Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

33年ぶりのマノンレスコー

2019-10-10 | 生活
「マノンレスコー」に出かける準備である。折角のマノンを聴くのだから、また指揮者ヴィオッティーもしっかりと評価したい。するとなると総譜に眼を通しておかないと、いい加減なことは言えないのである。全く個人的な拘りであって、誰にも迷惑はかけないが、習慣になると、ヘルメットも被らずにスキーをするようなものである。

なるほど実演は、前回はジョゼッペ・シノポリが日本デビューした時のヴィーンの歌劇場の引っ越し公演だと思う。フレーニが歌い相手役はドヴォルスキーだったと思うが、その時の印象が強くて、ラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカー演奏ヴェストブロックが歌ったものは到底いく気にはなれなかった。案の定、酷評された公演だった。よくも「トスカ」と「マノンレスコー」と指揮したものだとあきれる。

その意味からしても如何に期待しているかであって、CDの二枚組ボックスも安売りでシノポリ指揮のフィルハーモニアの演奏で購入したぐらいだ。一幕を聴いてみると、なるほどあまり上手くないところもあったが、何よりも和声を敏感に響かしていて流石だと思った。やはりコンサート向きと言うよりもオペラ向きの指揮者であったと改めて認識し直す。フレーニも上手いが、ドミンゴの歌が素晴らしい。なにもオテロだけでなく素晴らしい歌手であったことを改めて思い出す。

「マノンレスコー」の総譜を見ていて思い出した。日本の指揮者が他愛もないことを書いていて、そこに字幕云々への不満があったと思う。その指揮者は欧州でも若い頃に活躍していた筈なのに、「イタリア語からの字幕なんて大事なの」と不思議に思った。私は特にイタリア好きでもないのでイタリア人女性とも付き合ったことは無いが、少なくともオペラの粗筋を読んで若しくは知っていて、総譜を追えば言葉のニュアンスは大体分かる。細かな意味合いは字幕を見て、ああと思うが、それはドイツ語でも一緒で要するにバイロイトの劇場に字幕が無くて、ああとは想ったがなんら違和感はない。イタリア語の場合は特にその音符が重要なのでそれ以上に声としての威力で充分である。音楽家それも指揮者たるものが音楽の構造を追わないのかといぶかしく思った。すると言葉などは自然に付いて来る。

燃料も入れた。フランクフルトに行くのに仰々しいと思われるだろう。自分自身もここまで準備するようになったのは最近のことで、その全てはオペラやコンサートに出かけるときの心構えが変わって来たからだろう。定期会員でフランクフルトに通っていた時は面倒な時もあったが、適当に車を走らせていた。逆にその頃の方が一度一度が疲れのようなものを残した。要するに急に用件があってフランクフルトまで車を走らせたのと変わらなかった。なにも準備しなければ着の身着のままの様でいながらその都度なにか煩雑さが付き纏った。準備を先にするか後で対応するかの違いで、やはり準備をした方が全てにおいて上手く行く。なによりも音楽に集中できる。これである。



参照:
再びオパーフランクフルト 2019-10-09 | 生活
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女

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