北国街道若狭から近江に至る難所中の難所、木ノ芽峠や栃ノ木峠を目の前に控え、ここ今庄宿は越前で最も繁栄した宿場として知られています。
現在も宿場町の面影を良く残し、通りの形や屋敷割、造り酒屋、問屋跡、本陣跡、高礼場跡なども残っています。
近江へ続く難所を目の前にして少し物悲しいようなレトロな町並みが続き、どこかに懐かしさも感じさせる。
歴史的町並の今庄宿は街道に沿い、南から北へ約1キロメートルに及び豪雪地帯独得の重厚な屋根が並び建ち・・・
深い軒袖卯建(うだつ)が豪雪地帯の古い宿場町の面影を良く伝えている。
宿場の中程、仲町辺りに規模の大きな家が集中、中でも一際異彩を放つ京藤甚五郎家(きょうとうじんごろうけ)の重厚な屋根には本卯建。
屋根の構造が少し変わっていて、屋根を支えている太い梁が軒先まで出ている登梁の構造で、雪の重みに耐えられるように作られていて、力強さを感じる建て方である。
厚い土壁や土戸に周囲を覆われた完全な土蔵防火造りでいかにも力強い建築、幕末期天保年間頃の造り酒屋で水戸天狗党が投宿し、造り酒屋だった当家で酒風呂に入ったと云う話しがまことしやかに伝わっている。
京藤甚五郎家のお隣さんは所謂木賃宿、旅籠の若狭屋さん・・・庶民の宿だけに造りも一寸簡素です。
京藤甚五郎家斜め向かいの御札場跡、旧西尾茂左衛門家。
豪雪地帯の今庄宿場に似つかわしく、がっしりとした骨組みの建築で黒壁に軒袖卯建(うだつ)が目だちます。
宿場の殆ど南端で見かけた造り酒屋さん・・目隠し格子に格子戸
幕末の天保年間(1830~1844)の記録では戸数290軒、人口1300余人で、旅篭屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒などで、他に問屋3軒や伝馬所、高札場などがあった。
撮影2009.11.7