Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

二重帝国の響きとは

2019-11-21 | 
先週のチューリッヒの演奏会前半でヴァイオリン協奏曲を弾いたアリーナ・イブラギモーヴァについてノイエズルヒャーが書いている。どうも昨年同じようにルツェルンでハイティンク指揮で同じ曲を弾いたようで、今回もその独特の弓使いの強い個性にドホナーニの方がどのように反応するかに興味があったようだ。丁度私と反対の視線だが、やはり三楽章で目を合わせてと言うところを書いていて、上手く行ったと絶賛している。この韃靼人のヴァイオリニストが世界の大きな市場へ出て行く入り口として評価している。ターゲスアンツァイガーの方には初日にスタンディングオベーションがあったと書いてある。サクラが入っていたか?

前社には僅かしかシューベルトについて触れていない。後社はその倍以上ぐらいだ。そしてブルックナーとの関連性を書く。しかしこの大ハ長調交響曲はやはり音楽ジャーナリストには難しいのだろうと思う。

承前)それは三楽章のスケルツォでも顕著でカノン風の受け渡しでも活きてくるのだが、三拍子のレントラーの副主題や対旋律の分散和音の素晴らしい事。全くクリーヴラントでは弾けていなかった。最早インターナショナルなチューリッヒの管弦楽団であるが、朝からTVを点ければアルプスの音楽が鳴っている社会である。とてもノリが良くてヴィーンの出来上ったそれとは異なる。そしてトリオのオーボエの節回し、これがとてもオーストリア二重帝国のハンガリー風の最早隠しようがない特性である。

多くの人はヴィーンのシューベルトで間違ったイメージを持つかもしれないが、この二重帝国の歴史を抱える家庭の指揮者がこうしてアクセントを付け乍ら振るとその「ソーファミレド」だけでもヴィーンのイメージとはまた異なるものとして体感されるのだ。

この曲に関しては、フルトヴェングラー指揮の名録音やベーム博士の演奏なので馴染んできたが、そうした細部のそれぞれが全体の大きな枠組みの中で充分な表情付けどころか、叙述的に上手く嵌るようにあまりにも格好良く綺麗に処理されてきてしまっていたようにしか思えなくなった。そうすることで本来のこうした細部の面白さが踏みにじられてきたとさえ感じる。確かに一楽章のコントラバスの不吉な動機だけでなく、上昇動機や管弦楽法の考慮は謂われるように天国的なイメージ感にも通じるのかもしれないが、基本はこうした細やかな素材の扱いであって、フォンドホナーニ指揮を聴いて思い出すのはやはりアルフレード・ブレンデルのシューベルト演奏であった。

終楽章の常動的に上下する音階はそのもの天地感であって、ブルックナーよりも明らかにアルペン的なのだ。そして木管をメータ氏もヴィーナーフィルハーモニカー演奏会では前に出して演奏させたと知った。その根拠や文献はどこかにあるのだろう。しかしフォンドホナーニはここでは弦のピチカートを極力ピアニッシモにさせることで解決していた。それ以上にその対抗配置での示唆的な視覚は大きな影響を与えた。しかし何といっても会場の音響は大管弦楽団ではありえない程通る。添えるだけで楽器が響く。

また第一主題での再現では運弓を大きく取ったりスフォルツァンド効かせととても細かな指示がなされていたことが知れた。それらによって、内声が浮き上がったりととても面白かった。しかし何といっても中間楽章での身体を後ろに逸らして椅子が壊れそうに軋んだり、ここぞという時で腰が浮かび上がるような椅子のロデオの様な上下動は見ものだった。

そして例の第一ヴァイオリンでの繰り返しの運指はもはや苛めかシューベルトのウィットとしか思えないが、まさしくこれが作曲家の本望だろう。喝采時に奏者とこの件で目が合ったが、ご苦労様と言いたかったのだ。

今回久しぶりのドイツ音楽界裏のドンであるフォンドホナーニ指揮を三十年ぶりに交響楽指揮者として聴いたが、想定通り大変価値があった。機会があればまた生演奏に接したい。それと同時にスイス最高の交響楽団でありながら中々本領を発揮しないというトーンハレ管弦楽団であるが、今までハイティンク、ヤルヴィ、ナガノ、フォンドホナーニと聴いてきて、玄人筋が語っていることがよく分かった。BR交響管弦楽団なんかよりも力がある。ただいつもそこまでの演奏をしていないだけだ。弦も後ろの方で遊んでいるか、真剣に弾いているかで全く異なる。超一流との差は最後の奏者までやることを主体的に汲み取って弾いていないだけで、そこが明らかに違う。管楽器に関してはいつもの席からはよく分からないが、合わせ方はそれほど悪くはない。現在の会場の限界も分かったが同時にやはり聴き逃せないと思った。もう一時間近い距離ならば頻繁に通ったと思う。次にフォンドホナーニがミュンヘンに来るときは比較の為に聴きに行ってもいいかと思う。他の引退間近の指揮者と最も違うのはあれはどうなるだろうこれはどうなるだろうという引き出しの数で、そしてもうこれでいいと思わせないところだ。他の同年配の指揮者に比較して文化的な奥行きが深い。そして氏の指揮ではそれほど大きな音は出ない。クリーヴランド時代からそうだった。とことん俗受けすることの無い指揮者である。(終わり)



参照:
無事チューリッヒから生還 2019-11-15 | 生活
上がり下がり具合 2019-11-13 | アウトドーア・環境

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