愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京都府、笠置町切山集落

2010年12月09日 | 街道街並集落 景観 

笠置町の木津川沿いに走る国道163号線の北側,南面する山肌にしがみ付く様に建ち並ぶ切山集落。

R163号笠置大橋交差点の少し手前、伊賀方面に向かって左手、モーテル横の集落への進入路から一気にジグザグ登り、4~5回ヘアピンを繰り返すと下段の集落に至る。

<途中の斜面にはこんな藁塚も見られる>

此処まで登ると下界の国道を走るトラックの喧騒も無く静寂が包み込む別天地、集落は山肌に横並びに延びるではなく道路脇に石垣を積み上げ狭いながら平地を作り、下から上に縦長に延びて点在している。

海抜130m辺りから250m辺りまで高度差約100m強の間に約50軒、山肌集落にしては新築の家も目立ち凡そ130人が暮らす。

どんどん高度を上げていくと民家もまばらに成り、懐かしい屋根の家も見えるが、荒れ果て最早手のつけようがない家もみえる。

良い風情なのに勿体無いような・・・、しかし暮らす分には厳しいのだろう???

<唯一何とか棚田らしさが残る斜面>

グーグルアースで眺めて見ると山肌に大きく棚田が広がって、その傍らに点々と民家が並んでいるように見えるが、現地に行くと、棚田に見える処も殆耕作放棄が進み荒地化していて最早棚田とは思えない 。

この地区25ヘクタールの農地のうち約7割が放置状態に成っているという。

遥か下界は遠いように見えるが車でなら5分もかからないで町の中心に着く。

それでも山の斜面の集落は見る分には美しいが、地すべりの危険区域に指定されているほどで自然災害とは隣合わせのようです。

撮影2010.12.01

旧伊賀街道、笠置峠の集落

2010年12月08日 | 街道街並集落 景観 

我が南山城に殆ど人知れず、地元の僅かな人だけが時たま利用するに過ぎない忘れ去られた伊賀街道の古い峠が有る。

山城の母なる川が大きく蛇行してその流れを東西から南北に変える木津川市山城町から木津川沿いに走る事約15分、笠置町の中心地付近の笠置大橋交差点に至る。

笠置町は京都府の最南端に位置し、人口約1700人世帯数約700と府内で一番小さな町で、シンボルでもある笠置山は古くから信仰の対象とされ、弥勒大磨崖仏、後醍醐天皇の行在所などを擁し史跡も多く、その前を流れる木津川は巨岩織り成す清流に四季を通じて豊かな自然を楽しめる処として多くの人たちが訪れている。

 笠置大橋交差点を越えて道なりに少し進むと笠置トンネルが目の前に見えて、信号も無く目立ちにくいが左に折れる旧峠道がある。

トンネルが完成したのは昭和55年3月、それまで国道163号は七曲がりと呼ばれ、難所と言われたトンネル右手の木津川の崖淵を離合不能な一車線道路が通じ手前の信号で交互通行と成っていた。

その昔は伊賀街道とも呼ばれ木津川では帆掛け舟の水運も盛んで笠置浜には数軒の船問屋、倉庫が軒を並べており賑わっていたというが、その頃から旧峠道は既に交通量が非常に少なく、空き地も目立って寂れていた。

峠道に入ると直ぐに登りで高い石垣を積んだ屋敷跡が目に入るが今はただ空地と化し、傍らには小さな地蔵祠が佇んでいる

この辺りが笠置町の中心、役場や小学校なども傍らに有るのだけれどまるでそれが嘘の様に静まり返っている。

伏見の酒造メーカーとして有名な大倉酒造創業者、初代・大倉治右衛門(おおくら・じえもん)は寛永14年(1637)笠置の大倉善右衛門家より分家、伏見に出て酒造りを始め、当初屋号を笠置屋、酒の名前を「玉の泉(たまのいずみ)」としたという、勿論当時木津川が泉川の名で呼ばれていた事にちなんでの銘名に違いない。

当然この辺りに屋敷跡でも残ってないかと訪ねてみたが大倉と云う苗字の家も見当たらないということだった。

車がやっと通れるほどの細い道路を登っていくと登り始めの2~3軒は家も新しく建て替えられ活気も感じられるが、少し歩を進めた急坂より奥ではすっかり時間が止まったような景色に出会う。

町の中心からほんの2~3分急坂を登るだけでこの始末・・・

道路の両側には建物跡の石垣だけが妙に目立って物哀しい・・・・・しかし町の公共施設は目と鼻の先。

この2軒の民家はまだまだ健在、しかし周りは石垣だけが残る空地です。

笠置峠最奥に有る民家、ここもやっぱり廃家のようです。  峠道に入って約300mもない距離なんだけど・・・。

最後の家から峠まで約200m程途中にはまたまた地蔵さんの祠。

峠の頂上にはかって茶店が有ったという、その跡地には小さな祠と水飲み場。

峠を越えるとここは同じ笠置でも有市の集落。

こちらは峠ギリギリまで民家が密集、まだまだ活気が感じられ、家も多く密集していて新しい。

峠の西と東、どっちが裏やら表やら、それにしても集落を縫って進む峠道は狭く

険しく、車の駐車スペースにも事を欠く。

まるでジェットコースターにでも乗ってる様な急な下り坂、集落の屋根越しに見え隠れする木津川の穏やかな流れ。

麓まで降りると、峠の旧道が嘘の様な穏やかな田舎道となる。

撮影2009・2010・・何度か


奈良県十津川村内原集落

2010年12月07日 | 街道街並集落 景観 

 前回紹介の奥里集落から川沿いに下る事約5分、川が大きく蛇行してちょうど道路の右手に台地状の空き地に駐車スペースと清潔に保たれたトイレが有り、そこから見ると内原集落が手に取るように見渡せる。

山岳集落とは言え比較的緩やかな南面する斜面に2~30戸の民家が滝川の谷を見下ろす様に雛壇状に並んでいる。

滝川対岸のやや開けた段丘には小規模ながら良く整えられた棚田があり緩やかな集落の斜面はことごとく耕地として利用され豊かに野菜が育っている。

平地の少ない山岳集落では四季を通じて見られる稲架屋(地元では「ハデバ」と呼んでいる)が彩を添えている。

棚田や耕地が比較的多い内原の集落は山岳集落にしては豊かで土蔵の有る家も多く、若者の乗る車も停まって居たり現代風の住宅も見られ、この集落にはまだまだ限界集落という言葉には抗う力強さが見られる。

やっぱりここでも吹き上げる強風から屋根を守る「スバル板」と呼ばれるスカート状の破風が取り付けられている。

下段の新しい民家では2階屋も見られるが上段民家はやっぱり軒の低い一見粗末に見える横長の建物が多い。

しかしやっぱり小学校は廃校、公民館と名を変えている。

 

役目をすっかり終えてしまった車の通れない橋の向こうに小規模な棚田、石組みを施して宅地と耕地を確保した山岳集落が何時までも持続する社会であって欲しいと願うのは勝手なことだろうか??。

撮影2010.11.20


奈良県十津川村奥里集落

2010年12月06日 | 街道街並集落 景観 

十津川村は奈良県の五分の一 程の面積を有する日本最大の村で紀伊半島の中央部、紀伊山地の深い山々に囲まれた遥か辺境の地に有る山村です。

その中央部を深い谷になって流れる十津川は「遠つ川」とも呼ばれ、紀伊半島の分水嶺天辻峠付近に源流域を持ち、途中あの修験道発祥の地として名高い大峯山から流れ来る天の川や他の支流を集め十津川となり県境を越え和歌山県本宮付近で熊野川に合流、新宮付近の熊野灘へと注いでいる。

十津川に沿って走る国道168号線は酷道としても名高く、いつ走ってもどこかで補修工事が続いていて、紀伊半島山間部の自然環境の厳しさを思い知らされる。

十津川流域の集落は殆山肌にへばり付くように点在しており現在に於いては少なからず限界集落であり過疎の村々です。

奈良県五條市でR168に入って約2時間足らず、十津川の風屋ダム付近で左折、十津川の支流の滝川を遡る事約20分、この流域再奥集落の奥里集落に至る。

奥里集落は滝川の蛇行に橋をかけ南面する斜面の中腹を民家と民家を繋ぐジグザグ路が駆け上がって居る。

集落の外れには小規模ながら棚田、各民家の周囲には小さな耕地も持ち、自家栽培の野菜畑なども有って、里山と何ら変わらない風景も合わせ持って居る。

水田の少ない山岳集落にあって、水田を持っていることによって「天界の村」としては比較的裕福な集落であるのか?母屋も大きい。

しかし殆は棟が低く屋根の勾配もゆるく、学校の校舎を思わせる様な横に長い造りで板壁づくりの家が目立つ。

それはこの地方が降雨が多く風の通り道になる事への配慮なのだろう。

<強風や吹き上げるに耐える工夫がされている民家・・・・、しかし現在は廃家と成っているようだ>

やっぱり廃家も多く村人に出会うこともなく、ましてや若者の姿など見られない限界集落です。

それはそれで悲しくも美しい。

撮影2010.11.20


伊賀市西山 御斉峠(おとぎとうげ)の石仏

2010年12月05日 | 石仏:滋賀

この石仏は何度も何度も近くまで行って居ても見つけることが出来なかった石仏さん。

<新道御斉峠・・甲賀側から伊賀側を見る>

御斉峠(おとぎとうげ)は甲賀と伊賀を分ける信楽高原の高旗山頂上近くに在って、その昔「徳川家康」が明智光秀の変の折,大阪から急遽自領へと逃走した伊賀越え道として名高い。

<伊賀側麓の西山地区辺りから見た御斉峠付近・・・・中腹辺りに山肌を削った新道>

石仏はこの家康が逃走道として案内された御斉峠の旧峠道脇に有ることはわかっていたが新道を何度自動車で探してみても旧道への進入口が見つけられなかった。

それがひょんなことで旧道への進入口が見つかったので早速石仏探索に出かけた。

新道の峠から少し伊賀側に下った旧峠道への進入口・・・・ガードレールの切れ目が有るだけで何の表示も無く車で走り抜けているだけでは全く解らない。

少し下って新道を見上げる。急傾斜の上に落ち葉道・・・・・・

落ち葉を踏んで人が歩いた形跡など殆ど感じられない。

新道から獣道のような旧道を下ること約15ぐらい、クネクネ曲がりの右手に大きな岩が見えてその上部に1m弱の舟形光背を彫りくぼめ下部には蓮華座を設け60cmばかりの阿弥陀如来立像を半肉彫りにしている。

残念ながら忘れ去られたような存在、何の表示も無く全く人が近づいた気配も無く。

これではこの石仏さんに出会って手を合わせた人は地元の人でもほんの一握りだろう??

花崗岩でそれほど痛みも酷くないが、磨耗も進んで細部までは確認できない。

それでも今まで永らく見つけることが出来なかったので何処と無く懐かしさに出会えたような気がした。

室町初期の像立だといわれており、かの家康も此処まで来て、この阿弥陀さんに手を合わせ、目の前の伊賀の郷をどんな思いで眺めたことだろう・・・。

< 峠付近から見た眼下、伊賀の郷>

 

阿弥陀石仏より少し下ると 落ち葉に半分埋もれるように有る地蔵石仏??

30年ほどの前の本には道端の岩には地蔵磨崖仏・・・・となっている。

ここ30年の間に磨崖は割れて砕け落ち、御斉峠には新道が出来、峠道は旧道となり今や通る人とて無い廃道寸前の落ち葉道。

両石仏共に人知れず、この山塊に埋もれてしまうのもそう遠くないような気がしないでもない。

撮影2010.11.28


奈良県天川村、塩野集落

2010年12月04日 | 街道街並集落 景観 

前回紹介の広瀬集落より山肌を縫って進む旧道を5分も行くと塩野の集落に着く。

勿論天ノ川沿いの県道に降りても良いが遠回りになる 、県道が谷川沿いに付けられるまでは山岳集落はすべてこの様な尾根道伝いに繋がっていたようだ。

<小学校跡に建つ公民館付近は民家が一番多い>

この山岳集落は規模が大きくその昔は小学校も有していて、その跡地に今では公民館が建ってって居る

民家の総数としては40軒近くも有るようだが殆人を見かけることはなく、人の気配が消えた建物が多くやはり限界集落。

山岳集落では珍しく朽ち果ててはいるが土蔵有る家も有った。

以前は猪牧場も有ったりして、中腹には割と広い目の耕地があって野菜を作ったりしている。

麓から物資を上げるために使われたであろう山岳集落独特の運搬具、野猿かな??

もう今では使われることもなさそう・・・。

最上部付近に鎮座していた天神社(車載カメラにて)

 

集落内の道は離合困難な一車線ばかりのジグザグ道が天界へと続く。(車載カメラにて)

中段から見上げる集落はあまりの急斜面でめまいがしそう。

見下ろしても底はただただ深い谷、主の居ない家も荒れ果て無いように管理は行き届いている。

この集落の最上部には珍しく狭いながらも水田があったのには驚かされた。

撮影2010.11.20


奈良県天川村、広瀬集落

2010年12月03日 | 街道街並集落 景観 

奈良県はその北端部、京都府県境にある奈良市を含んだ近郊地域の国中(くんなか)平地を除くともっぱら山また山で、その殆が深い山中に有ると行っても過言では無い。

奈良県のほぼ南半分を占める吉野郡の中央部に位置する天川村も深山幽谷の趣が強く、「近畿の屋根」とされる大峯山系の山懐に有って正しく秘境の名に恥じない。

天川村では唯一の信号だという村役場の有る川合の交差点で県道53号線に、離合も困難な狭隘路が多い天の川峡谷沿いに約20分、山肌にへばりつく様な集落が頭上遥か天上まで延びているのが見える。

山肌を縫うように走る集落へのジグザグ道でクネクネと高度を上げていくとポツポツと1曲がりごとに2~3軒の民家がが道路脇斜面に建っている。

本来村の中心はかなり上段にあったのだろう寺や民家は中段以上に集中しているが、それでも総戸数20軒足らず、他所者が集落を徘徊するのは憚れるが誰独りとして出会わなく静まりかえって、限界集落の感は否めない。

その昔は戦の必需品である弓竹の矢の産地としても知られ、南朝方、織田・豊臣両氏に矢竹を上納していたという由緒有る古い集落、山肌に耕地と呼べるようなものは無いに等しく,わずか民家の傍らで自給程度の野菜を作ってる民家も有った。

見下ろせば急峻な谷に沿って県道は遥か下界を走っていて交通量も殆ど無いに等しい。

道路に面しない民家にはまるで綱渡りの様な崖淵道が付けられている。

撮影2010.11.20