ハーフナー・マイク「日本人かオランダ人か」不用意な人種・国籍論議(J-CAST)
「日本」男子サッカー界の新星として、身長194cmの長身FW、ハーフナー・マイクの等身大パネル写真がスタジオに現れ、ワイドショー的人物紹介がなされようとしていた。
「顔を見ていただくと、あきらかに日本人じゃないなという感じがしますよね」と、田中大貴アナ。司会の小倉智昭が「そうだよね」と何気なしに相槌を打つ。番組は「イギリスのロックバンドにいそうなお顔で――」(田中)とハーフナー・マイクの顔を評する前に、わざわざ、ニッポン人とはなにか問題を不用意に提起したのだった。
「(地方参政権などの)権利が欲しければ日本に帰化すればいい」などと口にする人が珍しくなく、あろうことが新首相でさえその一員だったりするわけですが、いうまでもなく日本国籍を取得したところで我々の社会は国籍取得者を「日本人」としては受け入れていません。日本国籍を保有する紛れもない日本人であったとしても「あきらかに日本人じゃないなという感じがしますよね」と公共の電波で語られてしまうのですから。
半年前までは駅前の書店で平積みされていた排外主義の本が放射「能」の本に入れ替えられ、ブログランキングの上位もレイシストのそれから陰謀論者のそれに移り変わる等々、今や偏見を広め憎悪を煽る人々の主流派すっかり反原発論に呑み込まれ、幸か不幸か猛々しい外国人差別は言論界の傍流に追いやられつつあるフシも見受けられます。ただ上記引用のアナウンサーの発言からも窺われるように、何も考えることなく自然と排他的な日本人観が漏れ出すことは今なお珍しくないようです。一部の人のキチガイじみた言動は無視すればいい話ですけれど、「普通の人」として振る舞っている人の口から、こういう言葉が出てくることは懸念されてしかるべきでしょう。
リビアのアフリカ系移民、避難民化 「黒いだけで殺される」(産経新聞)
リビアの反カダフィ派が制圧した首都トリポリで、大勢のアフリカ系移民が避難民化している。カダフィ政権時代に出稼ぎに来た人々で、政権末期から強まった迫害で住んでいた場所を追われた人々だ。カダフィ大佐が内戦中にアフリカ系の雇い兵を戦闘に投入していたことから、反カダフィ派から目の敵にされており、「もうリビアに居場所はない」と、第三国への出国を目指している。(トリポリ 大内清)トリポリ西郊の小さな漁港。アフリカ系移民約800人が、陸に放置された船の陰に布を張っただけのスペースで身を寄せ合うように生活していた。電気やトイレもなく、ごみの浮かぶ海水をくんで料理に使う。
(中略)
「アフリカの王」を自称し、アフリカ連合(AU)創設にも尽力したカダフィ氏は、チャドやニジェール、ガーナなど近隣国から出稼ぎ労働者を多く受け入れてきた。
だが、一般国民の間にはアフリカ系に対する蔑視が根強く、仕事を奪われているとの不満も鬱積していた。武装集団の正体は不明だが、カダフィ政権の統制が弱まった中、アフリカ系への反感が暴力の形で噴出した可能性は高い。
その後、トリポリが陥落しカダフィ政権が崩壊すると、反カダフィ派兵士が、アフリカ系移民が多く住む一帯を見回るようになったが、状況は悪化する一方だった。移民らは、面白半分に銃を乱射する兵士に携帯電話を取り上げられ、パスポートも破り捨てられた。「暴行された女性もいた」(ゼブディさん)という。
一方、ところ変わって大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国では「アフリカ系」が迫害の対象になっているそうです。引用元で「一般国民」と書かれている人だって父祖の代からアフリカ大陸に在住している生まれながらのアフリカ人であるように思えてならないのですが、黒人=アフリカ系であって、いわゆるアラブ系≠アフリカ系という感覚で書かれた記事なのでしょうか。リビアだってアフリカの一部だろうが!と突っ込みたくなりますけれど、まぁその辺は本筋からは外れますので呑み込むことにします。
往々にして、独裁体制が倒れてめでたしめでたし、とは行かないものです。弾圧の時代が終わったと思いきや、今度は独裁者とは別の何かが幅を利かせるようになり、別の何かが迫害や差別の対象になる、そういうこともよくあります。とりわけ世俗的な独裁政権が倒れた後に宗教が新たな支配者として台頭したり、民族対立が激化したりはよくあることですね。リビアでも同様、カダフィ時代よりもマシになった部分が出てくる一方、カダフィ時代には顕在化しなかった問題が続出するであろうことは想像に難くありません。
「エリツィンは共産党が70年かけても出来なかったことを7年で成し遂げた ――ロシア人に共産主義の良さを理解させたんだ」なんてジョークがあります。崩壊前の体制の方がマシだったと、そう思う人も少なからず出ていたわけです。諸悪の権化のように思われている何かを打倒すれば世界が救われるかといえば、そんなことはないのです。まぁロシアの場合は経済的な混乱によるところが大きいですけれど、ソ連崩壊と同時に人種差別が横行するようになったところもあります。旧ソ連構成国であったはずの中央アジア出身者や日本人留学生が極右に襲われるなんてことも頻繁にありました。脆弱な社会ほど、強権支配の箍が外れた場合に負の側面を露呈させてしまうものなのでしょう。
翻って日本はどれほどのものでしょうか。概ね日本は強権的な支配よりも衆愚政治的な面からの弊害が目立つとも言えます。政府が正しい情報を出しても教祖じみた人の扇動によってねじ曲げられることも少なくありませんし、偏見を植え付け差別を煽るような発言も野放しにされていますから(「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」とか「福島県ナンバーの車がこわい」とか)。ただ一方で、リーダーシップ云々と称して強権的な支配を待望するような声もまた聞かれるわけです。ことによると我が国では社会主義的な政策が嫌われている反面、社会主義「国」的な政治姿勢は大いに好まれているのではないかと思えることがあります。だいたいの人は社会主義と社会主義政権の区別が付けられなくて、徒に「社会主義」という言葉を否定の対象として用いるものですけれど、その実は極めて社会主義「国」的な政治理念をなぞっているケースが多いのではないでしょうか。いいとこ取り、というのは口で言うほど簡単に出来るものではありませんが、その逆に「悪いとこ取り」は実践している最中だったりするのかなと……