愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京都、旧山城町神童子(じんどうじ) 天神社十三重石塔

2012年08月14日 | 石塔:石造物

前回紹介の神童寺山門 から一直線に約500m、集落が途切れる辺りの真正面に天神社がある。

往古この谷一帯は神童寺境内で26坊にも及ぶ伽藍が建ち並び権勢を誇っていたと云うが、治承四年(1180)以仁王の挙兵(治承・寿永の内乱)戦禍で全山ことごとく焼失、後再建されるも再度元弘元年(1331)「元弘の乱」による戦禍に見舞われ再び灰塵となり、室町時代の応永13(1406)年、現在の本堂、蔵王堂として再興される。

現在の在所道は往古伽藍内を通り抜け、山城から伊賀、伊勢への古道「伊賀街道」で、神童子集落の先、天神社の正面を左手に見て山道となり、桜峠を越え旧加茂町へと抜ける。

天神社は神童寺の鎮守として室町の再建時に勧請創建されたようです。

十三重石塔は高さ4.15m、正面石段を登った左側、境内中段の北端、木立の中、石段を数段登った上に玉垣で囲まれて建っている。

基礎に鎌倉中期 建治三年(1277)の銘があり、神社創建以前の造立・・・・おそらくは元弘の乱で焼け落ちた神童子境内にあったものだろう。

この石塔は石段のある南面が正面なのか基礎石に刻銘の在る西面が正面なのだろうか??・・・先ずは刻銘のある西面から。

刻銘は向かって右手から七行に亘り:「右志者、為父母先師、法界衆生、平等利益、造立□□、建治三年(1277)丁丑、十月三日」と刻まれて居る様ですが殆ど肉眼では判読不能です。

基礎石に載る初層軸部には二重円光形に彫り沈め顕教四仏を半肉彫りで刻みだしています。

西面には間違いなく定印を持つ阿弥陀如来坐像・・・・、像高約30cm。

右手北面の軸部には弥勒に変えて錫杖宝珠の地蔵坐像、僕はこれが初めてですが・・・・、鎌倉時代中期以降に地蔵信仰の隆盛によりしばしば見られるようです。

背面になる東面はこの石仏さん・・・・斜面が迫り狭い上に玉垣が邪魔をして撮影しづらい。

薬師如来の筈ですが・・・・・間違いないようです。

最後に南面の釈迦如来・・・・・地蔵は別としても、どの石仏も神童寺境内のものとそっくり良く似ているような気がしないでも無い。

背後斜面上から見た石塔は鎌倉期の造立とは言え、か細く繊細に見えた・・・、これはきっと角度のせいだけかもですが??

相輪まで完存、鎌倉中期の在銘十三重石塔とし、この時代の基準となるものとして国の重要文化財に指定されて居る。

撮影2010.3.22:2012.7.29