Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

矮小化された神話の英霊

2006-08-21 | 文学・思想
神話と言えば、先日の靖国参拝の新聞記事を見て、こんなに安っぽい神話があったのかと思わせた。FAZ新聞の東京特派員は、数ヶ月前からソウルに移っているようで、特別に東京へ飛んで靖国問題を取材しているようだ。

記事内容は期待していなかったが、幾つかの点で上手に纏めている。先ず興味を引いたのは2002年に完成した併設の展示館施設の紹介である。戦闘機や対空砲、特攻隊の展示は、「靖国は平和への記念碑」であると言う言明に合致しないとしていて、少なくともこのような国粋的で弁明に満ちた展示は「記念碑」とは切り離されるべきだとする。

序ながら、読者の反応には米国やフランスの類似の展示も似通っておりことさら上げる必要は無いという、相対化した意見もある。

もう一点、米国側の多大な関心としてコロンビア大学の教授であるジェラード・カーチス上院議員の見解を採りあげている。実際、上のような展示の善意の根拠となるほど、日本の侵略・植民地活動はアジア解放として充分に認知されているのだろうか?これは、プロシアのチェコやポーランドでの植民活動にも似ていて、双方の認知が必要である。これはパールハーバー攻撃の是非を問う時にも重要な視点となるのだろう。

この記事は「なぜにこれほどまでに靖国に心を奪われる」を副題をとして、老若男女が閣僚に倣って頭を垂れる写真が載っている。どこか敗戦の年の写真のように大変滑稽に見受けられる。それも彼ら彼女らは肩から政治的圧力団体を示す遺族会の襷をしている訳でもなく、一体この人たちはどういう人たちだろうかと思わせる。

今やこの中に、死者行方不明数比率で四対一となる各々、軍属の二百四十六万六千三百四十四人、民間人の六十万人ほどの故人の権利を語るべき直接の利害関係者がある遺族がどれほどいるのだろうか?年末年始の参拝に準じる年中行事となりつつあるのだろうか。

戦後の民族主義を考える場合、どうしても三島由紀夫などの文化人の卓越した表現が思い起こされるが、現状はどうしようもなく薄っぺらで詰まらないものになっていることか。宗教どころか文化として扱われるのすらおこがましい。どうもこうした神話ものは、白昼の強い光の下にさらされると色褪せてしまうらしい。

現代においては、寺社仏閣やそれを取り巻く環境への神聖なイメージが枯渇してきているだけでなく、そのような精神生活自体が営まれないところでは、いかなる神聖さも荘厳さも存在しない。それを取巻く知的な批判もなければ、そうしたイメージへの芸術的洗練もなされないので、ますます陳腐なものとなっていく。

そもそも、明治革命の近代化の中で、お門違いの侍精神やナイーブな神道や尊皇攘夷の思想が富国強兵の軍事社会体制の枠組みとして利用された滑稽さがあったからこそ、三島はカミカゼを待ち続け待ち望む者とその空虚な覚醒を1272年の世界を舞台に短編「海と夕焼け」に描いている。

想像力やイメージを枯渇させるものは、文化の政治的利用であり、陳腐な贋物文化への啓蒙活動なのである。神話はもっと身近に大切にしなければいけませんよ、と言う教えだろうか。



参照:
恥の意識のモラール [ 文化一般 ] / 2006-05-21
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
78歳の夏、グラスの一石 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-15
コメント (5)
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