Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

孤陰不生,獨陽不長の響

2019-11-03 | 
土曜日の早朝は寒くはなかった。それでも雨雲の間隙を縫って走るのはそれなりに合せなければいけなかった。裸で走るので風邪を引かない様に気を遣う。やはり夜中に寒気が走った。暖房を入れるまでもう一週間の辛抱と思っていたが、予報を見ると週明けの悪天候で最高気温が下がって、来週の方が温かくなりそうだ。そろそろ火入れした方が賢いかなと思った。

土曜日の夜は、オランダからの「ヴァルキューレ」を流しながら、ベルリンからの中継に備えていた。程度の悪い「ヴァルキューレ」などどちらでもいいのだがそこで振っている指揮者を来年聴かなければいけないので馴染んでおこうと思うからだ。ある程度手の内は見えてきて更に関心はなくなってきているが仕方がない。

ズビン・メータの日本公演に向けてのインタヴューも観たが、やはり面白いことを話していた。指揮者へのアドヴァイスとして、自分自身がオランダの指揮者ベイヌウから授かった通り水泳を挙げていたのは良かった。先日もイスラエルで泳いでいる写真が出ていたが、足が不自由でも泳ぐには支障が無いのだろう。癌の転移さえ副作用無く抑えられれば来年も活動が期待できるかもしれないが、これだけはなんとも言い難い。

16歳でヴィーンにやって来てと、父親の影響もあるだろうが、その音楽の原点はみっちりと本場で形成されていて、語学も母国語グルジイよりも兄弟とも英語で電話して、独、伊語も使いこなしてととても国際的である。スヴァロフスキー教授に関して、師匠筋の新ヴィーン学派以外にもリヒャルト・シュトラウスとの緊密な関係にも言及して、メータ自身もベーム博士からニキシュリングを譲り受けたのがよく分かる系譜である。

スヴァロフスキーの弟子として名が挙がっている著名指揮者などのリストを見ても超一流のメータと肩を並べるような者はおらず精々シノポリやヤンソンスぐらいが一流範疇で他はキャリア以前に比較にならない。その意味からすればヴィーン音楽の本流を継承しているのだろう。そうした音楽がまさしく後半の英雄交響曲の演奏で、似たような体験はそのベーム博士の指揮以外に覚えが無い。カラヤンもクライバーもその領域からは大きく外れて、最近はフルート奏者のパウが言うようにキリル・ペトレンコがそれを身に沁み込ませているというような要するに近代音楽の保守本流だろう。

兎に角、復活祭の「オテロ」のリハーサル時にフィルハーモニカーによって語られていたように、どうしてあのような管弦楽のバランスが脈々と吹き出てくるかが分からないというような魔法の様な指揮である。そして曲を熟知していて、教授のやるような一拍一拍の音とその繋がりが楽理的に完全に把握されていて、それが大きな伽藍の様な宇宙を作り上げる。出るところ入るところが確りとバランスされていて陰陽の世界であり、孤陰不生,獨陽不長としか言いようがない。自らの人生のお友達とする英雄交響曲であるが、その最終楽章の序奏から楽聖の全てが音化されていた。正真正銘である。

そして前半のドン・キホーテとサンチュパンサの語りも素晴らしく、最近はあまり指揮していなかったというが、室内楽的な楽器使いと一か所風車に立ち向かう場面の全奏とかの「面白さ」を知り尽くしていて、そしてこれほど感動的に演奏されたのは初めてではないか。決してカラヤン指揮などでは出来なかった演奏だった。

ベルリンの来年のティケットが販売になっていた。出遅れてから見たので、どれほど定期券との差なども分からなかったが、ミュンヘンのオペラの入券の難しさに比較すれば容易そうだと思った。また何時か必要な時があると思う。興味深いのは、放送が最終日にあるときなどは皆がそれを狙うので、そろそろペトレンコ指揮では初日が安全運転にしかならないことが知られてきているようだ。まだ当分は定期の演奏会よりもツアーでの再演の方が演奏の質が高まることが続くだろう。初物買の何とかはベルリンも東京にも共通する都会市民特有の消費心情があるのではなかろうか?



参照:
探し物はどこでしょう 2019-10-20 | 音
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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