を選り分けてしか考えることのできない深い闇です。

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密かな楽しみと淡い期待

2009年02月16日 | ブログ

常照寺の本堂内には左右の柱に法語板が掛けてあります。
向かって左側には

生まれた意義と生きる喜びを見つけよう

右側には

真宗の修行は一生の聞法である

と、かれこれ5年以上もこのことばを記した板を掛け続けてきました。

のちにご門徒にまでなってくださったある葬儀社を経営される方にお願いして、法語のカッティングシールを貼ってもらった板です。「カッティングシール」といっても馴染みがない人もいるかもしれませんが、告別式に行くとよく見かける「◯◯家式場 ?」とか「○○家 駐車場」などの看板に使われているあの活字のステッカーです。
葬儀社さんには必ずといっていいほど必要なマシーンであります。入力した文字をそのままステッカーにしてくれる優れものです。
お寺にも一台あると非常に便利なのですが、使用頻度に比べてそこそこの価格なようですし、ランニングコストもそれなりのようなので買えずにいます・・・。
とにかく、そんなわけで約5年ぶりに左右のことばを張り替えました。張り替えたとはっても、今までの法語の裏面に新しい法語を貼ってもらったので両面使えます。
さてさてどれだけの方がこの法語に気づいてくれるか、密かな楽しみです。

ちなみに
向かって右側には

自己とは何ぞや これ人生の根本問題なり

左側には

生のみが我らにあらず 死もまた我らなり

と、いずれも明治の宗教哲学者で大谷派の僧侶でもある清澤満之のことばから引用したものです。(清澤満之http://www.manshi.com/
この先何年か、このことばを掛け続けるつもりですが、常照寺の本堂にお参りされたどれだけかの方がこのことばに引っかかり、本当のことを見つける道を歩むきっかけになれば・・・と、淡い期待を寄せています。
ちなみに私自身「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という東本願寺同朋会館の講堂に吊られている法語に引っかかった一人です。その歩みは大谷大学に進学して「自己とは何ぞや」という疑問にまで深められていきました。
さてさて、本堂に足を運んでくださる若い方が少なくなってきた感も否めませんが、これは人数の問題ではありません。 
たとえば、大切な方の葬儀に遇って、たまたまお寺に足を運んだ方がこのことばに触れていつまでもそれをこころのどこかに置いていてくれれば、それだけでそのことばに出会うことがなかった人生とは違った生き方ができるのではないかと思うのです。
ただ近年、お寺で葬儀を勤める方も減少傾向にあります。以前(10年ほど前)は、自宅での葬儀が約2割、お寺が7割、その他公民館や葬儀社が1割程度だったのが、今では自宅1割、寺2割、葬儀社のセレモニーホールが7割といった具合です。
ご門徒にとっても寺が風景化しつつあるような危惧を持ちつつ、寺に足を運んでもらう努力を果たしていかなければならないと改めて思います。 

ところで先日、私自身も大学で教えをいただいた哲学者の池上哲司教授のお話を聞かせていただく機会がありました。「家族の夕食時に子どもに対して、オレの食べているカレーとお前の食べているカレーの味が同じだなんて何を根拠にして言えるのか、なんてことを家族の前ではいってはいけない」と哲学を志す学生に諭しておられるようですが、こういうことも言っておられました。「たくさんの学生がいるわけだが、私たちが疑問に思っているような『どうして私は生きているんだろう?』みたいな哲学的な疑問を持って学ぼうとする学生は1割くらいかな」「今日(当日)はお坊さんが多いから、それでも3割くらいか、と」 
たとえば、寺の法語板を見た100人が100人ともそれに引っかかることはないでしょう。だけどその中で1人でもそのことばが引っかかり、教えをたずねることになれば・・・お寺は1人の念仏者が誕生するためにあるのでした。

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おかげさま

2009年02月13日 | ブログ

「掲示板」というと何を思い浮かべるでしょうか?世代によってイメージが異なるもののひとつでもあるかと思います。
「お寺の掲示板」というと、当然のように門前に立っているアレ。伝達事項や文書・ポスターなどを掲示する文字どおりの掲示板がひとつ。もうひとつは、ネット上の掲示板。携帯やポケベルのなかった時代に駅などで見かけた伝言板的なサイト。インターネットを介してより多くの人が閲覧できる電子掲示板。
頭に浮かんだイメージは誤摩化せないように、年もごまかせません?!。
さて、2月のはじめ、物理的にも電子的にも掲示板のことばを書き換えました。

「自力」か「他力」かではない

自力がすでに他力に支えられている

ちなみに1月は

自力を信じる人は「誰の世話にもなりたくない」という
他力の教えを聞く人は「おかげさまで」という

と記しました。
「人様に迷惑かけるようなことはしてはならん」とか「何とか人様に迷惑だけはかけずにここまできました」とか、どこかで聞いたことばです。そうやって年を重ねていくことを美的とする感覚は、「誰の世話にもならん」「なりたくない」という思いにどこか通じるものがあるのではないでしょうか。
なんでもかんでも自分の力でやってきた、乗り越えてきた、という自負から「誰の世話にもならない」または「なっていない」という感覚を私たちはまだまだ美的に考え、それが大人だとか、立派だとか、あの人は偉いねぇだとかになっていないでしょうか。
その自分の力でなんでも乗り越えていける、
一方で、金を払って世話をしてもらうことが、年をとらずとも出てきます。それでも「俺が老後のために貯めたお金で介護を受けているんだから、誰にも迷惑かけてない」と言い張る方もいます。そこからは「給食費を払っているんだから『いただきます』なんていわない」的な発想が出てくるのも無理はありません。
「世話になる」とか「迷惑をかける」とはどういう認識だろうか考えてみる必要があります。ここでは「世話になる」とは「喰うことの世話=金の迷惑」「迷惑をかける」は「人に被害を与える=警察の世話」的なニュアンスが強いように思うのです。
その視点からすれば、人に金を借りず、警察の世話にもならない人生であれば「誰の世話にもならずに」「誰にも迷惑をかけずに」きたといえるのかもしれません。
ですが、どうでしょう。
自分が働いて稼いでこれたのは・・・。罪を犯さずにこれたのは・・・。というところに目を向けねばなりません。
数々のおかげさまがはたらいているわけです。
オギャーと生まれたのも、死んで墓に入るのもです。
生まれたときは誰かに産湯に入れてもらい、死んでは棺に納めてもらうのが「私」なのでしょう。
「他力」は「如来の本願力」です。他力の教えを聞く人は生きているということそのことが「おかげさま」という深い感動となるのであろうことを、先輩たちのことばから思うところです。

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活躍

2009年02月11日 | ブログ

淨蓮寺という寺の住職をしている兄が、あるミュージシャンのこんな情報を持ってきてくれた。

♪ 天国へ行こう

♪ 神様になった人

常照寺で毎年盂蘭盆会の恒例ライブをしてくれていたシンガーの山田仁くん。
その仁くんが、ストーブの事故で逝ってから、まる3年。
ある歌番組で彼の歌をカバーしていたミュージシャンも観させてもらった。
なるほどこうやって活躍しているわけだ。

それにしても「天国」「神様」というが、彼は仏教徒だった。
彼の言う「天国」や「神様」はどんなだろうか。聞いておくべきだった・・・。

いや、今からでもおそくはない。彼の願いを聞く努力をしよう。

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(2002年お盆:常照寺ネコ「プント」と)

遊煩悩林バックナンバー 2006年1月10日

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サイトリニューアル

2009年02月07日 | ブログ

常照寺のウェブサイトをリニューアルしています。

リニューアルというよりはマイナーチェンジといったところですが・・・。
報恩講の写真もアップしていますので是非ともお尋ね下さい。

常照寺ウェブサイト  http://web.mac.com/jyosyoji/

それにしても自坊のホームページを立ち上げたのが2005年ですから、ボチボチながら更新を続けてかれこれ5年目になります。当初、お寺の慣習的なところから打破して何か新しいかたちで発信していくことができれば・・・という強い意気込みではじめたことを覚えています。「世界中に発信されているんだ」なんてドキドキしながら・・・です。今思えばなんだか恥ずかしい感じです。発信してもそれがインターネット上のサーバに保管されているだけでは何の意味もないわけです。しかしながらどれだけの方がサイトを訪ねてくれたのかなんてことは知る由もありません。ましてやそのサイトがどう映ったのかなんて聞く術もありません。
当初「お寺はお年寄りの行くところ」的なイメージを払拭して、若い世代との交わりを増やそうというもくろみもありましたが、リアクションがあるのは年配の方の方が圧倒的でした。「見たよ!」という方、「あの字が間違えとる!」と指摘してくださる方、字が小さいとか、法話を聴けるようにしてくれとか。メールでなしにわざわざ口頭で伝えてくださる方がほとんどです。
それはそれで想定外でしたが、切り口としては面白い展開になりました。
ですが、ターゲットであるご門徒の若い世代には、このサイトの存在自体が伝わっていないようです。
それは、サイトの存在だけでなくお寺から発送する法要の案内や刊行物も同じであることが見えてきました。お子様やお孫さんなどの若い世代と同居されている世帯では、お寺から毎度毎度お便りが届いていることは承知しているのかもしれません。ですが、それは多くの場合おじいちゃんやおばあちゃん宛に送られますからその内容が家族全員に伝わることがないのです。つまり同居していたとしても、寺から届いたお手紙の封を切ったその人のところでその情報がストップしている状況です。
寺のホームページの存在も同じことです。サイトを見たよといってくれるご門徒の方に、お寺のサイトがあることを家族の中で自分以外に誰が知っていますか?と訪ねたところほとんどの人は自分だけだといわれました。パソコンという媒体の特質上やはり超パーソナルなのでした。
それでも今後ともボチボチと更新していきたいと思いますので、夫婦や親子、お孫さんにもお声がけをいただいてよろしくお付き合いのほどをお願いいたします。

この「遊煩悩林」も、一体いつまで続くやらと思いながらもボツボツとやっています。これまでocnの無料コースで作成してきましたが、ちょうど昨年暮れにバックナンバーの容量が100mbを超えて、無料サービスが限界を迎えました。
このまま継続するには月々300円がかかるというので、どうしようかと思っていたところ、妻の「320円もするタバコをスパスパ吸うくせに・・・」の一言で決断。やはりやめる気はなかったのでした。
「よっぽど暇なんか?」といわれることもありますが、やはり感じたことなり考えたことなりを文章にすることで学んでいるのだな、と思います。その学びはズバリ「いかに学んでいないか」ということを知らされるものです。
わかっているようなつもりになっていることを、表現することで、わかってなかったことが知らされてくるということです。
さて、そんなことで遊煩悩林ともども常照寺のサイトを今後ともよろしくお願いします。

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