奈良、国中(くんなか)平野、その中心部「郡山市」に有る中世城郭の郡山城石垣には、無数の礎石や石塔石仏などが、奈良の寺院などから強制的に集められ、石材の一部として使用されています。
織田信長の命により筒井順慶が築きその夭折後、豊臣秀吉の異父弟にあたる豊臣秀長が入城したと云ういわく因縁の城です。
寺院の勢力を弱めるための施策としても有効な施策でも有った石仏狩りの餌食になったと思われ、石塔や石仏が今も石垣の間に見え隠れしています。
明治初年に城の建物は壊されたが、石垣や堀が当時の面影を伝えています。
そんな一つである地蔵石仏が天主北面の石垣に逆さに積み込まれ、今では「逆さ地蔵」と呼ばれ、その前には供養塔まで建てられています。
少し遠くからはこんな感じで確かに地蔵さんかな??と解る程度ですが・・・・。
相当立派な石仏だったように思われる石材です。
もう一歩踏み込んで見ると・・・・なかなかのもんです。
元通りに写真を回転すれば・・・・定形の地蔵菩薩立像、像高90cm、大永三年(1523)の銘が有り、まだ造立されて間もなく石仏狩りの餌食になったようです。
その後、石仏をさかさまに使った事が災いしたかどうか???しばしば城主が替わるはめとり、明治維新の取り壊しとなったようです。
仏罰適面かどうかは、誰も知る由もない・・・、けど、この地蔵さんはどう思っているのかな???
撮影2006.10.9