愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

旧加茂町当尾(とうのお) 赤門の水呑み地蔵石仏

2011年09月11日 | 石仏:京都

 浄瑠璃寺参道脇に有る「あ志び乃店」の横に有る小道を15分程分け入った先、訪れる人も少なく、まったく野の仏となってしまった石仏さんです。

往古この地は赤門坂と呼ばれ、浄瑠璃寺の赤門と呼ばれた南大門が建ち、奈良から笠置、伊賀への古道が通じていたようです。

石仏は緑生い茂る斜面際にあり、その昔には地蔵堂が設えられ、傍らには茶店もあり賑わった様ですが、今では殆ど廃道となっています。

この石仏は三角オニギリ状の自然石に円光背を線彫りで表し、造り出しの大きな蓮弁に座す地蔵石仏です。

地蔵坐像は厚く刻みだし、右手に錫杖、左手に宝珠の定型ですが地蔵堂の火災で焼け爛れ痛みも酷く、磨耗も加わり顔容も定かで無く痛々しい姿ですが、その堂々とした体躯は鎌倉中期の造立だといわれています。

像高180cmと、地蔵坐像としては珍しく大きく、また額には輝石の白毫でも埋め込んだのか??小さな穴がうがたれていました。

傍らには水飲み場があり、剣豪「荒木又兵衛」もこの水を飲み、この地で一休みしたとか??。

真しやかに伝えられた昔話がこの石仏さんの呼び名になった様です。

撮影2011.6.22


旧加茂町当尾(とうのお) 岩船寺墓地の六体地蔵石龕(せきがん)仏/他

2011年09月10日 | 石仏:京都

やっぱり山中の石仏行脚は、秋の紅葉が終わった後に限るようです・・・・。

ここでも藪蚊の集中攻撃と、真夏の木漏れ日とのおかげで、ろくな写真を物に出来なかった。

集落公民館近くの昼尚薄暗い岩船墓地の参道を上り詰めていくと、入り口辺りに置かれている一石六体地蔵です。

大和高原地域では良く見かける一石六体地蔵ですが、ここのものは大きく立派で殆ど完品に近く、時代的にはどうもこちらが本家本元のようです。

ただ、惜しいことに向かって左端の地蔵さんはご覧のように顔面が欠落しています。

大きな寄棟の屋根を乗せ、総高約110cm、 横幅約150cm、主体板状花崗岩に隅取をした龕を彫り沈め、像高約40cm足らずの蓮台に立つ六体地蔵を刻み出している。

六体地蔵石龕仏としては珍しく、屋根の軒反は鎌倉期の様式を良く伝えるものとして重要美術品に指定されています。

鎌倉後期から南北朝期の像立。

一方この先には埋め墓があって、なんともいえぬ静寂の空間が漂っている。

そんな気の墓標を前にして棺台と、お迎え地蔵が立っています。

棺台にはなぜか箱型の地蔵石仏・・・、本来のものだろうか??

この地域には多い切れ長の目を持つ通常型の地蔵立像。

舟形光背の頂部には地蔵の種子「イ」を刻みこみ、室町期の像立??

撮影2011.6.22


旧加茂町当尾(とうのお) 岩船寺石室不動明王像

2011年09月09日 | 石仏:京都

良い石仏さんだけど季節と時間が悪すぎて拙い写真に成りました・・・・・。

再度冬場の木立に葉の無い時期にまた行くとして、取り敢えずはUPしておきます。

岩船寺地蔵堂の隣、木々の生い茂った下に石柱を建て寄棟の石屋根を載せ石室を組み、その奥壁に不動明王を刻み出している。

この時期生い茂る青葉で肉眼でも定かでないほどの光しか入り込まない。

右手に利剣、左手に羂索を持つ、像高約1.5mの不動明王立像・・・、一般的な憤怒相ではなくなかなか端正な顔付で、すくっと立っています。

背面には薄く彫られた火焔や刻銘らしきものが見えますが・・、とにかく薄暗く、おまけに像面は上から滲み出す水で乱反射。

鎌倉時代後期 応長二年 (1312)の刻銘が在るらしいのですが??・・・

岩船寺 石室不動明王像として国の重要文化財に指定されています。

眼病に霊験あらたかな不動明王として今でも信仰が篤い。

撮影2011.6.22


旧加茂町当尾(とうのお) 岩船寺地蔵石仏(厄除け地蔵尊)

2011年09月08日 | 石仏:京都

当尾を二分する代表的な寺院は浄瑠璃寺と、この当尾の南東端辺りに位置する岩船寺。

岩船寺の質素な山門を潜り緑深い境内に入ると右手奥に簡素な地蔵堂があり、地蔵石仏が祀られている。

石仏はほぼ正方形の台石上に乗り総高約1.5m足らず、大きな二重光背を背負う定型の地蔵菩薩座像。

大きな錫杖を持ち、造り出し蓮台上で力強く、大きく張った膝を組む。

像高は80cm足らずだが、厚く力強く彫り出された像容は鎌倉様式を踏襲した鎌倉後期の像立。

当尾地域の石仏としては取り上げられる事の少ない石仏ですが、地元では厄除けの地蔵尊として篤く信仰されているようです。

長い間雨ざらしで有ったのだろう苔がびっしり絡まっている。

撮影2011.6.22


京都旧加茂町 弥勒の辻、弥勒磨崖石仏 [画像更新]

2011年09月07日 | 石仏:京都

岩船寺から、奈良方面に続く道路を2~3分車で走ると弥勒の辻という所に出る。

木立の中を走ってきて視界の広がった弥勒の辻の右手、山際の高さ5m程の巨岩に高さ2.5mの「弥勒磨崖仏」が線彫されている。

勿論、「弥勒の辻」の地名はこの石仏からつけられたもので、奈良方面からの岩船南口バス停もこの場所にある。

この弥勒石仏は、室生大野の磨崖石仏と同じく、ここからは、すぐ近くの笠置山大弥勒石仏を手本に作られたもので有ると考えられています。

確かに、京都仁和寺に残された、笠置山弥勒磨崖石仏の写しによく似ていて、衣文の流れなどはそっくりそのままのような印象を受ける。

ぞうの右横には銘が刻まれていて、文永十一年(1271・鎌倉中期)大工末行とあり、伊末行の事で、この石仏を作って13年後には、前に紹介した「わらいぼとけ」を作っている。

ちなみに、「わらいぼとけ」には、この前の道を右手に10分ほど歩けば到着する。

ただただ、おしいことに線彫り石仏のため、風化磨耗,苔等により、像の上部が非常に解りづらく、見え辛らくなっている。

撮影2005.12.18/2011.6.22


旧加茂町 谷ノ下(たんのした)地蔵磨崖石仏

2011年09月07日 | 石仏:京都

石仏の存在は以前から知っていたのですが近くの人に聞いても要領を得ず、石友の案内でやっと対面することができました。

当尾浄瑠璃寺門前近くの東小上集落から大門の集落へ行く田舎道が有って、その途中に有る春日神社南斜面辺りの竹藪の中に忘れ去られたように佇んでいます。

地域の人たちが「たんのした」と呼び習わす一面の竹藪地帯で昼尚暗いような場所、勿論なんの案内も表示もなく、誰かの案内でも無いととても行きつけない場所です。

南面の竹藪斜面に突き出した小山状の花崗岩に刻み出された地蔵磨崖石仏は穏やかな表情で訪れた僕たちを迎えてくれました。

大岩周囲には緑の蔓性植物が絡まり景観を盛りたててくれます。

付近には石積みの跡も残りこの付近にも往古の廃寺が有った事が伺えます。

地蔵は右手に錫杖、左手に宝珠を掲げた定形地蔵立像・・・・

船型光背を深く彫沈め、外部に線彫りされた大きい蓮弁の上に像高約1m足らずの中肉彫で刻み出している。

訪れる人とて無い静かなこの地に佇む地蔵さんは、一体どんな時代を、どんな景色を見て来たのだろう・・・・

幻の三尺地蔵磨崖仏とも呼ばれているようです。

撮影2011.3.27

個人所有の筍藪なので地図の表示は止めました。


旧加茂町 大蔵墓地(おおくらぼち)の石仏

2011年09月06日 | 石仏:京都

どの集落からも遥かに遠い山の中、いくら捨墓といえど、これほどの山中では葬列も大変だったろう??

旧加茂町北下出集落の東はずれからかなり山中に分け入った尾根の台地にある大きな郷墓。

石仏ファンに古い中世墓は欠かせないがここはどの集落からもかなり遠い距離にあり・・・、この地域の人が墓とどのようなかかわり方をしていたのか伺い知れる気がする。

この墓地で先ずこの目に付くのがこの十三仏板碑

河内に近い地域では良く見かける蓮華座上月輪内十三仏の種子を刻んだ物で頂部には虚空蔵菩薩の種子み三十三回忌までの追善供養のために像立つされる。

 

種子仏下部には結縁者二十名と「永禄六年(1563)十月十三日」の銘が刻まれている。

ちなみに高さは約1.2m。

今ひとつ目立つのはこれ・・・、ちょっと珍しい定印の阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出した板碑石仏。

安土桃山時代の末期 、慶長15年(1610)記銘 があり、総高約1.3m、像高約40cm。

傍らには傘を持つ箱型の地蔵立像双仏石・・・・・。

六体地蔵と六字名号は石柱の屋根下にあってなかなか風情が感じられます。

地蔵は江戸時代のものですが・・・・。

撮影2011.3.4


奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野多尊磨崖石仏群-7

2011年09月05日 | 石仏:奈良

ここの磨崖は少し趣が違います・・・・、それほど多尊という訳では有りませんが、これも一連のものでしょう。

やっぱり民家脇の崖の一画にそれは刻まれていて、前には例のように個人墓の石塔が並んでいます。

苔の繁殖はそれほどでも有りませんが石質が脆い様で浅く彫られたものは何が何やら定かでは有りません。

ただ右側に有る三体の石仏は個々に舟形光背を背負っています。

やっぱり地蔵かな??。

確認されているのは寺内のものを除いて後2ケ所・・・・、またそのうちに。

撮影2011.6.27 


奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野多尊磨崖石仏群-6

2011年09月04日 | 石仏:奈良

忘れ去られたように墓地斜面に残る残る桃ケ野多尊磨崖石仏です。

桃ケ野集落の中段、こんな景色の中に有る墓地の片隅にも多尊磨崖石仏が・・・・。

墓地斜面の大石には半ば埋もれかけたような双体石仏

少し離れた岩の断片にも・・・・

そこかしこに、こうした多尊磨崖石仏が残されています。

斜面を少し上った竹やぶの中・・・・・直立する大石にも何体もの石仏。

周りは薄暗く藪蚊の大群で羽音のうなり音がうるさいほど・・・・・、それでもなんとか。

どうにも蚊音が気になって気もそぞろ・・・、まともな写真には成らない。

やっぱりここでも同じ目的、同じ様式・・

もう本来の目的はとっくに忘れ去られ、竹やぶの中でただただ立ち尽くすだけ。

もう誰も覗きにも来やしない・・・・。

撮影2011.6.27


奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野多尊磨崖石仏群-5

2011年09月03日 | 石仏:奈良

昼尚暗い崖下の弁天堂脇、山斜面の岩の表面を平らに整え石仏、月輪、名号碑の類が所狭しと刻まれています。

ここはもう名張川の流れに近い集落の下部、切り立つ斜面下には寂れ果てたお堂と庫裏?民家?・・・・・

 

やっぱり日影勝ち、苔や地衣類の繁殖がひどくて・・・・・

ここでは石仏の数より月輪や名号碑の方が遥かに大部分を占める。

 石仏は今まで見てきたものに等しく

 まだ下部には埋もれてしまった石仏も何体か有るようです。

しかしこれほどまで執拗に石仏を彫出させた原動力は、天に対する畏れだけなのだろうか??

撮影2011.5.14


奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野多尊磨崖石仏群-4

2011年09月02日 | 石仏:奈良

往時、この地には阿弥陀寺と云う寺が有り、その跡地に残る桃ケ野の多尊磨崖石仏の一つです。

<軽トラックが一台通るか通らないような集落内道・・・>

今は個人宅の庭(畑?)に成った一画にこの須弥山石の様な、異様な姿の多尊磨崖石仏が有る。

まるでピサの斜塔よろしく少し傾いて・・・・・。

手法や像容は今まで見てきたものに殆ど同じ。

時計周りに裏の方にも廻り込みますが、雑木の枝葉が邪魔になって良く見えないところも・・

この面では段違いに七段にも上へ上へと彫られています。

この大石には桃ケ野多尊磨崖石仏群最多の97体と5塔が刻まれています

この面は少なく双体石仏が三か所・・・。

やっぱりその殆どがこのような地蔵さん。

撮影2011.5.14


奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野多尊磨崖石仏群ー3

2011年09月01日 | 石仏:奈良

前回紹介した磨崖と道を挟んで隣の斜面に突き出した大岩にも多くの石仏が刻まれています。

磨崖石仏のある斜面の上は畑地に成っていて、いかにも山岳集落(山岳と云うには物足りない標高ですが・・・)、老婆が畑作業をする長閑な景観が見られます。

 ここでも磨崖石仏の傍らには個人墓の石塔、石仏は岩の表面を三段に分け横一列にびっしり彫り刻まれています。

この磨崖は南向きにも関わらずびっしり苔むし、風化の傷みも進んでいます。

石仏の真上にある木立の陰が苔には最適な環境を提供してるのかも・・・。

 

この辺境、渓谷沿い斜面の村にとって永禄年間の山津波は未曾有の天災だったに違いありません。

天を恐れ仏に救いを求めたものでしょう・・・・・。

素人彫の様な拙い造形に村人の切ない願いが滲んでいるような・・・

右側上部の月輪の中は胎蔵界大日の種字「アーンク」だという・・・。

斜面を少し上がった岩にも二対の双仏磨崖・・・・いかにも野の仏。

更にその傍らにもう一尊

ここまで村人を石仏造立に掻きたてた山津波は想像を絶するものだったに違いない・・・・・。

撮影2011.5.7