遊煩悩林

住職のつぶやき

中陰

2006年09月18日 | ブログ

ひとが死んで49日間を仏教では「中陰」という。日本における中陰はいろいろ迷信深いこともいわれるが、真宗においては、亡き人がお還りになられた世界を、残された者たちが尋ねていく時間である。亡き人が還られた世界を「浄土」と受け止め、その浄土の教えを親鸞聖人、そしてお釈迦さまの教えに聞いていくのである。
その教えが経典には説かれている。だから「経典」は亡き人のためでなく、残されたもののために説かれているというのである。
中陰は「初七日」「二七日」「三七日」・・・と1週間毎に勤める。「七七日」つまり49日が過ぎると中陰を満たすということで「満中陰」という。この法要後にいただく忌明のお返しによく「満中陰 志」という文字を目にするのはこういうことである。
この期間は仏前に「中陰壇」というお飾りを設けることがある。遺骨は仏壇に入れないことになっているので、納骨までの期間ここにご安置する。亡き人の遺骨や遺影、仮の位牌を安置し、燭台・花瓶・香炉の三具足を備え、それぞれ蝋燭を灯し、香を焚き、花を手向ける。
2週間前にお浄土に還られたご門徒の二七日のお参りに寄せていただいた。
パーキンソン病で長い間苦しまれた末の還浄であった。本人はもとよりご家族も大変なご苦労であった。その中陰壇には、闘病中に用いられた水差や湯のみのほか、好物であったであろうお菓子などが供えられている。
中陰壇には基本的に、先の「三具足」が備わっておれば他に供えなければならない食物などはない。浄土の教えを聞いていくわけだから、むやみに物を供えることは避けた方がいい。ただ、お別れしてからまだそれほど月日が経っていないこの時期のご家族の心中を察すると、なかなか申し上げにくい。
ただ、ひとつだけご家族のみなさんと確認をさせていただいてきた。
燭台の灯火も、花瓶のお花も、線香の香りも、そしてお菓子やその他のお供が、すべてお参りする私たちの側に向けてお供えされているということ。亡き人のためにと思いながらお供えをされたのかもしれないが、それらすべてが遺影や遺骨の方に向けてでなく、こちら向きに備わっているということ。そしてその中陰壇に向かって一緒にお勤めをしたのだけれども、この「正信偈」の一言一語も、私たちが味わっていくのだということ。浄土の教えを亡き人に読み聞かせてやっているのではない。亡き人が還られた浄土のはたらきに、いま私が出遇わせていただいているということを。
中陰のお参りを省略されるご家族も増えてきた。それが一概に良いとか悪いとかということは申せないが、せっかくの浄土の教えに遇うご縁である。それを受け取るか受け取らないかということをしっかりと踏まえ、たとえ省略されたとしても、毎月のご命日やお彼岸などの機縁には墓参りだけでなく、浄土の教えにふれたいものである。それが私たちの生きる方向となっていくのである。

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