Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽劇場としての条件

2019-11-22 | 
承前)コルンゴールト作曲「死の街」18日月曜初日の新聞評が出そろった。核心はヨーナス・カウフマンの歌唱への批判点だと思う。新聞によってその専門性は異なるが、ソットヴォ―チェのベルカントの声楽的な視点から批判して、その最終的な成果はどうであったかという点である。フランクフルターアルゲマイネ紙は、ジェームス・キングの言葉を借りてオテロより難しいとしてが、カウフマンの口蓋を通さない高音やその繋ぎ領域には問題が無くオテロよりも遥かに良かったとしている。その反面、この制作がそもそもステファン・ヘアハイムによって演出されていればなかったのがやっつけ仕事で為された状況から、いつも全力勝負のペーターセンの演技がそれ以上には打ち込めなかった様子だとしている。他の新聞とノイエズルヒャー紙のフライ氏は、声が確り出てないところが丁度この役柄の心理描写となっていて、暗い声が大変な効果を上げたとしている。

ここまでで重要なことが書かれていて、要するに私などのそもそも声楽への不信感からすればそれはそのものオペラ上演の音楽的な程度の低さを示すものであるが、正しく今回のカウフマンの歌唱こそがオペラの領域を逸脱するものであって、音楽劇場の歌唱と思われるそのものなのである。

勿論それを可能にしたのはペトレンコ指揮の管弦楽演奏でありその譜読みの高さと豊かな音楽性であることは万人が認めるところだ。特に一幕は驚いた。あの楽譜からこのようなドビューシーか若しくはシマノフスキーの様な音が出てくるとは。新聞はこの曲と「ヴォツェック」の僅かな創作時期の相違に触れているが、この演奏を聴くととてもそれだけの差ではないとも思う。なるほどレハールの様なメロディーが網の目の中に釣れるのだが、それに乗る声を、舞台を支えるのは音のカーペットで、それも肌理の細かなヴェルヴェットのようなものだ。これに近いのはブゾーニ作曲の「ファウストュス博士」の音楽ぐらいしか知らない。あの楽譜からペトレンコはこれを読みだしたかと思った。

そのバックアップで何が可能になったか?どのような効果が生じたか?勿論、歌手が歌いやすくなって芝居がしやすくなる。しかしそれだけでは無かったというのが今回の制作上演の最も成功した音楽的成果では無かったか。驚いたのは、そのダイナミックスだけでは無かった訳で、劇場の音の場と言うか音の風景を作っていたことだ。今回は初日は高価な料金であったが、四番目のクラスでも価格に見合うだけの良席を配券して貰ったので、奈落の音に関してはしっかり聴けた。しかしあまりにも細かくて聞き取れなかった事が多い ― 近い想いはあの何十段にも及ぶ総譜の世界初演の「サウスポール」だろうか。それがサウンドトラックと言うか効果音と言うかそうした効果を上げていた。それによって視覚的にも大きな効果を上げた。

今回のセットはバーゼルでのものを拡大したようだが、番地37の家屋と回り舞台が何となくフランクフルトのそれを想像させた。バーゼルの劇場も知っているが、あの独特の芝居小屋的なもっと言えば松竹新喜劇的な回り舞台構造は何となく日本の新劇的なのだ。要するにその舞台の場を吟味しているうちに芝居に引き込まれている。だからカウフマン演ずるパウロがその枠を超えて壁の前から出入りするのを見るともう少し安物の吉本新喜劇を思い起こさせる。とても芝居構成として上手い。

それと音楽がどう関わるかなのだが、要するにある時は奈落からの音楽はサウンドトラックであり、ある時は芝居の付随音楽となって仕舞う。またある時はマリオネッタが歌うカラオケを奏する。ある意味オペラ演出としては枠を破ってしまうのだが、ピーター・セラ-ズの様なこれ見よがしなことは一切しない。とても程度が高いと思った。そしてフライ記者は、バーゼルのそれをも体験していたようで、その音楽が当然のことながら全く異なると書いている。

新聞評にもこうして演出家サイモン・ストーンがネットプレゼンテーションに現を抜かしているうちに彼の助手によって制作された今回の制作が全ての制作を抜きんでてしまっていると皆同意見である。そしてペトレンコ音楽監督指揮最初の新制作「影の無い女」と弧を描いているという叙述もある。敢えてそれに言及すると、如何にリヒャルト・シュトラウスのそれがオペラのエンタメ化との対峙にあって、コルンゴールトの今回の「死の街」が心理劇として音楽劇場化しているというその対照を織成している事でもある。

そしてペトレンコ指揮の座付管弦楽団はいつもとは全く異なりヴェルヴェットの美しく柔和な表情を醸し出し、その音色の艶は燻銀で、ドレスデンやベルリンやヴィーンのそれよりも明らかに底光りしていた。その傾向は夏のオパーフェストにおける古楽器奏法を使った「アグリピーナ」新制作で絶賛されたもので、ここに来て何かが完成したと感じた。

大変異例なことであるが、幕が下がって拍手が起きると奈落ではペトレンコが指揮台を盛んに叩いて管弦楽団を祝福していた。これはと思いカメラを早速取り出し向けて、すると今度は各楽器奏者の所へと端から端へと歩み寄り握手をしていた。まだお別れではないのだが、如何にその成果に指揮者も驚いていたという事ではなかろうか?初日も何回か出かけているが初めての光景だった。(終わり)


写真:幕が閉じてから盛んに指揮台を叩くキリル・ペトレンコ



参照:
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女
ヒューマニズムへと 2019-06-14 | 文化一般

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