非国民通信

ノーモア・コイズミ

仕事を創る人ほど有害な人はいない

2016-11-27 23:56:47 | 雇用・経済

 日本の学校教員の労働時間の長さはよく知られているところで、たとえば2014年のOECD調査では日本が世界最長でした。しかるに、"Total working hours"が長いにもかかわらず"Hours spent on teaching"に関しては平均を大きく下回っていたわけです。要するに、日本の学校教員は労働時間が長いけれど、勉強を教えている時間は短い、と言えます。なんでも課外活動の時間が群を抜いて高く、事務作業にも平均の倍近い時間を費やしているとか。

 過労死なんて珍しくもありませんけれど、それが若い女性ともなれば世間の関心は俄に高まるというもので、電通社員の一件を契機に長時間労働を問題視する声も出てきました。では、そもそもどうしてこれほどの長時間労働が必要なのかと、不毛な意見が色々と上がっています。そこで私が思うに、民間企業における長時間労働もまた、上段で言及しました学校教員の労働時間の長さと構造は似ているのではないかな、と。

 つまり教師であれば本分であるはずの「勉強を教える」ための時間が日本は短いわけです。ただただ「それ以外」の時間が長いから、全体の労働時間も長いのです。同様に民間企業もまた、本分であるはずの操業のために費やされている労働時間は、実は短かったりするのではないでしょうか。にもかかわらず、ビジネスのために必要なこと「以外」に膨大な時間を費やしているから日本の労働時間は長い、ついでに(時間当りの)生産性も低いのではないか、そう私は考えます。

 業務量に比して人員が少なすぎる、という現実も確かにあるとは思います。ただ職を転々としてきて感じたのは、どの会社も部署次第で残業時間のバラツキが大きいことで、その辺も業務量の問題は否定できないにせよ「文化」の問題も大きいな、と。有り体に言えば、上長が率先してサービス残業しているような部署では全員が恒常的に長時間残業しているわけです。仕事が終わったからと定時で帰れば「それは間違っているよ」と怒られる、そういう文化が養われている組織もまた珍しくありません。

 名高い電通の「鬼十則」でも最悪なのは「仕事は自ら創るべき~」云々の行で、往々にして長時間労働の部署では「仕事を創る」人が仕事を終わらせる上での障害となっています。余計な仕事を創る人がいなければ時間内に片付くものを、必要のない仕事を創ることで長時間労働不可避の部署にしてしまうわけです。ところが、こうして仕事を創る人を電通以外の会社でも総じて高く評価してきたのが日本社会であり、日本の会社でもあるのではないでしょうか。

 元祖ブラック企業のワタミでも然り、長時間勤務の問題もさることながら、会長の著書を買って感想文を提出したり、ボランティア活動への参加を強制される等々、店舗運営のために必要な仕事「以外」の要求が多かったことも意識されるべきです。本当に店で必要な仕事「だけ」をやっていれば済むのなら、多少なりともマシになった部分はありそうなもの、しかし、操業のために必要ではない代物が重い負担としてのしかかってくるのが日本の労働現場なのです。

 日本の会社は、徹底した反合理主義で構成されています。追求されるのは利益ではなく理想であり、経営者が従業員に与えたがる報酬は金ではなく夢だったりするわけです。ビジネスライクに必要なことだけやっておけば良い、無駄なことはやらない、そういう姿勢では許されない(そもそも採用時点で排除される)のが日本の文化ではないでしょうか。低い労働生産性から逆算すれば、本当は仕事が多いわけではない職場も少なくないように思います。ただ、仕事を創って忙しいフリをして、それを会社が評価する、そういう文化が積み重ねられているだけです。


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