遊煩悩林

住職のつぶやき

まな板にのれ!

2012年04月17日 | ブログ

3回目となる「仏教に学ぶ講座」が昨日開催されました。
遊煩悩林2012.2.20 http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/
会場は桑名別院本統寺。
森英雄氏の講義から問われたことを、毎回、個人的にタイトルをつけているのですが、第1回目は「私はいったい何を大事にしているか?」。第2回は「仏さまに見られた私は何者か?」。そして3回目を「私はいったいどうなりたいのか?」としてみました。
その「私」について、第1回では「自分の思いを遂げることが『幸せ』でないことは『現実』が証明している」つまり、自分が目標を掲げてそれを達成していく、クリアしていく、欲を満たしていくということは一時的な満足であったとしても「しあわせ」ではないということは、いくら思いを遂げ、達成し、満たしたところでキリがないという我が身の現実が証明してくれているといわれました。
第2回では、その「現実」を置き換えて「『状況』が私を教えてくれている」という視座を示されました。自分を知るにはまず、自分の身の回りで何が起こっているのかを見なさい、ということです。たとえば自分ではなく、自分の身の回りでトラブルや争いごとが多いとするならば、実は自分自身がトラブルと争いを生んでいるのではないか。そんな外側から自分を映す視点を受けとりました。
さて、今回は「私」について、その「外ばかりをみている私」についてのご指摘。
その「私」について「自分を問わないことについては天下一品」だともいいます。講義のレジュメには「他人の矛盾を見つけるとうれしくなって指摘したくなる、正したくなる。閻魔大王のような裁判官」だとも指摘されます。だけど「同時にその価値観に自分自身も引き裂かれ、裁かれる」。
外側ばかり見て裁いている内側のその私はいったいどうなりたいのか。
まずは「自分を知らないと何も始まらないので、周りの人や(起こっている)事件から自分がどういう人間であるかを思い知らされること」が重要である、と。
仏教は「『状況』や『現実』を受けとる智慧」だと表現されました。
状況や現実が「私」を物語っている事実であり、不平をいい不満ばかりで裁いてばかりいる受け入れ難い「私」、常に他を批判して自己弁護と、自分の正当性を主張するばかりの認め難い「私」を知らせ、受けとらせていくのが仏の智慧だということです。
そして、「DINKS」http://ja.wikipedia.org/wiki/DINKSといった現代的な課題に触れ、浅田正作さんの「求道」という詩をご紹介くださいました。

食って 寝て
大きくなって
子を生んで
老いて 死んでゆく
あらゆる生きものが
平然とやっていることを
満足に果せない
人間とはなんだろうか
この問いにたちすくんで
人は初めて道を求める

『求道』浅田正作

さて、ご提起いただいた問題についてのディスカッションを終えて、バスで桑名をあとにしましたが、車中オツカレのご様子の参加者の表情からは、これまでにイメージしてきた仏教のイメージとのギャップとともに、聞けば聞くほど難しくなってきた、ややこしくなってきた、いよいよ楽しくなってきた、そんな様々な顔をみさせていただきました。難しくするのも、ややこしくするのも、楽しむのもすべて「私」。

ディスカッション後のまとめに森氏は「自分をまな板にのせんとはじまらん!」と力強くおっしゃられました。

その先生のお言葉と、参加者らの表情を思いつつ、こんな詩が思い出されました。

如来さまのくださる
問題は
答えを要求されたのでは
なかった
問題から
逃げなければよかったのだ

『問題』浅田正作

自身、スタッフではありますが、同じ学びの場に身を置かせていただくものとして、問題からいつも逃げようとする自分を教えられ続けているような気がします。

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タダよりコワイもの

2012年04月07日 | ブログ

Img_0386昨日、小学校の入学式で息子と緊張をともにしてきました。
少子高齢化と同居率の低下の実態を物語るかのような18人の新1年生。
開式前、教員の「おしっこしたい人は行ってきて下さい」という声に17人はトイレへ。
「お父ちゃんのためにも行ってくれ」「何とか絞り出してきてくれ」という願いも通じず・・・。
まだまだ子離れできそうにない親バカを自覚しつつ、18人の入学式はあっさりと終了。
義務教育のスタートということで早速、数冊の教科書をいただいてきました。
「こくご」「さんすう」「おんがく」「ずがこうさく」「せいかつ」「しょしゃ」の6冊。
まるで興味を示さない息子にかわってパラパラとページをめくってみると、どれもイラストや写真がふんだんに盛り込まれていて、いかにも楽しく学ばせよう!という印象。
さて、その6冊が封入された「にゅうがくおめでとう 文部科学省」と書かれた紙袋の裏に、「保護者の皆さまへ」とあります。

お子様のご入学おめでとうございます。
この教科書は、義務教育の児童・生徒に対し、国が無償で配布しているものです。
この教科書の無償給与制度は、憲法に掲げる義務教育無償の精神をより広く実現するものとして、次代をになう子どもたちに対し、我が国の繁栄と福祉に貢献してほしいという国民全体の願いをこめて、その負担によって実施されております。
一年生として初めて教科書を手にする機会に、この制度にこめられた意義と願いをお子様にお伝えになり、教科書を大切に使うよう御指導いただければ幸いです。
文部科学省

要するに「大切に使いましょう」なのですが、どうして大切なのかということを親が知り、子に伝えなさいというメッセージとして受けとりました。
わざわざ冒頭に「国が無償で配布している」というのも何か恩着せがましいような気もしますが、「国民全体の願いを込めて、その負担によって実施」というフォローがあります。
ただ、その「国民全体の願い」が「我が国の繁栄と福祉に貢献してほしい」にとどまるならば説得力に欠けるような気がするのです。
極端にいえば「タダでやるから、お国のために頑張れ」みたいな印象さえ持ちます。
子どもたちは決して「国」のために生まれてきたのではない。また「家」のために生まれてきたのでもない。「親」のために生まれたのでもない。
人間になるために生まれてきた。人の間の関係を生きる「私」が、「私」になるために生まれてきた。
とすれば、何のために学ぶのかという問いがあるならば、それは「生まれた意義と生きる喜びをみつける」ためであって、人間と人間とがそれを尊び合うために学ぶべきだと思うのです。
もちろん国とか文科省という「立場」からすればこうなるのかもしれません。ですが「我が国」だけの繁栄と福祉に貢献するのが国民全体の願いというならば、どうもさもしいような気がするのです。
かつて文部省は、憲法の義務教育無償について「授業料は無償」「教科書は有償」でやってきた。にもかかわらず、今日の教科書無償について、この制度に込められた意義と願いを子どもに伝えよということですが、さて、何と伝えればいいのか・・・。
少なからず、教科書無償化には血のにじむようなご苦労があったことを、まず私たち親が知り、正しく子どもたちに伝えなくてはなりません。

遊煩悩林 2008.02.16(教科書無償化)知らずにいたこと」
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20080216

文部科学省 教科書無償給与制度
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/

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生前中

2012年04月01日 | ブログ

「はじまりそうになればいいね」という言葉を、生涯の終わりのときにいいたい。『遺書』吉本隆明

先月、亡くなった吉本隆明さんのことばが、数日前の中日新聞「けさのことば」に取り上げられていて、そのとっておいたはずの切り取った記事が出てきました。

「細君への遺書」を問われて吉本隆明が十数年前に答えた談話の一節である。生涯の終わりに「何がはじまるのかわかりませんが、『はじまりそうになればいいね』という言葉を慰めとしていっておきたい」という。終わりから始まるもの。それは何だったのか考えさせられる。

という筆者の述懐から問われました。

職業柄(僧侶は「職業」ではない?)よく「生前中はお世話になりました」ということばを耳にします。
この「生前中」。
もちろんそのことばを使う人にとっては、「故人が生きていたとき」のことを言っていると思うのですが、きちんとそこで立ち止まって「生前中」とは「いつ」のことなのか、何に生まれる前なのか、そしてどこに生まれる前のことなのかを確かめるということはなかなかできません。
「故人、生前中は」なのですから、亡き人がどこに、何に生まれる前はということなのか、遺されたものがはっきりさせなければならんのです。

仏教では「往生」といいます。「往生成仏」とも。「往って生まれて仏に成る」。
仏教の目的はこの「成仏」です。仏になる。
浄土真宗では、「念仏」すなわち阿弥陀如来の本願力によって「阿弥陀如来の極楽浄土に往生する」という言い方をします。
ここまでくると何となく「生前中」という言葉の意味がみえてきます。
「浄土に生まれる以前」、つまり「仏になる前は」ということになります。
「生前中はひとかたならぬ世話になった」と、普段は略して言うのですが、何がそこに省略されているのか、生前中に学んでおく必要を感じます。生前中にしか学べないのですから。

縁があって娑婆の世界に生まれさせていただいて、お念仏の回向に遇わせていただいて、阿弥陀如来の極楽浄土に往生させていただいた。その事実を確かめて、今度は私が「仏になる身として生きる」ということを前提に、「生前中はお世話になりました」ということではないでしょうか。
ですから、それが「今後ともよろしくお願いします」と続くのならば、そこに自らの信仰表明が込められているとも思うのです。「今度は私が浄土に生れさせていただきたく、今後ともよろしくお願いします」と。

4月の掲示板には

「生前中」っていつのこと?
どこに生まれる前のこと?

と書かせていただきました。

さて、吉本隆明さんの「最後の親鸞」「今に生きる親鸞」「親鸞復興」「未来の親鸞」などなどの著書をとおして「何かがはじまりそうになればいいね」の目線に学びたいと思います。

関連リンク
イトイ新聞「親鸞」対談 吉本隆明×糸井重里
http://www.1101.com/shinran/index.html

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