愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市誓多林(せたりん) 万福寺の石仏

2011年07月17日 | 石仏:奈良

先日紹介の茶畑の地蔵の辻を道なりに少し東に進めば誓多林の集落、集落東外れの田圃の向こう山裾に鄙びた小さな会所の様な建物の見えるのが万福寺。

僕が此処を訪れたのはもう5年も前のこと、圃場整備が行われている最中で昔ながらの棚田は、直線的な田圃に生まれ変わり少し残念。

鄙びた感じが良かった古い本堂??

しかし5年前には、まだ風情ある本堂や小さな蔵が残っていて、いかにも鄙びた里山風情を醸しだしていたが、最近になってその建物もすっかり新しく建てなおされたようです。

境内脇の墓地へと続く入り口辺りに地蔵を中心にして小石仏や五輪の残欠などが並んで居る・

中心に立つ地蔵は120cmの舟形光背を持つ定型の地蔵立像

特徴のある丸顔童顔、誰もが親しみやすく室町後期の像立、柳生街道を行くハイカーにも人気者だそうです。

向かって右脇には十九夜講の如意輪観音。

高さ70cmの舟形光背上部に23cmの像高・・・

なんとも愛らしく、二度三度と逢いたくなるような石仏さんです。

勿論江戸時代の造立。

左脇にはこんな庚申さんの青面金剛像・・・・、こちらもかなりの童顔でちょっと、はにかみ笑顔??

墓地には1m足らずの舟形光背、像高70cmの来迎印阿弥陀・・・・永禄五年の銘。

並立してちょっと小さめの定形地蔵・・・・、室町後期。

なんとも色々バラエティーに富んでいて一度に二度も三度も嬉しく成る様な・・・

オマケにこんな懐かしい景観が楽しめたり・・・・、記憶の片隅にある50年も昔の「僕のふるさと」に瓜ふたつ

撮影2006.1.13


 奈良市誓多林(せたりん)町 茶畑の地蔵

2011年07月16日 | 石仏:奈良

旧柳生街道を春日大社脇から登ってくると原生林を越え、石切峠の茶屋を越えるとなだらかな下りとなり、集落はずれの右手に小高い茶畑が見える。

昔はこの地蔵さんの前を柳生街道が通っていたらしく、この石仏は峠の地蔵と呼ばれていたようです。

だらだら登りの茶畑を登っていくと正面、周りを生い茂るススキの葉に囲まれて地蔵の他に石碑や六字名号板碑なども一緒に建っている。 

地蔵石仏は高さ2m足らずの舟形光背を持ち、像高155cmの定型地蔵菩薩立像。

厚肉彫りで刻み出された顔容は穏やかで優しげ・・・・・台座に蓮弁は無く裸足です。

いかにも野の仏として似合いそうな顔つきで庶民的、どこかで見慣れたような・・・・。

錫杖や衲衣などの丁寧な造り、様式から南北朝期の造立だと考えられているようです。

ススキの葉陰に隠れるようにして如意輪観音の石仏さん。

勿論十九夜塔の石仏で文化十一年 (1914)の銘が有り江戸後期造立。

ここでも村の女性たちの賑やかな声が響いたのであろう・・・。

石仏さんに見送られ下る茶畑の向こうには木立に囲まれた青田が広がり、なんとも鄙びた里山の景観です。

撮影2010.6.27


南山城村 田山阿弥陀磨崖石仏

2011年07月15日 | 石仏:京都

京都府で唯一の村である南山城村は、我が山城地域最南端、奈良県旧月ヶ瀬村や三重県伊賀市に隣接する鄙びた里山です。

大阪から伊賀方面に延びる国道165号線、月ヶ瀬口から茶畑の続く県道を10分も南進すると田山集落。

その入り口辺り道路の左手ギリギリにこの磨崖石仏がある。

このすぐ先には鎮守諏訪神社があって「田山花踊り」が雨乞いの民俗芸能として古くから伝承され今に伝えている。 

道路拡張の為か磨崖の部分だけを切り出して道路の隅に置いたものであろうが、元はどんな姿だったのだろうか??

街道を見下ろす阿弥陀さんだったのだろうか??

舟形光背を彫沈め、その中に像高約1mの右手与願、左手施無印の阿弥陀立像を中肉彫で刻み出している。

風化、剥落共に進み、その上地衣類の侵蝕も激しく像容も定かではない。

奈良に近いとは言え大和高原もこの辺りまで来るとローカル色豊かと言うか??素朴な石仏さんに出遭うことができる。

なんともほのぼの感のある磨崖石仏ですが・・、こんな道端に在って、そのうち車が突っ込まないかと、ちょっと心配・・・

撮影2006.1.28/2011.4.10


郡山城 逆さ地蔵

2011年07月14日 | 石仏:奈良

奈良、国中(くんなか)平野、その中心部「郡山市」に有る中世城郭の郡山城石垣には、無数の礎石や石塔石仏などが、奈良の寺院などから強制的に集められ、石材の一部として使用されています。

織田信長の命により筒井順慶が築きその夭折後、豊臣秀吉の異父弟にあたる豊臣秀長が入城したと云ういわく因縁の城です。

寺院の勢力を弱めるための施策としても有効な施策でも有った石仏狩りの餌食になったと思われ、石塔や石仏が今も石垣の間に見え隠れしています。

明治初年に城の建物は壊されたが、石垣や堀が当時の面影を伝えています。

そんな一つである地蔵石仏が天主北面の石垣に逆さに積み込まれ、今では「逆さ地蔵」と呼ばれ、その前には供養塔まで建てられています。

少し遠くからはこんな感じで確かに地蔵さんかな??と解る程度ですが・・・・。

相当立派な石仏だったように思われる石材です。

もう一歩踏み込んで見ると・・・・なかなかのもんです。

元通りに写真を回転すれば・・・・定形の地蔵菩薩立像、像高90cm、大永三年(1523)の銘が有り、まだ造立されて間もなく石仏狩りの餌食になったようです。

その後、石仏をさかさまに使った事が災いしたかどうか???しばしば城主が替わるはめとり、明治維新の取り壊しとなったようです。

仏罰適面かどうかは、誰も知る由もない・・・、けど、この地蔵さんはどう思っているのかな???

撮影2006.10.9


御所市櫛羅(くじら) 浄土寺辻の石龕仏

2011年07月13日 | 石仏:奈良

石仏としては取り立てて云う程のものでは無さそうですが…、石仏の有る景観風情が捨てがたくここにUPしておきます。

近鉄御所駅から葛城山ロープウェー口まで延びる県道沿い、櫛羅(くじら)集落東外れ、浄土寺辻にたたずむ地蔵さんです。

自然石切り石を左右に建て、屋根石に正面を唐破風ように加工した自然石を載せ、良い雰囲気の石龕を造り出している

石仏は白っぽい自然花崗岩の舟形光背を彫沈め、内に40cmばかしの地蔵を刻む。

しっかり涎掛けを巻かれて坐像か立像かも解らない始末。

地域の信仰も篤く手向けられた花や香も真新しく未だ香りも残ってっていました。

付近はいかにも大和民家が軒を連ねる旧街道筋・・・この景観は残してもらいたいものです。

撮影2007.1.4


奈良市下狭川 月ヶ瀬街道(笠置道)の磨崖石仏:[写真更新]

2011年07月12日 | 石仏:奈良

殆ど紹介されることの無い磨崖石仏さん。

京都笠置町から奈良市須川町へ抜ける県道33号線沿いに有って地元民は車で利用するが観光客などは滅多に歩かないので気付かないかも・・・。

勿論何の案内板も無く手向けられた花や香も新しくなく、いつのものやら解らない。

京都府側の笠置町から入っていくといつの間にやら通り過ぎて全く気付くことは無い。

此処は奈良県と京都府との境界線近く、奈良県側に有る奈良市下狭川町の最北端、もう直ぐそこは京都府笠置町。

大柳生、須川方面から来ると下狭川の集落が途切れ右手ゴルフ場に続く新道に出遭うがその先直ぐの前方左手正面にこの磨崖石仏と傍らの小石仏が見える。

此処から先道路が急に狭くなる突起の部分にこの石仏さんが鎮座しているので、いやがおうでもそれと気付いてしまうはず。

それまで2車線だった道路にせり出した岩にそれぞれ異なった彫り窪みを造り阿弥陀如来、地蔵菩薩、地蔵菩薩の三体仏を刻み出しているというが・・・

造高約30cmと小さく、天文八年(1539)の銘が在り室町期の様式化された素朴な造りです。

一見すると向かって右端が阿弥陀のように見えるんですがね???

磨崖にもたれかける素朴な地蔵さん。

傍らにもやっぱり地蔵さん。

前回見逃していた傍らの斜面に、突き出した岩へ彫り刻まれた六体地蔵さん。

長方形に彫り沈められた中に像高約40cmばかりの地蔵立像・・・

すっかり乾いた地衣類が覆っていて像様も定かではない。

しかし、こんな素朴な旧街道の磨崖さんは、なんとも僕の心を癒してくれる存在です。

撮影2006.9.16/2011.4.17


東近江市 引接寺(いんじょうじ)の小石仏群

2011年07月12日 | 石仏:滋賀

引接寺と云う寺はあちこちにたくさん存在していて、それだけでNET検索してもなかなかこの 引接寺にはたどり着かない程です。

ここで紹介する引接寺は「湖東三山百済寺」の末寺、百済寺(ひゃくさいじ)参道脇にある天台寺院です。

それゆえ織田信長の焼き討ちで百済寺もろともに灰燼に帰し、のち再建されたようです。

瀟洒な境内を越え、本堂脇から裏に回ると目がくらむほどの小石仏や五輪塔が累々と肩を並べて群立している。

その数約6000体とか??・・思わず息をのむ景観に圧倒されます。

この石仏石塔は寺が焼き払われた後、無縁仏として周辺の野辺に晒されていたものを信仰の力でここに集められ「来迎浄土」の名で呼ばれています。

中央にあたるモミの木の下には宝塔・・それを取り囲むおびただしい数の石仏石塔。

五輪塔の多くはこのような小さい一石五輪塔

かたやこちらは小石仏群・・・

頭一つとびぬけた阿弥陀如来

こんな阿弥陀も・・・・・。

すべからく例年8月22日には、一体一体にローソクの火がともされる「万塔供養(まんとうくよう)」が行われます。

とにかく一見には値する景観です。

撮影2008.6.1


野洲町 行畑(ゆきはた)背くらべ地蔵

2011年07月11日 | 石仏:滋賀

琵琶湖東岸、草津の宿で東海道と中仙道に分かれ、国道8号線沿いに琵琶湖東岸を進むのが中仙道。

草津宿から暫く行った野洲行畑の街道辻に、一昔前まではちょこんと並んで立っていたようです。

今では同じ行事神社鳥居前の空き地に立派な覆屋が造られ、その中に納められ大切に祀られています。

以前、野晒しだった頃は、背の高い方の石仏には涎掛けが掛けられていなかったようですが???、今はこの通り・・、二体共に赤い涎掛けがかけられています。

涎掛けがあると良く解らないのですが、かすかに肉髻が認められ阿弥陀さんかな??と解ります。

高さ約1.6mの舟形光背を背負う像高約1.3mの阿弥陀如来立像、しかし磨耗風化が激しく、まるでのっぺらぼう・・・

野洲町の文化財指定、鎌倉後期の造立だと言われています。

かたや小さいほうは子供のいたずらか??頭に少し窪みを造られた定型地蔵・・・、像高約70cm、室町末期の造立。

近所の子供たちが、小さいほうのお地蔵さんと同じくらいの背になれば、「もう一人前だ」と言われたことから『背くらべ地蔵さん』 と呼ばれ、7月24日には「行畑地蔵まつり」が行われているとか??

こんな柵に囲まれたら小さい子供は背比べも出来ないだろうに・・・・・

撮影2007.1.20


宮津市 成相(なりあい)寺、一願一言地蔵(ひとことじぞう)/他

2011年07月09日 | 石仏:京都

言わずと知れた西国西国三十三カ所霊場第二十八番札所、日本三景「天橋立」を見下ろす成相山中腹に建つ。

「成相寺」は「願い事が成りあう寺」として、また山岳宗教の修験場として古い歴史を有する古刹です。

この広い境内の本堂へと続く中段の石段左脇に「一願一言地蔵(ひとことのじぞう)」と呼ばれる地蔵石仏がある。

南北朝時代 康安元年(1361)の紀年銘がある古石仏だそうですが・・・、意外と痛みも無く一見それほどの物とは見え難い。

大きな蓮弁を持つ連座に座す定型の地蔵菩薩坐像。

鼻の頭が欠けていて痛々しいが全体的には保存も良好

 

一つの願いを一言でお願いすれば必ず叶えてくれると伝えられている

頭から真っ赤な涎掛け、光背からも長い長い紐を巻いて涎掛け、夏にはさぞかし暑かろうに??

駐車場横から山上展望台への道路わきには、小石仏や五輪塔などがずらりと並んでお出迎え。

こちら阿弥陀三尊・・・脇侍には地蔵菩薩が居たりして・・・

阿弥陀如来板碑は単純明快、それが素朴で心地よい。

成相寺からは「日本三景天橋立」が良く見える。

撮影2008.5.17


奈良市高畑 新薬師寺の石仏群-3(境内他)

2011年07月08日 | 石仏:奈良

新薬師寺の第3弾・・・覆屋外の石仏で先ず気に成るこの石仏さん。

本堂裏、土塀際に立つ二体のうちの一体・・、余り見慣れない石仏です。

色々調べて見るとどうも側面に九丁の文字が刻まれた石仏町石だと言うが??、どこにそれらしき文字が刻まれていたのやら??

見慣れない石仏は毘沙門天で像高40cm、いずれにしても毘沙門信仰の町石だとされていて珍しい。

本堂には国宝の十二神将も居るけれど・・。

隣に立つ十一面観音石仏は右手に錫杖を持つ長谷寺形十一面、像高50cmには満たない。

小さな門を潜った庫裏の前庭には地蔵板碑・・・その向こうには古風な宝篋印塔。

高さ約1mの自然石上部に舟形光背を彫り、像高30cmにも足りない定形地蔵立像を刻みだしている。

「慶長十六年(1611)六月廿四日敬白」の刻銘が有り、下部には多数の法名が刻まれていて、地蔵信仰が盛んだったことが伺われます。

石仏覆屋と地蔵堂に挟まれた土塀前には小石仏の集積

中でも目に付く痛々しい姿の地蔵立像・・・・向かって右手錫杖を持たない古風な矢田型・・・・・・、左手の地蔵さんは余りにも痛々しく全容も想像もし難い。

地蔵堂横、凝灰岩の層塔は、元十三重の石塔だと言われるが?現在五重の石塔、下部軸部、初層は平安後期のものと思われ、創建当初のものだとか??

初層軸部は、月輪内に金剛界四仏の種子を刻み、前に立つ石柱には「實忠和尚 御歯塔」と記されていた。

新薬師寺東門前の通りは懐かしい古都奈良の景観を見せている。

撮影2011.6.29


奈良市高畑 新薬師寺の石仏群-2 阿弥陀石仏/地蔵石仏

2011年07月07日 | 石仏:奈良

とても一気には紹介しきれなくて・・・・・、2ページ目の今日はこの阿弥陀さんから。

一列に居並ぶ石仏、中央の二体が飛びぬけて大きく、やっぱりどうしても目の行くのがこの阿弥陀石仏。

ぽっこり突き出した胴周りがなんとも・・・・、この阿弥陀さん中年親父??(失礼)

総高約2m、舟形光背を背負い蓮華座の上に立つ、像高155cm。

殆ど丸彫り近くまで厚く彫り出され量感はこの上ない。

光背の上部で断裂、色が変わっているが・・・、この部分は近くの川に有ったのをつなぎ合わせたらぴたりと合致したという。

顔容衣文も木彫仏を思わせるほど流麗、上品下生の来迎印を持ち鎌倉末期の作造だと言われています。

中央に立つ地蔵石仏、舟形光背を負い、蓮華座上に立つ定型の地蔵菩薩立像を半肉彫りにして流麗。

高さ約1.8m、永正三年(1506) の造立。

阿弥陀左脇に立つ地蔵菩薩立像は高さ134cmと一回り小さく、大永五年(1525)室町後期の造立。

像の下方には当時の彩色痕が残り、何処と無く温もりを感じます。

撮影2011.5.29


奈良市高畑 新薬師寺の石仏群-1 地蔵十王石/如来形石仏

2011年07月06日 | 石仏:奈良

なんとも凄い石仏さんたちが居並んでいる。

此処は、古都奈良をこよなく愛する人が隠れスポットとして愛するあの十二神将で名を馳せる古名刹・・・。

それでもこの石仏さん達に目を向ける人はほんの一握りの人達に過ぎない。

依然来たときはこの覆屋全面に金網がかけられ、鶏小屋よろしく金網越しに撮影したものだった。

今回はその金網もすっかり取り払われ、真近に近寄れ自由に撮影することが出来る様に成っていた。

両脇に六字名号、その内に、向かって左から地蔵十王石仏、如来形石仏、地蔵石仏、来迎阿弥陀如来石仏、地蔵石仏と一列に居並ぶ。

先ずは地蔵十王石仏・・・・、下部は地中に埋まり良く解らないが??総高約1m、幅広長円形の光背を背負う。

中央には、右手は来迎印、左手に宝珠を持つ、古式豊かな矢田型の地蔵菩薩を厚肉彫りする。

光背両側には五体づつ、お決まりの十王像。

ちょっと他では見られない頭上に刻まれた六体・・。

地獄の様相だと言われる、向かって左に駆ける馬、逃げ惑うような人物像が四体、続いて炎に包まれる釜だという??が刻まれている。

刻銘は無いが鎌倉後期の作造だと思われ、つぶさに当時の死後世界感が見て取れる様で興味深い。

その右手には此処での一番の見もの、なんとも古式な如来形石仏が立つ。

高さ約1.5mの自然花崗岩の表面を平面に加工、壷形光背を彫沈め像高1mばかしの如来像を半肉彫りで刻み出している。

像は、その信仰の為か??磨耗が激しくまるでのっぺらぼう・・・、薄く表された納衣も流れるような古式で見慣れない。

手印も中世石仏には見られないもので奈良後期の作造だとも云われ、芳山二面石仏(奈良時代後期)に瓜二つ。

何か関連性が有るのか非常に興味深いものが有る。

撮影2011.5.29


奈良市雑司町 五劫院(ごこういん)見返り地蔵石仏、地蔵十王石仏/他

2011年07月05日 | 石仏:奈良

前回紹介の空海寺より通りを北へ100m程、四辻の北西角に五劫院という名古刹がある。

源平の争乱で焼失した東大寺を復興へ導いた重源(ちょうげん)の開基に依る東大寺の末寺で五劫思惟阿弥陀仏像を本尊とする。

本堂のの裏には広い墓地があり、その入り口辺りの小さなお堂の中に二体の大きな地蔵石仏が祀られている。

向かって左、ちょっと黒っぽい石仏が「見返り地蔵」と呼ばれる地蔵石仏で、誰一人として見逃すことなく極楽へ送り届けるようにと振り返っていると言われています。

顔面をやや左に曲げ、体を斜めにして歩行する姿を表し、右手錫杖、左手宝珠を持つ地蔵を厚肉彫りで刻み出している。

安山岩で総高2m、像高約1.5m、永正十三年(1516) の刻銘が有り、室町時代中期の造立。

信仰篤いためか磨耗が進んでいるようにも見えるが??・・・・、元々このような彫だったのだろうか??

このように実際首をひねった石仏などは、他に見たことがない。

 右手にはほぼ同じ体躯の定型地蔵、こちらは洗練された美しさをもっている。

やっぱり室町中期の造立。

墓地に進んで小石仏の集積の中央には大きな地蔵十王石仏が三界萬霊碑と共に立つ。

高さ約2m 幅約90cmの長方形花崗岩に、像高145cmの定型地蔵立像を刻み出し、光背の左右に十王像を配し、室町後期の造立。

奈良市街地域には多く、ここでもやっぱり地蔵十王石仏が信仰されている。

撮影2011.6.29


奈良市雑司町 空海寺の十王地蔵石仏

2011年07月04日 | 石仏:奈良

大和地域では良く目にする事のできる十王地蔵石仏が此処にもある。

奈良公園、東大寺境内の裏側、北方にあたる一画に建ち並ぶ住宅街が雑司町。

そんな家並みに隠れるようにして、空海が弘仁年代(820年頃)草庵を営んだのが寺の起こりとされる古刹「空海寺」がひっそりと佇んでいる。

山門から境内に入って本堂前に立つと、向かって右手に大きい地蔵石仏が立っている。

舟形状に加工した花崗岩に定形の地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻みだし、光背両側には五体づつの十王像が配している。

別石の蓮華座上に立つ、総高1.8m、像高1.33mと堂々とした大きさ・・・、しかし哀しいかな迫力は微塵も感じない。

元、大和郡山の「矢田寺(やたでら)」に有ったものが転々とし、明治初期にこの寺に移されたと言う・・。

本来のあるべき場所を転々とした悲しみを耐えているようにも見える顔つきで??室町時代後期の作造。

本堂右手にも小石仏の集積が有り、ひときわ目を引く地蔵石仏が・・・

大和には多い切れ長の眼を持つ定形地蔵、天正十二年の刻銘を持ち安土桃山時代の1584年の作造。

寺は充分すぎるほど整備され、古刹としての風格には欠けるきらいが感じられる

撮影2011.6.29


天理市岩室町 阿弥陀堂石仏さん 

2011年07月03日 | 石仏:奈良

天理市柳本からの帰りがけ、田舎道の田圃の中を走っていて突然目の前に現れた石仏さん。

国道24号線と国道169号線に囲まれた田園地帯の中に在る岩室集落、その東側に有る小川沿いの田圃にこの石仏さん達が立ち並んで居て、なんとも不思議な景観。

真ん中には一番大きい阿弥陀立像、向かって右端には弘法大師、次に地蔵、左端にも小石仏、次に舟形光背を持つ地蔵菩薩立像。

地元ではこの田中の土壇を阿弥陀堂と呼び習わして居るようですが元は集落内にあったものをこの地に移したようです。

なんとも見慣れない景観はそのせいだったようですが・・・・。

三角頭の自然石に彫られた地蔵さんはさんは室町末期・・・・。

舟形光背の地蔵菩薩は天文銘を持つ鎌倉期の像立。

中央、阿弥陀は舟形光背を掘り沈めた中に半肉彫りで刻みだされた江戸中期の作風だとか・・・

しかし殺風景な田圃の中に立つ石仏さんは何処かしら馴染まない。

集落の阿弥陀堂が廃寺になってこの地に移設したものだろうか??

撮影2006.5.28