愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

大津市坂本、大文字屋の地蔵石仏、早尾地蔵石仏

2010年12月27日 | 石仏:滋賀

大津市坂本は比叡山延暦寺の里坊で開けた門前町、日吉大社境内前に穴太(あのう)積みと呼ばれる石垣や懐かしい建物が軒を連ねて独特の景観を見せている。

11月の中頃、少し早い紅葉でも見に行こうと日吉大社を訪れ、坂本の街並みをブラブラ散歩・・・・。

ふと歩を停めた懐かしい店先で立ち話をしているおばあちゃん。

その軒並みに目を留めた小さなお堂・・・覗きこんでいたら先ほどのおばあちゃんが「お地蔵さん みとくれやす」と言って近づいて来てくれた。

ありがたき幸せ。

正面扉の枡障子??・・・・・小さな八角吊り灯篭がよく似合う。

障子を開けて見せてくれた地蔵さんは大きな白木の厨子におさまっていた。

この地蔵石仏は、元々今の比叡山中学校の敷地にあった廃寺に祀られて居たそうですが寺が火事になり倒されていたのを、当家「大文字屋」さんの何代か前の当主が

ここまで持ち帰り、お堂を造りお祀り大切にしてこられたようです。

地蔵石仏は石棺蓋石にでも見えるような花崗岩の扁平な石に中肉彫り、等身大の像高を持つ立派なもので、「亀の錫杖が立派でしょう」と説明してくれたが銘や下部については確認する術も無かった・・・・・・ただ火事に逢ってか?大きな亀裂が2箇所ほど確認出来た。

鎌倉期のものだろうか??「大文字屋延命地蔵」と言われているようです。

また日吉大社正面鳥居の脇には立派な六角地蔵堂が在って延暦寺開闢の伝教大師最澄が自ら刻んだと伝えられる地蔵石仏が祀られている。

直ぐ傍に石段上に有る早尾神社に由縁か「早尾地蔵尊」、「かくれんぼ地蔵」、「子育て地蔵」などと親しく呼ばれ、今なお篤い信仰を集めている。

地蔵石仏は花崗岩を舟形光背型の厚肉彫り、ただ信仰が激し過ぎたのか手擦りに寄る磨耗が激しく、目鼻立ちも良く判らない程・・・・

お前立ちに阿弥陀に見える石仏さん。

石仏としての歴史的美的価値は疑問だが、信仰の篤さは延暦寺や日吉大社とあいまって飛び切りです。

立派なお堂の奥で大切にされてるからか、野の石仏に抱く素朴な良さは感じるべくもないけれど・・・・

撮影2010.11.13


滋賀県東近江市 廃村旧大萩集落

2010年12月27日 | 街道街並集落 景観 

<無くなった集落の小道に残された主の居なくなってしまった小さな祠>

奥永源寺の蛭谷や君が原の木地師集落を訪ねた帰り道、県道34号線をそのまま進んで萱原集落へと思って居たが、12月に入って萱原への県道は冬季閉鎖で通行止め、仕方が無いので道成りに進む県道229号で山中から出ることにした。

県道34号が大きく迂回し道成りの道路がそのまま229号へと名称を変えて直ぐに出会うことに成る哀しい景色

此処は旧大萩集落跡地、麓から来れば一番奥まったところに唯一残っている建物、此処は旧愛東村二代目村長の辻仁一氏の生家、

隣の土地には氏を讃える碑と胸像が建立され、萩の宮と書かれた小さな神社もある。

集団離村後も住まわれていたのだろう、この家だけが原型をとどめていた。

正面からは立派に見えるこの建物も灯が消えてから相当時間がたつのか裏に廻ればひどく荒れていて目を覆うばかり・・・。

今から約40年前の昭和47年9月の台風20号に拠る山崩れのために壊滅的な被害を受け、それが引き金となって昭和50年の4月集団離村、旧大萩は廃村の道を辿ったという。

集落の中ほどと思われる道端には金色の観音さん、かつての集落の地図、大萩についての解説が刻まれた碑などがある。

集団離村当時60戸、263人とある。

道路を挟んで、旧大萩集落の屋敷跡の石垣が主をなくしてしまって累々と続く。

鎮守の白髭神社は荒れているもののまだまだ手入れは行われているようで哀しい姿にはなっていない。

集落外れの墓場は寂しい風景ながら良く手入れされ、両墓制の墓地がそのまま残っていてる。

1982年に映画化された『茗荷村見聞記』の上映がきっかけとなり、大萩地区に「茗荷村」が実際に誕生することとなり、心打たれた地元住民らが土地の無償貸与を約束し、翌年開村の運びとなった事もこの廃村集落をすっかり山野に帰ることを食い止めているだろう。

撮影2010.12.11