遊煩悩林

住職のつぶやき

時はいのち

2006年09月14日 | ブログ

「死んでしまいたい」と思ったことのある人は果たしてどのくらいいるだろう。
「人生は苦なり」人間、生きていればその人その人にいろんな苦悩がある。他者からすれば「何だそんなことで」ということもあろうが、「苦」はその人のもの。
その苦をいかに乗り越えるかというところにも、人生の面白さや悦びがあるのだろう。とにかく「苦」は、生きておればこそのこと。「生」を前提としていたいし、現実逃避としての死後にユートピアなどあり得ない。
真宗では、時に「いのち」について、自分が誕生する以前から、そして死んでしまった後も永遠に流れていくものとして表現することがある。「私にまで流れてきたいのち」などと。それは自分が生きている時間だけを「いのち」とする自己中心的な「いのち」に対して、私たちの「いのち」は「私のいのち」ではなくて「ともなるいのち」であることを表現している。
私たちは「いま」という「とき」を生きているのだが、その「いま」は「いまこの一瞬」の連続として膨大な過去によって成り立っているし、さらにまた「いま」の積み重ねが「未来」を形成していく。「とき」もまた、いつからかここまで流れて来た。そして「いま」という瞬間の連続の中で私の生きる時間とともに流れて、私という存在がこの世からいなくなってもまた、流れていく。
さて、聖路加国際病院の理事長である日野原重明さんは94歳という年齢にして、全国の小学校を訪ねて「いのちの授業」を行っている。
兵庫県尼崎市での授業で「『いのち』というのはみなさんが持っている『時間』のことなんです」「あなたたちの使う時間、それがあなたのいのちなんだよ」と。これまで大人たちが教えてきた「時は金なり」的教育によって失われた感性を取り戻そうという授業を続けておられる。金に象徴される物質社会のなかで「見えないものに畏敬の念を」と、中日新聞9月3日・10日(いのちの授業上・下)は紹介していた。目に見えない「いのち」について、日野原さんが伝える「いのち」の話。「いのち」そのものは目に見ることができない。それだけにその人その人によっていのちの模様や認識も違うのだろうが、それらすべてで「ともなるいのち」が形成されている。
ところで、今月何回か「自殺」についてふれたが、今日もまたこんな記事を見かけた。おとなりの国、中国では経済の発展によって自殺が急増しているという。毎年30万人近くがいのちを絶ち、約200万人が自殺未遂を起こしているという。15歳から34歳の死亡原因は自殺が首位なのだそうだ。
国という空間は違えど同じ「いま」という「とき」を生きている「ともなるいのち」である。「時は金なり」で鈍った「いのち」の事実を伝える義務があるのではないだろうか。

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