豪州落人日記 (桝田礼三ブログ) : Down Under Nomad

1945年生れ。下北に12年→東京に15年→京都に1年→下北に5年→十和田に25年→シドニーに5年→ケアンズに15年…

戦艦バウンティ

2003-07-05 17:55:45 | シドニー
7月5日(土)快晴   

戦艦バウンティ

「戦艦バウンティー号の反乱」はご存知ですか?物語はクックがタヒチ島でパンノキを発見したことに由来。食料供給地のアメリカの独立により、植民地の英領西インド諸島の奴隷たちが餓死。パンノキの苗木をタヒチ島から西インド諸島に運ぶのがバウンティー号の任務。当時の戦艦は約2000トンですがバウンティー号はわずか250トン、乗員45人。レプリカがダーリンハーバーに係留されていて、週末にはシドニー湾の航海に出かけます。




戦艦バウンティ号の反乱:艦長はブライ、副長はクリスチャン。苗木を運ぶため艦の飲み水は著しく制限され、乗組員の反感は高まった。日頃の厳しい艦長に不満を抱いていた水夫は、副長をそそのかして反乱に至った。1789年4月28日(仏大革命の年)早朝に副長が艦を乗っ取り、艦長以下18人は1隻のランチに押し込められ艦の外に漂流させられた。ブライ艦長は48日間の漂流のあとオランダ領マレー群島についた。その後1790年にイギリスに帰還する。反乱軍を探すべく軍艦パンドラ号が派遣される。タヒチ島にいた犯徒を逮捕した後3ヶ月も副長たちを探すが見つからず、オーストラリア近海で座礁沈没する。 犯徒のうち3人が水死したが、別の軍艦で帰国。裁判で10人のうち3人が1792年絞首刑。1809年に孤島ピトケアンで唯一の生存者ジョン・アダムスが発見されたが、副長クリスチャンは今も生死の事実関係は不明である。ピトケアン島には現在も子孫が住んでいます。

ブライ艦長

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする