Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ヴァルハラを取巻く現世

2006-08-17 | 文化一般
バイエルンには、ヴァルハラ城と言うドイツの英霊が祀られている廟がある。ルートヴィヒ一世が1825年に完成させた。ドイツ人の民族意識が高まりつつある時代である。

ここに祀られている胸像は、殆ど1847年に設置された。その後1990年にアインシュタイン、1999年にアデナウアー元首相、2000年にヨハネス・ブラームス、2003年には白い薔薇のゾフィー・ショル嬢が加わり、先日シュトイバー首相がユダヤ人の聖エディット・シュタインを加えると発表した。この後順に、ハインリッヒ・ハイネやガウス博士が名を連ねる。

ヴァルハラ城と言えばゲルマンの伝説上の神殿である。リヒャルト・ヴァーグナーの楽劇「指輪」の舞台でもある。バイロイトのヴァーグナー祭では、タンクレド・ドロスト新演出で、ティーレマン指揮で催されたと新聞評は伝える。現実社会に寄り添う神の世界を描いたようだが、仮想ポストモダーンの半ステージ演出は一貫していないようで、途中ではミニマルな表現に演出家の疲れさえ見えたようである。音楽面でも歌手陣は水準を維持したが、一貫しない管弦楽はまことのコンセプトがあったのかと訝る。そうした、動機の誇張やところどころ恣意的に抑えたこんだダイナミックもアンサンブルの乱れとして、全体としてちぐはぐな印象を残したようである。

本年度は、クリストフ・マールタラーの楽劇「トリスタン」と問題のシュリンゲンジッフの舞台神聖劇「パルシファル」の再演が最後となった。前者では劇場演出の限界が言われ、後者では年を追って情報量を絞ってもまだついていけない演出が言われる。前者でヴァーグナーの音楽解釈を放棄したオオウエ氏に代わって奈落の指揮を受け持ったシュナイダー氏の手堅さが書かれ、後者ではブーレーズ氏からバトンを受けたアダム・フィッシャーのハイドン風の音楽には深遠な表現が欠けるとされる。

腕の差はあっても、良いテンポで鳴らすことの出来ない指揮者やダイナミックを信条とする一点張りの指揮者が巧く処理できない事と、80年代に活躍した舞台芸術家がポストモダーンの思潮に流されて遅れ馳せながら試みる演出の難しさに共通点がある。ヴァルハラと現世を行ったり来たりのごった煮なのか。

ブルックナーの胸像前で神妙な顔つきの総統の写真



参照:バイロイトの打ち水の涼しさ [ 生活・暦 ] / 2005-07-24
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三ヶ月経った夏の終わり

2006-08-16 | 生活
近所の旦那の病気が再発したらしい。開腹手術をしたのは10年以上前になるから、再発とは言わないのかもしれないが。内蔵の癌ではあったのだろう。詳しくは敢えて聞いていない。

五月中旬に顔を見てから会っていない。その時は新築の家を案内してくれて、趣味だからと語っていた。病気の話も医者への信頼が大事だと言うことでそれとなく話題となったが、犬の散歩に歩くのも足取り早く元気そうだった。

どうもそれから二週間もしないうちに体調を壊したらしい。その間、家も綺麗に外壁が塗られて完成した。

歯の手入れのため糸を買いに薬局に行くと、旦那の奥さんがいた。年寄りの爺さんと話していたので、親戚の人かなと思っていたら違った。こちらに気がつくと、長く顔を見ないのでどうして居るかと言い、旦那が大病だと矢次早に言った。ある程度事情は分かっているので、大変驚いたが、逐一訊ねるのは気が引けた。

あれから三ヶ月経って、自宅で療養していると言うことは、外科的手術にも限界があったのだろうかと想像した。以前の手術後の回復が、痩せたとは言っても大変早かったので余計にその差が痛々しい。

奥さんの表情を見ていると徒事では無い事が分かるのだが、病気にはなにも出来る事が無い。旦那はまだ六十歳にもなっていない。なんとか、もう一度社会復帰出来る事を願って、宜しくと伝えて貰った。
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78歳の夏、グラスの一石

2006-08-15 | 歴史・時事
昨年の総選挙前の取っておいた新聞記事に目を通した。ギュンター・グラス氏が都合五回の演説会をエスペーデーのために行っていて、その旅の途上同行して記事としている。

グラス氏は、SPDから脱党して十年以上経っている。1969年には百回と言う驚異的な選挙遊説運動をこなしている。

遅すぎた告白については、ヴァレサ元連帯代表をはじめ政治家や文化人からも批判が一通り出た。ヴァレサ氏の批判は最も厳しいものの一つでダンチッヒ名誉市民とノーベル賞の両方ともを返上しろと言うものである。

グラス氏は、「今や日本では誰からも相手にされない」と嘆く大江健三郎氏の場合程ではないかもしれないが、選挙期間中には町中では誰もこのノーベル文学賞作家に関心を示さなかったという。

その意味するところは一言では言えないが、戦後のイデオロギーのぶつかりあいの中で左右として分かれていた文化人たちの時代が遠の昔になってしまっているのだろう。だからこそ、今回の発言も注目を引くための新著の宣伝を兼ねたギャグだとまで言われる。

しかし、氏は何に関心を引きたかったかと言えば、その的は良心に苛まれた文化人ギュンター・グラス本人では決してないであろう。東西ドイツの統合にも異議を唱えた賢人であるからして、興味のある者はそこに関心の焦点を絞るべきだ。

歴史学者などは、「機会がありながら、言い損ねた理由に興味津々。」と言い、個人的な理由を示唆しながらも今回の行動は非常に政治的なものとしている。同時に「上昇志向キャリアー上の戦略との見解はどうしても避ける事が出来ない。」として大変卑近ながら現在にも通じるテーマとする。実際、針の穴を突付くような文学研究家は別として、新たな文学的興味を殆ど引き起こさない発言であった。

文学者が政治に関与する良き伝統とするグラス氏であるが、文学者が虚を実とするように、政治家は嘘をつくことで実を目指す。ただ、今回のことで戦後への大きな視線を得る機会を与えられたが、先の大戦の責任を問われる若しくは取れる世代は殆ど居なくなってきている事を改めて思い起こさせた。

そして考えた。グラス氏は、孫の世代が政治に全く違う関心を持っていることに気がついた。ヴィリー・ブラントを背景とする自身の政治的発言も、時間の遠近法の中で違うように見えてくることに。

作家の友人で既に献呈された新著を読んだエーリッヒ・ローストは、「今後とも友人であることは変わらないが、今頃の述懐が理解出来ない」としている。著書にその回答が見出されないのは予想されたことである。

独新聞各紙の反応に思想の様々な様相が見える。逐一記述しないが、この遅れた悔悟への不快感が各々の新聞が是としている信条や思想的傾向を明確に映し出す言論となっている。

活動家グラスをもともと政敵とする大衆紙から安物の保守系新聞では、皮肉った見解を示し、比較的表層的に処理しようとするに対し、左派系若しくはリベラル系の新聞は真剣に受け止めている。

ターゲス・ツァイトングがその文学的内容を見直さなければならないとしているのに対して、フランクフルター・ルントシャウの一節も面白い。「もし、グラスの矛盾を反面教師としていたならば、連邦共和国の歴史で最も根幹となり更に罪として逃れられないもの、また殆ど 罪 の 自 尊 心 (注:所謂自虐感の裏返し)やそれからの解放が、原理主義的に正統的なお墨付きを刻印されなかったであろう。」と、まさにイデオロギーに縛られて来たジャーナリストの自己反省ともしている。反対に痒いところに届かないかのようにポイントを突けず、その発言よりも賢く明晰な氏の文学の傾向を「遅れた悔悟」と同一の懐疑とする南ドイツ新聞は一体どうだろう。

まさに、このことが今回の発言の意義であり、先のワールドカップで解放されたパトリオリズムやポストモダーンな世界観の現在の社会に一石を投じたとして良いのではないだろうか?



参照:
知っていたに違いない [ 歴史・時事 ] / 2006-08-24
正当化の独逸的悔悟 [ 文学・思想 ] / 2006-08-13
似て非なるもの [ 雑感 ] / 2006-08-14
歓喜の歌 終楽章 [ ワールドカップ'06 ] / 2006-07-01
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似て非なるもの

2006-08-14 | 雑感
親衛隊の隊員は、皆血液型の刺青をしているらしい。強制収容所の番号と同じように刺青をしているのが可笑しい。連帯感や忠誠心を強調したのだろう。現在のドイツのシールの焼きとは違う本物の刺青なのだろう。

ギュンター・グラスは刺青をしていないと報道されている。戦争末期にはそのような儀式をしている余裕はなかったらしい。同年代の兵役の17%が親衛隊に志願した事も当時の状況を写す重要な鍵に違いない。

同時にヘルムート・コール首相がレーガン大統領を伴って、コンスタンチノスのローマの要所ビットブルクのコルメスへーへの戦没者慰霊碑に参った。其処には、若い親衛隊も奉られているとして、批判したのはギュンター・グラスその者である。

ナチスにおける人間管理と操作は大変有名である。強制収容所の秩序から高官の内部抗争に至るまで同じ方法が採られている。まさにヒットラー著の「我が闘争」に書きあらわされている通りである。十代の若者を為政者が思うように操る方法を端的に示したのが、その青少年教育であった。リーダシップを取る如何にも良くできた模範的な少年とそうしたステレオタイプ化した模範に追いやられる少年たちの姿を、多少に係わらず我々も体験している。

団体行動教育はそのものファシスト教育であり、団体行動そのものは軍事演習でもあることを、ある年齢に達すると明白に確信する事が出来る。決して、調和したチームワークはそれらの全体主義や軍事教練とは、似て非なることに気がつくからである。

似て非なると言えば、室内の人工壁のクライミングと岩壁のクライミングもそうである。秋雨のため、冬季以来久しぶりに人工壁へを登った。新しいシューズは快適で、落ち着いて登れるのが良い。その分、人工壁の詰まらなさを感じてしまった。どんなに小さな足掛けもあるとして存在する足掛かりは、人気のあるルートの磨耗した足掛かりしか自然には存在しない。何もない壁に足を擦る姿を見ているとまるで虫けらのようで情けない。

腕力さえ十分で、上背があれば何とかなってしまう人工壁は知的な活動から可なり隔たっている。体を制御すると言うことではスポーツ的だがあまりに単純過ぎるのではないか。反面、腕力や体力を使うことでは甚だ激しい運動である。

それでも、運動中は腕力が失せていたのが嘘のように、上体よりも足に疲れが残っている。つまり、靴が変わって使う筋肉が変わったことと、十分に足に立てるようになったことも覚書としておく。



参照:
客観的洗練は認識から [ 雑感 ] / 2006-03-05
疑似体験のセーラー服 [ 歴史・時事 ] / 2005-06-12
鋼の如く頑丈で、革よりも [ 生活・暦 ] / 2005-01-25
更に振り返って見ると [ 歴史・時事 ] / 2005-10-09
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正当化の独逸的悔悟

2006-08-13 | マスメディア批評
ギュンター・グラスの新刊書籍のキャンペーンが始まった。九月に発売される「玉葱の皮を剥く時」と言う著者の自叙伝的作品らしい。何よりも、氏が武装親衛隊(Waffen-SS)であったことが、活字として踊る。これほど効果のある宣伝もなかろう。

さて、先ずは最もインテルクチァルな新聞フランクフルター・アルゲマイネがこのキャンペーンに加担して、早速本日付け紙面でインタヴューを掲載している。なぜ、今頃になって告白をしたのか、態々ナチスドイツにおける最も凶暴な部隊へと志願した経緯などを質問する。

ネットで読んでから一面トップ記事の短報に続いて文化欄二面に渡るインタヴューを読んだ。何もこの作家の支持者でもファンでもなくても、これを読んでやり場のない怒りに近いものを覚えるのが普通でないだろうか。

宜しい、文学者が満足行く文体とスタイルを見い出さない限りその内容を表現出来なかったと言うのは。ただ、氏の場合はSPD党員として政治活動もしていたのではないか。一介の物書きでもなく、ノーベル文学賞受賞者でもある。何れにせよ、文学研究家にはまた論文のネタが増えたことだろう。

自伝的小説家でない自覚から、今初めて 当 時 を出世作「ブリキの太鼓」以来再び文学的に語ろうとするのは良い。しかし、ヒトラー少年としてUボートの募集には時遅しで、自己の家庭環境を逃れるために16歳で武装親衛隊に志願する 当 時 は、文学そのものなのだろうか?SSで厳しく躾けられ、入隊一週間で変わって行く少年を語るのは、それがたとえ巨匠の筆とは言え、あまりにも月並みではないのか。

本人が言うように、十代の二年の月日は、それを理解するには大きく、19歳の青年と17歳の青年では全く違うであろう。ニュルンベルク裁判で事情を初めて知ったと言うのも、弁解として良かろう。ただ、彼は全てを語る機会を逃した。インタヴューアーは訊ねる「ブリキの太鼓の時に全てを語れたのではないか」と、作家は答える「それが受け入れられる状況はなかった」と。

自ら二年過ごした捕虜収容所での米軍の黒人人種差別に触れ、反省の無いフランスを代表とする戦勝国への不信感を語り、西ドイツのアデナウワー政権の異常と正常化しようとしたヨゼフ・シュトラウスの政治を語るとき、ナチのキージンガー首相を相対化するとき、この作家はドイツ人得意の醜い言い逃れを図る。

嘘は、更に嘘を構築する。この作家は、何度も誤りを繰り返した。一度掛け違ったボタンは、一度着た服を脱ぎ捨てて裸になるしか修正出来ない。玉葱の皮を剥くように。そして今、またしても死後のスキャンダルよりも、弁明の効く著作活動を選んだ。後悔しているかとの問いに答えて、それしかなかったと開き直る。いつもそうして来た様に。

それだけでは足りずに、ヨゼフ・ラッツィンガーと当時出会ったと小説に書き込み、再び物事を相対化しようと試みる。況してやヴァチカンからの反応を期待するようなそぶりも見せる。マザーコンプレックスを、その口に何時も銜えたパイプだけでなく、その小説に志願入隊の動機とも重ねる。なにやら、大江健三郎の最近のポストモダーンを気取った小説を見るかのようだ。

ナチズムとコミニズム、そしてソチアリズムを相対化して、当時のエホヴァの証人の有志を語るとき、ここに作者の忌憚が透かし見える。イデオロギー無き時代に彼らはこうして正体を曝け出す。ナチによる近代的小市民的アトモスフェアーからの脱却と腐ったカトリック的アデナウワー時代のまやかしと言う「過去を乗り越える」事は果たして東ドイツで可能だったたのか。

上手に世渡りしてきた「芸術家」が、戦後ノルデやクレーに見出したものは、八十歳近くになって初めて認識出来るものなのか。

パウル・ツェランのアドヴァイスに触れられて、「蝋燭を点けて朗読する詩人は、自分に嫉妬もあった」とするこの作家の傲慢さこそドイツ的信仰告白そのものだ。

本人が最も知っている。この前歴を持ってはフランスで出会ったカミューとサルトルの影響を受けた政治活動も存在しなければ、ノーベル賞も受けていなかった事を、それどころか「ブリキの太鼓」の出版さえ危うかっただろう事を。

何も知らなかった、知ろうとしなかった市井の人々について、芸術の中に生きようとした芸術家について今更読む必要はない。手元に積んであるギュンター・グラス著書だけでもう十分である。

来週には、当時の写真特典つきの新著初版の発表会が開かれるらしい。



参照:
強制収容所の現実 [ 歴史・時事 ] / 2005-01-26
似て非なるもの [ 雑感 ] / 2006-08-14
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氷点下の雪模様

2006-08-12 | 
今週の初め辺りから、降ったり晴れたりの秋雨状態の日々が続いている。先週のように暖房が必要なほど寒くはないが、薄い格好をしていると風邪をひく。スカンジナヴィア半島を過ぎ去る低気圧の気圧配置の影響もあってか、頭痛もあった。

毎年の事ながら、夏から秋への変化に体を合わせていかなければいけない。通年ならば、八月中旬がこの時期にあたるが、今年は予想通り一週間早く夏は終わった。ドロミテ行の最終日が転換時であった。

北から張り出した高気圧の影響を受けて来週はまた少しだけ温かくなるようだが、残暑の気持ち良い、名残り惜しい天候となるには今しばらくかかりそうである。その時期が過ぎると、初秋らしい安定した天候になる。

バイエルンを中心に強い雨と、二千メートルを越える山岳地帯では雪となっている。暖かくなれば、直ぐに消える雪であるが、四月の天候と言われるようにドイツ最高峰のツーグシュピッツでは今一日中氷点下の雪模様である。

夏の暑さに疲れた胃腸を早く癒したい。
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エリート領域の蹂躙

2006-08-11 | テクニック

マテリアル若しくは用具の話である。新しい靴を買うために、BASFの町ルートヴィヒスハーフェンの目抜き通りにある大きな靴店へと向かった。ドイツ語圏の靴は、乳幼児から老人用にまで、礼服用から特殊仕様までどれも昔からの靴職人の技術や伝統が生きている。例え世界的なスキーブーツマイスターであっても本職・本業は一軒の田舎の靴職人や靴屋である。

この店は、以前友人の山靴購入のために付き合ったので事情は知っている。残念ながら、その時の若い女性のアドヴァイザーを期待していたのだが、それほどに経験の無い違うアドヴァイザーしか居なかった。店のご主人と話すと流石に専門家で経験豊富な人だと直ぐに分かった。世界的な登山家ペーター・ハーベラーをアドヴァイザーとして擁しているのも伊達ではない。

今回購入したのは特殊仕様というか、クライミング専門の靴で、戦前の日本語でクレッターシューと呼ばれたものである。八月末に使うために購入を決断したのだが、どのような靴を選ぶかの決定への過程で大きなカルチャーショックを受けた事を隠せない。

クレッターシューへとは、そもそもその昔は麻の底で地下足袋のように出来ていた時代もあるようだが、我々の事始めの頃は革靴の底の厚い鉄板の入った山靴が好んで使われていた。それは、その靴一つで、歩いて、雪の中でもシュタイクアイゼンを付けても行動出来て、岩登りも出来るという代物だった。小さなミリ単位の突起にも足掛かりを取れて、重いリュックザックを担いでも悠然と立てるという靴であった。シャモニアルプスの摂理立った高峰の岩肌を登るための靴でもあった。

その後、アイゼンを付ける必要のない岩壁に合わせて、皮のソフトなより足に馴染む計量タイプの靴が流行った。実は今回もその傾向のものを探そうとしたが、そういったものは既に博物館物で市場には存在しない。

その当時も、米国ヨセミテ渓谷でのビックウォールを登るために使われていた靴底に溝の無いフラットソールのクライミングシューズが流行り出して、所謂フリークライミングの本格的な黎明期でもあった。ただ、当時は種類も限られていて、直輸入などの労を厭わなければいけなかったので、それを所有している人は日本には数少なかった。そのため、ゴムの摩擦係数の高い底の薄い安物の運動靴をクライミングに使っていた者が多かった。

個人的には、プファルツの砂岩を登るためにフラットソールのクレッターシューへを購入したのは十年以上前である。反面、経験の薄い雪壁を楽しみたいと思ったアルプスの岩と氷の錯綜する高峰では、従来通りのオールマイティーなライクルの山靴や氷雪壁用の靴で事足りて、フラットソールなどは論外であった。

そして今回初めて、大きめの壁を登攀するに当たって、歩けて登れる上のようなソフトな靴を探そうとした。それで今更ながら、アルプスの大岩壁においてもフラットソールの地下足袋のような靴を使える機会が多いのに気がついた。

これは、ある意味昔のクライマーにとっては詐欺行為のように映るだろう。当時の靴で技術的困難度5.9とか5.10若しくは五級とか六級の岩場を苦労して登っていた者にとって、現在のフラットソールの靴をもって二ランクほど上の岩場の登攀を可能とするからである。これをペテンと呼ばずになんといおうか?

クライミングの世界においては、スキーのようにそれほど用具の助けを借りてはいないと認識していたが、実際は安全面や快適性だけでなく能力の上で大きな嵩益しがなされている事に気がつく。こうして第一線級クライマーにおける限界の向上だけでなく、レジャー登山者が昔はエリート登山家にしか許されなかったアルピニズムの厳しい領域へと容易に足を踏み入れる様になる。だからこそ1960年代に活躍した伝説的大アルピニスト・ヴァルター・ボナッティーは1930年代の装備に拘ったのである。

ドロミテのラ・スポルティヴァ社製のKATANAは、ヴォリューム感のある足にも非常に足入れが良く、履いていても心地良い。一時間以上に渡る試し履きの末、小さめを選んだので時々足を解放してやらなければいけないかも知れないが、一日中履いているのも可能であろう。商品名称は踵に書いてある「刀」で初めて理解したが、小さな足掛かりをシャープに切るように立てるという意味のようだ。本格的に使ってみないとなんともいえないが、砂岩用に保持している以前の靴とは全く傾向の違う所望していたそのものであると期待している。

僅か100ユーロの投資で、スキーでいえばカーヴィンスキーで何日もの鍛錬が数時間で到達されてしまうほどの、容易さを得られる。禁断の園に足を踏み入れてゼウスの怒りを買ったプロメテウスのような行為とはいえないか。



参照:
気質の継承と形式の模倣 
[ アウトドーア・環境 ] / 2006-08-06
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麦酒、不純か純潔か?

2006-08-10 | その他アルコール
ベルギービールにこれほど話題があるとは知らなかった。殆どドイツでは顧みられる事のないビールで、口の端に掛からない。それでもベルギー在住の人などは、これに詳しいので、チョコレートのように日本でブームとなっている事を知る。

先ずは、お土産に頂いた甘いビールを飲んで適当に調べて感想を書いて、ゲリラ的にトラックバックを張ると、大変有り難い事にビールについて詳しくコメントとして教えて頂いた。僅かながらもその人気の一端と魅力を知ることが出来た。

キーワードとしてのランブリックだけでもどうも明確な定義をし難く、それらをベースに特産があると殆どお手上げと言う感じがする。

ドイツのようにピュアーを謳う法律が無かったから当然とは言え驚くほどの多様さである。EU内での牽制や法律改正などがあったが、その肝心のドイツの純潔ビールは大量生産化が進み、10年以上前にあった質を競い合う地方のビールはどんどん姿を消していった。その中に最も美味いビールがあったのは間違いない。

現在のドイツビールはその質は保っているものの多様性と味と言うことでは、日本の地ビールに及ばない。もともとビールに旨味を求めるかどうかは別として、嘆かわしいの一言である。これは町のパン屋の壊滅と同じグローバル化の傷跡である。

それを考えると、ベルギービールの些か如何わしい様な商品は特化されていて、遠く日本にまで輸出されている。そして今回頂いた、ブロンドとして飲んだベルギー修道所ビールも、大量生産品であると言う質とは別に、甘口ヴァイツェンビールである事は否めない。

ドイツでは、「こんなものは飲めるか」とは言わないだろうが、「喉の渇きを癒すヴァイツェンでは無い。」と言えるだろう。こうした泡立ちの繊細さとかその黄金の色合いとかを愛でるビール文化などはドイツにはもともと存在しなかったのだろう。

敢えて差別化を試みるならば、食事においてもベルギー料理などの旨味はドイツ料理にはあまり無くて、文化が違うと言うべきだ。ビールの製造はフランス語地域が主な様だが、ワインの代替としてのビールの消費なども一つの要素として留意しておく必要はある。

そして危惧されるのは、こうした伝統とは違うところで甘いビールが造られて、結局はそうした半端な商品がマーケットを駆逐してしまわないかと言うことにある。ドイツのビール文化は現時点では決して将来的に楽しみな方向に無いが、最終的には伝統を護って行けるのではないかと期待している。

その護らなければいけないのは、決して伝統そのものでなくて、混ぜものの無い純粋な自然食品であるビールと言うことだ。



参照:
甘口ビール飲料に要注意 [ その他アルコール ] / 2006-07-15
減反政策と希少価値 [ ワイン ] / 2006-05-18
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世俗の権力構造と自治

2006-08-09 | 歴史・時事
教皇ベネディクト十六世が里帰りするとして、それを前にミュンヘンとフライシングの大司教区の記録・調査所がご本人のヒトラーユーゲント歴の調査発表をしている。

例えは悪いが、共産党員が過去に粛清で人を殺めたとかの誹謗にも似ていて、スキャンダラスな大きな見出しが実際の状況の説明よりも政敵には重要で、事の次第は二の次となることが多い典型的な事例である。

その点からすれば、新聞を読むとこの報告はヨゼフ・ラッツィンガー氏のヒトラーユーゲント(HJ)としての在籍の書類上の証明は出来ないものの、その所属を当然のこととして明白にしていて面白い。

もともと、1927年生まれの警察官の次男として、カトリックの子息として1939年に全寮制のセミナーに入る。其処では将来の神父への教育がなされるが、午前中は通常のギムナジウムに通い、午後は音楽やスポーツ、宗教教育がなされた。

第三帝国の初期においては、其処にいた172人の少年はナチズムの影響からは逃れていたとある。バイエルン協定と帝国協定によって、自治が守られていたからのようである。しかし圧力は忍び寄り、1934年にはナチの人種主義を批判した市の神父シュテルツが、逮捕され二週間近くも拘束されている。その頃公立のギムナジウムでは、ナチ教育が施されて、校長もカトリック者からナチ党員となっていく。

ギムナジウムにおいてはHJが差別を受けたからとして、逆に教師を追放するなど、全体主義の中でのテロのあり方や方法は、TVや映画で良く我々も知るところである。1935年に兄のゲオルクは、既にセミナーに在籍していた。1938年にはヒトラー親派である文化大臣アドルフ・ヴァーグナーは、経済的圧力をかけだす。つまりHJに対してだけ経済的援助をするというのである。

しかし1939年当初の時点では、セミナーの中にHJは存在しなかった。しかし、3月に予備ヒットラーユーゲント組織が正式に出来た事で状況は変わってきた。つまり14歳までに予備隊にいなければ、一年の年季を必要とする正HJになるのを不可能にして、更にそれは奨学金の給与を不可能にする事を意味した。組織的な圧力は、1940年の4月以来、退職者で経済的弱者の倅ヨゼフ・ラッチンガー少年は当然のことながらヒットラーユーゲントとなった事情を十分に説明している。

その後1941年9月からはドイツは総力戦となると、セミナーの建物は徴収されて、高射砲の手伝いに買い出された生徒たちは家庭へと戻る。本人もセミナーを離れてからは一度もHJの集会には参加していないし、学費のために参加していたと叙述している。

これ以上書き加えることは無いが、宗教的な権勢も世俗的な権力構造の前では役立たずで、如何に世俗的に自治を保つことが難しいかと言う好例である。ここでは、そうした権力構造を利用しようとする市井の人々のエゴイズムには触れまい。



参照:正当化の独逸的悔悟 [ 文学・思想 ] / 2006-08-12
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バーベキューの夜

2006-08-08 | 料理
週末は久方ぶりにバーベキューをした。誰かが放置して行った直径70CMほどのセットを、地下で分解して、新聞紙等に包んで車のトランクルームに積めた。錆も酷く、分解するのに時間も労力もかかり、地下で汗を掻いた。

分解してそれを配送したお宅のテラスで広げ組み立てる。その間に急いで買い物へと出かけ、肉や海老やイカなどと野菜を買い漁る。木炭も10KG調達した。

点火剤を塗布して、風を送って火を起こす。蒸し暑さはあったが、比較的穏やかな天気で助かった。豆サラダなどでワインを引っ掛け、本格的なグリル体制になった。

世もふけてランプの下での作業となったが、大分の焦げと共に大量の食物が胃に収まった。5Lのビール樽も生冷えのままであるが、堪能すると、先週来の疲れが感じられた。

穏やかな夕立も過ぎて、再びワインも引っ掛ける。肉屋で既にマリネーにされている事もあって、また妊娠初期の奥さんによって些か強めに味付けされた多彩な串刺しや豚の肋肉などしゃぶると、いよいよ満腹になって来た。しゃぶった後の骨は、直接犬の餌となる。

と言うことで、思ったよりも味覚を十分に満足させたとは思わないが、雰囲気は満喫した。大分酒も回ったので、ソファーで休み、明くる朝まで熟睡する。

先週の冷えで気管支がやられて、咳き込むとめいめい起き出す事になる。昨夜の灰を片付けて、セットを分解するうちに目も冴える。偶々、帰宅方面に用事のある者を乗せて、車を走らせる。
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眠りに就くとき

2006-08-07 | 
戦後ドイツのオペラ歌手を代表するエリザベート・シュヴァルツコップ女史が山岳観光で賑わうモンタフォン谷の拠点シュルンツの自宅で木曜日に亡くなった。90歳であった。そう言えばザルツブルク祝祭劇場で元気な姿を度々お見かけしてから大分経つ。

近年は、デヴュー当時のナチへの協力が明るみに出て悪いイメージが付きまとうようになっていたが、1971年にオペラから引退後も歌曲歌手として、また世界中からの生徒を集めるマスターコースを開いて数限りない人数の後進を指導したのは有名である。

そうした情景のなかから、発声法への注意などワンポイントレッスンなどは大変印象に残っている。その厳しさは、改めて話題にされるようで、ザルツブルク音楽祭などの保守的な音楽界のガリオン像とされた事などと共に女史の生涯に纏わりつくエピソードのようである。

ドイチュラントフンクが、同じく引退した指揮者ザヴァリッシュ氏に女史の死に際してインタヴューをしている。ユダヤ系の名プロディーサー・レッグ氏が彼女に仮借ないパーフェクティズムを仕込んだとするのは面白い。まさにハー・マスターズ・ヴォイスらしい。

サヴァリッシュ氏の声が聞けるのは嬉しいが、女史と「カプリッチョ」等の名録音を残した彼でさえもオペラ舞台の共演は皆無と言うから驚く。確かに、録音においても当時のフルトヴェングラーやクレンペラー、若きフォン・カラヤンなどの大スターに優先的に当てが得られた名歌手であった。競演したピアニストとして、フィッシャーやギーゼキングやグールドが挙がる。

特に、モーツァルトの歌劇の伯爵夫人、エルヴィラ、フィオルディリージ、シュトラウスの楽劇のマルシャリン、伯爵夫人などははまり役で、アリアドネやアラベラなども素晴らしかったのは想像出来る。それはカラヤンの歴史的に残る代表的録音でもある。

面白い録音に、唯一無二の代表的録音フルトヴェングラー指揮「トリスタンとイゾルデ」の年老いた大歌手フラグスタトの高いハ音の吹き替えが挙がる。シュトラウスやレハールのオペレッタ録音も有名である。

シュヴァルツコップ女史の歌唱は、その極限まで迫った歌詞と音楽の融合にあると言われ、同僚のフィッシャー・ディスカウ氏とも似通っているが、その面ではあまり後者の場合のように作為的と批判されないのはなぜだろうか?

そう言えば、金曜日夕刻に車を走らせた際、彼女のインタヴューがラジオで流れていた事を思い出した。その時は誰のことかは分からなかったのだが、なぜ歌手の死が、それもプリマドンナの死が、一般的にそれほどに共感を与えるのかを少し考えた。仕事の内容と言うか、芸術内容の肉体化した表現方法によるのだろう。それは、「直感と考えてからの行為が大切でヴォカリーゼでは駄目」と言う女史でも同じである。

セル指揮のシュトラウスの「最後の四つの歌」の録音を聞いているが、こうして歌われるとヘルマンヘッセのテキストの三曲に比べ最後の「夕焼けに」のアイヘンドルフの詩と音楽に違和感が出てくる。この曲だけは、既に二年ほど前に手が付けられていて、そこでは詩人が手に手を取ったであろう友人に変わって、作曲家の永年の伴侶へ向けたメッセージが浮かび上がる。他のヘッセの詩への作曲は、モントルーからポンテルジーナへの移動滞在の中で作曲家の死の一年前に完成されている。

「コシファントュッテ」のスタジオ録音もベーム指揮の歴史的名盤である。ザルツブルクでの上演は1958年となっていて、カラヤン指揮の「薔薇の騎士」の1960年の上演と同じく、生で舞台上演を体験した人もある年齢以上に限られてくる。
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気質の継承と形式の模倣

2006-08-06 | アウトドーア・環境
南チロルとドロミテ地方の各々の谷の文化や気質は、複雑な歴史的な推移を今に至るまで顕著化させている。その中でもバイエルン地方と同じ文化圏に纏められる地域があることも事実で、その概念で以って人種や言語を超えた共通の構成を言うらしい。ハプスブルク家の権勢のみをその社会的影響力の構成要素として捉えるのは、誤りという事のようである。

そうした見解に沿って、それらの地域の気質を直感的に感じられるのは偽らざる事実である。何をさておいても、あれらの岩山や風景は有史以来存在しているという前提がある。牧草地の利用や森の形成などは、住民達が形作ってきたものであったとしても、本質的な風景には変わりない。

人々がああいう岩峰を身近に臨んで受ける印象とか、何らかの動機付けは特別なものであり、一種の熱狂と言い表した。アルピニズムの歴史をここでも過日考えたが、この地域におけるそれは独自のものがある。

チヴェッタ峰に、青年メスナーが友人と目指した1957年開発の名ルートの再登攀の文章を読み、その写真を見ると、その独自の精神がより具体的に読み取れる。岩壁の根元の湖畔にテントを張って、900メートルの高度差に40本しか残置ハーケンしかないと説明される傾斜の大変強い壁に挑む。決して標高からも気候からもそれほど厳しい条件ではないが、その装備や壁でのビヴァークを思うとなる程厳しいと思わせる。

特に登攀靴などは、最近のように軽くフリークライミングに合わされたものでない。現在ではその違いさえ十分に知られなくなってきている。関連した話題として、アイガー北壁を当時の装備で登る企画があったが、その趣旨は「同じ対象を現代のレジャーフリークライマーが辿ったとしても決して過去の栄光と同様な価値がある筈が無いのは当然と言う結論」を薄っすらとあぶり出す事にあった。

コダーイ小屋戸口での新ルート開拓争いの幕開けやボルトの使用や直登ルート取りへの古典的な見解を読むと1960年代の後半には既に明快な哲学がその地に存在していたのが想像出来る。

これは一例としての文献であって、実際はその地域でのアルピニズムの大きな歴史の中でのたった一瞬の出来事でしかない。それは、其々の山小屋に展示されている歴史を見ても分かる。上では小屋の女将の協力にも触れられているが、社会基盤としての認知が存在する。その辺りの気風がこの土地に固有の精神でもある。全てが観光化してレジャー化した現代において、自然にこうした気風が残っているのは、恐らく遺伝子情報のように伝えられて継承されているものがあるからだろう。
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中庸な道の歴史

2006-08-05 | アウトドーア・環境
ドロミテの気質を考える前に、ヴィア・フェラータと云う登路についてその歴史などから意義をもう一度正してみたい。

1492年に措けるグルノーブル南のモンテギーユがシャルル八世の命で梯子などを使って登られたのが、事初めと云われる。それに関しての出典はフランソワ・ラベレの「四つの書」となっている。また初登頂をした一行のドムジュリアンのグルノーブル議会長に当てた手紙もアルピニズムの歴史書に紹介されている。そこには王付きの梯子操作人も身分の高い僧侶達に混ざって頂上にいるなどとと書かれている。頂上台地には、カモシカの群れを見つけている。

その後は19世紀の中盤になって初めてこのような登路の設置が盛んになっている。ダッハシュタインのものなどがその初期の時代に当たるようだ。既に英国人などのアルピニズムへの動きは始まっている。

ドロミテ山群の南部に目を向けると、神聖ローマ帝国の一部として独自の社会的発展をして、ナポレオンの時世まで続いた。第一次世界大戦での連合国イタリア側への寄与とその山岳戦闘でこれらの峰の軍事的重要性が見直されて、これらの登路は補給路としても大きな価値を持つ事になる。

さてこれらの歴史的な意味合いとは別に、現在では山岳ツーリズムの大きな助力にもなっているようで、ラインハルト・メスナーのように反対派も少なくないようである。但し、それらの幾つかは歴史的な意味合いも持ちえているので、一概に全てを否定する事は出来ないであろう。そうなればアルピニズムの歴史自体の否定にも繋がるからである。

さて、現代におけるスポーツクライミングの傾向からすれば、これらの人工的な手掛かりの設置はレジャーとしての新たなスポーツ的観点を呼び起こす反面、山岳における安全性や設備の完備などはなんら保証されるわけでもなく、あくまでも中庸な道と云わざるを得ない。

個人的な感想を付け加えるならば、一千メートルを超える岩壁を一気に登る機会は熟練した登山者でもなかなかなく、そうした経験としての意義は大きい。その反面、岩の小さな突起に足をかけて、その心地を楽しめない限りなんとも単純な作業の繰り返しとなるばかりでなく上体が疲れるだけなので、これほどつまらないスポーツも無いであろう。普通にクライミングをするのでなければ違うルートを辿る方がよっぽど楽しいという場合もありそうである。

数年前に新雪が付いて凍りついたマルモラータの西稜を何ら特別な装備無しで頂上まで辿ったことがある。このルートも19世紀の終わりに初の本格的登路として設置されたものであるが、氷壁あり氷河ありで、ドロミテの最高峰へと導くものであった。こうして回想すると、そのような歴史的な登路は、通常のヴィア・フェラータと比べて、個性が違い、遥かに面白い事に気がつく。

クレッターシュタイグと云う方法は、老若男女が広くそれなりに楽しめるが、個人的にはクレッターシュタイグセットを用意してまでそれ自体を目標としようとは思わない。何らかの他の目的を持つかそれとも単独で簡単に遊べるぐらいに考えている方が苦にならない。
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白い花は黄色かった

2006-08-04 | アウトドーア・環境
高山植物が特に印象に残った。調べてみるとなるほど、石灰質の地盤のドロミテのような地域では、これらの植物が特別に多彩のようである。

ドロミテは、東部アルプスに属して、且つ緯度がヴェニスなどと殆ど変わらない。この事から植生にも特徴があって、その森林限界は高目となっている。実際にあの辺りの峠を車で越えたりすると、その南側と北側でも幾分風景が異なるのに気がつく。

其処では標高1800メートル付近まで森林があるのも不思議ではない。それに続いて、幾らかの草付等が標高2500メートルまで現れる。其処から其処を越えた辺りから本格的な高山植物の領域となる。

高山植物の内でも、ガレた土壌に藻や地衣、コケなどが生えたあとに根を生やすのがパイオニアと呼ばれて、地盤によってその種が決定されるて最初の群が形成される。それ以降は、気候によっての棲み分けがされるようである。

リナリア・アルピナチェラスティウム・ラティフォリウムヴィオラ・チィエニシアフゥチニシア・アルピナラヌンクルス・グラチアリスなどが典型的な石灰のガレに住みつく植物となる。

それらとは別にナルデゥス・ステゥリクタと云われる芝の這える所に引き続き群落を形成する。これらは、その環境によって種別が異なってくると云うことだろう。そうした所に、エーデルヴァイスやエンツィアンなども見つける事が出来る。

本を紐解くと、エーデルワイスなどは氷河期の終わりにシベリアから移住してきたとあり、学問的にそれらの進化の歴史は低地から高地への移動などと共に興味深いものであるようだ。

この分野では16世紀のチューリッヒの植物学者コンラード・ガスナーからパリのガストン・ボニエールへの「進化の歴史」が語られる。そして中世を超えてリネーやハラーの時代までは、「現状に至る創造の特性が固定されていた」と考えられていた訳で、我々が知る進化は考慮されていない。

しかし、その遠大な時系軸における進化とは別に氷河期が終わった一万五千年前以上の植物の移動も考慮して行かなければならないことは触れた通りである。

こうした学術的考察の助けを借りて、ガレの何処其処で見かけた高山植物の紫外線を強く浴びた色合いや風や乾燥に耐えるその形状を脳裏に探し当て、芝の中に群生して咲き乱れる高山植物を思い浮かべる。

因みにエーデルヴァイスの花は黄色で白く星状に広がった部分は花ではないと初めて知った。色違いの星状の部分の異種とは一対何なのだろうか?

ヒマラヤの5400メートル付近まで生息すると云うアルプスを代表するこの花であるが、意外とあまりお目にかかる事はない。因みにカウカス山脈には生息しないと云う。


参照:
遥か昔の空の下で [ アウトドーア・環境 ] / 2006-07-19
ドロミテ行備忘録二日 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-07-23
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乾杯、アルコールシャワー

2006-08-03 | その他アルコール
流体の補給について考察する。山小屋で雑誌を捲っているとカロリー別の効率の良い食事がピラミッド型に図示されていた。最上位にある液体を、我が意を得たりと、その後の体調維持に欠かさず補給した。

補給最の多いのがビールである。樽だしヴァイツェンまで、それも地元のフォルストブロイライ製造となると、躊躇する理由は無い。通常のビールも良い味で更にジョッキーが傾く。一日に1,5リッターは最低補給している。

ビールは、南チロル産でどちらかと言えば甘口傾向にある。ホップを抑えてモルトの甘みを出しているようで好ましかった。

それに劣らず、地元の赤ワインも毎晩三リッターほどは皆で注文しただろうか。白ワインを付け足すこともあった。赤ワインはカルテラゼーワインの一種であったが、どれも嫌な甘みはなかった。イタリア料理にはこれまた旨い。またグラッパを初めとするシュナップス類も適当に飲んでいる。

これだけでカロリーは十分に補給されている。反対にアルコールが翌日に残るような傾向は一切無く、これは飲料の質の良さを語っているのだろう。

そして今回は個人的に可能な限り、一リッターのハーブティーを寝床に持ち込んだ。勿論アルコール分解時の水分の補強であると共に、翌日の炎天下での効果的な乾き対策でもあった。これは功を奏したようで、長い夜の復寝を助けた。当然のことながら、価格の張るレモンつき紅茶を何杯も注文しないで良い経済的効果も大きい。

実際の炎天下での行動で十代以来最も汗を掻いたかと思わせる連日であったが、行動中補給する水の量は一リッターで事足りた。隊の中で最も体調の悪かった仲間が2,5リッターの水を担いで喘いでいるのと比べると対象的であった。その量はまさに「シャワーでも浴びましょうか?」と言わせたものである。

アルコールは、高所では良く回ると言うが、体調を壊して歯止めが効かなくなった意外あまり悪い経験はない。そのときも消化の問題やらで寧ろ内臓器官と交感神経に問題があったと回顧する。そうでなくて幾らでもアルコールがすすむと言う状況は大変体調が良い事を物語っているようである。

それにしても一日4リットル近い水分を補給しているのは、それだけ排出している訳である。
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